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バー ステイツ コラム BIBLIOTHEQUE 千一夜 by HIDETO.K
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Vol.0094:「文學」を"書く"ということ。 投稿者:HIDETO.K 投稿日:2006/09/21(Thu) 00:11 No.460  

"芸術家"との邂逅。

手を"血豆"だらけにして、日々格闘しているクリエイタ−。

「無」から次々と生まれてくる華たち.....




まさに"覚醒".....私の中で惰眠を貪っていたデーモン(創作の衝動の本能)が久々に揺り動かされた。



私は、「文章」を書くのが好きだ。

肉筆の「手紙」もよく書く。
普段は、愛用の「モンブラン・マイスターシュテック No.149 MONT BLANC Meisterstueck No.149」(万年筆)と「丸善」の便箋を使用することが多いが、毛筆も好きである。



これまでに、私が「未定稿」の状態で、純文学原稿用の筺底に収めているのは、8作品。そのうち、近い内に"(完結した)形"になりそうなのが2作品。

今回の"きっかけ(邂逅)"をいいバネにして、これらを一気呵成に書き上げてみようと改めて決意を固める。

*ちなみに、これまで私が上梓させていただいた(世に問うた)作品は一作品あるが、これは、「音楽評論」本なので、私の本懐を遂げているとはいえない。




「美」と「醜」。「善」と「悪」。「光」と「闇」。「生」と「死」.....

「芸術(快楽)至上」のデーモンはそれらの価値を簡単に転倒させてしまう。

「絶対美」。「絶対悪」。「エロス」と「タナトス」。「虚無」etc.は三島由紀夫氏も指摘するようにかなりいやらしい大問題だが、私なりにこだわってゆきたいと思っている。




最近、「未定稿」の状態で、純文学原稿用の筺底に埋もれていた上記2作品の執筆を再開.....


このところ、創作に没頭。


小説家、画描き、作曲家、彫刻家、デザイナー.....


「芸術家」とは


何もないカオスから、"命"(自分の身) を削って「美」を創出するひとびと.....





迸り出る"赤裸々な自分"。



創作とは「絶望」か?



「芸術」は人を殺すか?




"震えながら。孤独な暗闇のなかで、動けぬまま、立ちつくしている。身ぶりをしない懇願者の姿勢で。懇願。しかし手を合わせる身ぶりはなく。希望などもちろん抱かずに。途方に暮れ、懇願し、盲たまま、半死の状態で。堆肥の上のヨブ[旧約聖書中の人物で善人でありながら神から苛酷な試練を受けた]のように、しかし何も想像せずに、夜の帳が下りて、武器とてなく。途方に暮れている、そのことだけを知りながら。"
『内的体験』「刑苦」ジョルジュ・バタイユ(酒井健訳)

的、《非−知の夜》のとばりがおりてくる。


《推論的な現実の消滅》.....


わたしには、バタイユさながら、


交わりを求める生命の流れが様々な局面で襲ってくる。





晴れた日の田園の風景から、あるいはすさまじいエロティシズムから、追憶の中に現れた月明かりの禅寺の光景から、デアボリックな宝飾デザインから.....押し寄せてくる。




抱擁しあっているのは『空の青』のトロップマンとドロテアの肉体だけではない。


この世の生命界は、深奥においては、みな交接しあっている。


星空と墓地、青空と大地.....


浜辺の砂が、海水と、風と、貝たちと交わりを繰り返しているように。


"交わり(コミュニケーション)"の光を、私は求める。


"交わり(コミュニケーション)"の光が、私に降臨する。




*脱稿したあかつきには、つてのある新潮社の編集部に持ち込むか、『文學界』(文藝春秋社)の「新人賞」に応募して、世に問うてみるつもりです。



小説家、画描き、作曲家、彫刻家、デザイナー.....


「芸術家」の真価を評価するのは「世間」ですからネ。




画像は、深夜の執筆のパートナーグアテマラ産ラム「ロンサカパ センテナリオ 23年 RON ZACAPA CENTENARIO 23」&インド産ラム「オールド・モンク OLD MONK」、愛用の原稿用紙とマイスターシュテック No.149



楽しみにしています。 states - 2006/09/21(Thu) 11:23 No.461  

いつか君が、東京への帰途、
熊本空港のレストランにて
とつとつと語りはじめたことを思い出しております。
いよいよ出帆ですね。
はらむ風は豊かですから、悠々と書き進めてください。


Vol.0093:「静謐 seihitsu」 投稿者:HIDETO.K 投稿日:2006/09/17(Sun) 17:38 No.456  

ふと「静謐」というコトバの意味を考えてみる.....


それは、いま自分が「静謐」な環境に憬れているからかもしれない.....「静謐」とは如何?


「静謐」とは「安定」とも「保守」とも「受動」とも、それらのどれともリンクしていないと思う。


「真如」のしずけさ.....『天人五衰』(『豊饒の海』第四巻)三島由紀夫の結びの文章に漂う「寂寞」、それこそ「静謐」だと思う。



「静謐」というコトバを目にすると、なぜか『大鏡』の"有明の月のいみじう明かかりければ、「顕証」にこそありつれ"などと使う、「顕証 kesou」というコトバを連想する。


そのコトバには"蒼い焔"をめらめらと揺蕩わせ蒼白の月光を投げかける「月」の"静の美"が揺曳している.....


妖艶で、冷たく、かつ魔道的(デアボリック)な何かがそこにはある。


famme fatale.....死の舞踏を踊る"サロメ"の美.....


美=エロティシズムの爆発(快楽/恍惚)の対向には、常に死の静謐が待っている。



死の静謐が訪れる前に、.....完全燃焼しようとする自分がいる。



HIDETO.K流"生きざま"を、音楽で表わしたらMozartのK.397なんかピッタリなんだろうなwww (苦笑)


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永い沈默の對坐ののちに、門跡はしめやかに手を鳴らした。御附弟があらわれて、閾際に指をついた。

「折角おいでやしたのやし、南のお庭でも御覧に入れませう。私がな、御案内するよつて」

その案内する門跡の手を、さらに御附弟が引くのである。本多は操られるやうに立つて、二人に從つて、暗い書院を過つた。

御附弟が障子をあけ、縁先へ本多を導いた。広大な南の御庭が、たちまち一望の裡にあつた。

一面の芝の庭が、たちまち裏山を背景にして、烈しい夏の日にかがやいてゐる。

「今日は朝から郭公が鳴いておりました」

とまだ若い御附弟が言つた。

芝のはずれに楓を主とした庭木があり、裏山へみちびく枝折戸も見える。夏というのに紅葉している楓もあつて、青葉のなかに炎を點じている。

庭石もあちこちにのびやかに配され、石の際に花咲いた撫子がつつましい。

左方の一角に古い車井戸が見え、又、見るからに日に熟して、腰かければ肌を灼くきそうな青緑の陶の榻が、芝生の中程に据ゑられてゐる。そして裏山の頂きの青空には、夏雲がまばゆい肩を聳やかしてゐる。

これといつて奇功のない、閑雅な、明るくひらいた御庭である。数珠を繰るような蝉の聲がここを領してゐる。

そのほかには何一つ音とてなく、寂寞を極めてゐる。この庭には何もない。記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまったと本多は思った。

庭は夏の日ざかりの日を浴びてしんとしてゐる。.....


『豊饒の海』完。
昭和四十五年十一月二十五日
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『天人五衰』三島由紀夫



■「円照寺」 HIDETO.K - 2006/09/17(Sun) 17:45 No.457  


●『天人五衰』三島由紀夫の「月修寺」のモデルとなった「円照寺」の門前。



■『天人五衰』三島由紀夫 HIDETO.K - 2006/09/17(Sun) 17:47 No.458  


■『天人五衰』三島由紀夫(初版本)



Vol.0092:秋....."能"、"琵琶"に沈潜する。 投稿者:HIDETO.K 投稿日:2006/09/16(Sat) 11:44 No.452  

本日9/16(土)、青山の「銕仙会能楽研修所」で「琵琶」と現代「能」を鑑賞してきます。
http://www.jade.dti.ne.jp/~tessen/

(銕仙会サイドのプロデュースではないので、銕仙会の9月の公式公演日程にはアップされておりません。)

第一部:『源氏物語』時代の音楽

 楽琵琶による秘曲『揚真操』、『啄木』

 琵琶:岩佐鶴丈(岩佐さんはわたしの定番観劇の『平家物語の夕べ』の琵琶奏者でもあります。今回のそちらでの演目は『祇園精舎』)
 http://www.kakujyou.com/


第二部:『あくがれいづる魂 〜六条御息所物語〜』

 秋好中宮/六条御息所:光本幸子(独り芝居)
 http://www.shochiku-enta.co.jp/profile_mitsu_m.html

 能管:藤田六郎兵衛
 脚本・演出:笠井賢一

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三島由紀夫氏は、下記のように指摘しています。

世阿弥の「花」などから考えても、日本の文藝は、


まどい\  わび\ 
     →    → あはれ → 花
なげき/  さび/ 


というように「花」がすべての上に咲きほこっているものと考え、その花の具現こそ「都」だという風に考える。
 

三島由紀夫氏は、書簡のなかで清水文雄氏の言だと断わっておりますが、いずれにしても"卓見"ですね。


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ある意味"親父代わり"でもあり"兄貴"でもあり、ビジネスの"相談役"でもある某社長との観劇です。

某社長はとにかく、多忙!!
タフ!!
そして、人格者!!

一緒にいると、そのオーラに癒される。覇気が出る。
久々の観劇、会食なので超楽しみ!!


G1馬の馬主でもあるので、週末は競馬場の馬主席かゴルフ場にいます。

たまに携帯に突然「(麻雀の)"面子割れ"したから、ちょっとHIDETO来てくれ!!」ってかかってきて、東銀座の馴染みの雀荘に駆けつけると.....
錚々たる歌舞伎役者の方々や篳篥等の邦楽器奏者がいらっしゃるわけで....."地獄ルールの麻雀"(笑)が始まるわけ....



わたしと代々木上原(渋谷区)の某社長の自宅は近いので、よく代々木上原でビジネス談義をしてる。

本日某社長は、元・衆議院議員の糸山英太郎氏との打ち合わせのあと、青山(表参道)でわたしと合流。

何故なら某社長は、石原慎太郎東京都知事同様、「糸山政経塾」に入塾しているとのこと。



注)ちなみに、「糸山英太郎」氏とは(皆さんはよくご存じだと思いますが).....

●概略

中曽根康弘元内閣総理大臣の秘書を経て、1974年、第10回参議院議員通常選挙に自由民主党から全国区に出馬、32歳で参議院議員に初当選する。

任期が満了した1980年の参院選には、一時期埼玉県選挙区からの出馬を検討していたが、宇野亨の選挙違反事件・浜田幸一の金銭スキャンダルが問題となっていたこともあって出馬を断念。1983年の第37回衆議院議員総選挙から衆議院議員に転身、一度の落選を挟んで3回当選。1996年、任期途中に辞職した。

新日本観光等の会長職に就いており、東京都港区にある自社ビルの「ザ・イトヤマタワー」には、自らも居住する。
「糸山政経塾」を主宰し湘南工科大学の名誉総長及び名誉教授も務める。

「日本航空 JAL」の個人筆頭株主(要は、「日本航空」の事実上の社長です)であり、エグゼクティブアドバイザーでもある。
東京都知事の石原慎太郎とは親友である。

●詳細版

昭和17年6月4日生

新日本観光株式会社代表取締役会長・社長
ジャパンフードマネジメント株式会社代表取締役会長
ジャパンエステートサービス株式会社代表取締役会長
ギャラリーイトヤマ株式会社代表取締役会長
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株式会社日本航空特別顧問(エグゼクティブアドバイザー)
学校法人湘南工科大学総長・名誉教授
ドイツ・カイザースラウテルン大学名誉国際顧問
上海交通大学終身顧問教授
NPO法人新日本学術交流協会糸山政経塾塾長



◇経済・教育実績

昭和44年
8月
新日本企画株式会社代表取締役

昭和56年
4月
学校法人湘南工科大学理事長

7月
学校法人湘南工科大学学長

昭和57年
10月
新日本観光株式会社代表取締役会長

平成14年
10月
株式会社日本航空特別顧問(エグゼクティブアドバイザー)

平成17年
3月 財団法人糸山財団理事長

◇名誉職

昭和45年
6月
紺綬褒章受賞

昭和62年
8月
アメリカ・マイアミ市名誉市民

平成01年
1月
アフリカ・ザイール共和国名誉国民

平成08年
6月
ドイツ・カイザースラウテルン大学名誉国際顧問

平成09年
3月
国会議員永年功労章受賞

平成10年
3月
湘南工科大学名誉工学博士

平成15年
9月
上海交通大学終身顧問教授

平成16年
4月
湘南工科大学名誉総長・名誉教授

平成17年
5月
湘南工科大学総長・名誉教授


◇社会活動

アフリカ・ザンビア大学糸山英太郎奨学基金、セイシェル経済協力援助基金、スリランカ福祉協力援助基金、カンボジア病院建設基金の設立


◇その他

著書

「怪物商法」はミリオンセラー、「太陽への挑戦」もベストセラー
第3作は「日本青年革命」、第4作は「金儲け哲学」、第5作「ケンカ哲学」もベストセラー。

◇趣味

スポーツ ゴルフ・テニス・ボクシング・クルージング(150フィートの自家用船で地球3周の経験を持つ。

◇政界実績

昭和43年
4月
中曽根康弘元内閣総理大臣秘書

昭和49年
7月
全国区選出最年少参議院議員当選

昭和52年
8月
参議院自民党副幹事長(2期)

昭和53年
9月
参議院予算委員会理事(2期)

昭和54年
11月
農林水産省政務次官

昭和58年
12月
埼玉県三区選出衆議院議員当選

昭和58年
12月
建設省政務次官

昭和59年
12月
自民党国会対策委員会副委員長(第11国会)

昭和61年
1月
衆議院決算委員会筆頭理事

昭和61年
7月
埼玉県三区選出衆議院議員再選
衆議院議員運営委員会理事

昭和61年
7月
自民党道路調査会副会長
自民党農林部会副会長

昭和62年
11月
衆議院外務委員会委員長

平成05年
7月
埼玉三区選出衆議院議員再選

平成08年
3月
土井たか子衆議院議長に辞表を提出し、自ら引退

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◇世界で85番目(日本で4番目)の資産を有する大富豪とアメリカの経済誌フォーブスは発表している(2004年版・5390億円)。

●「糸山英太郎氏」オフィシャル・サイト
http://www.itoyama.org/contents/index.html

●「糸山政経塾」オフィシャル・サイト
http://www.itoyama-juku.jp/

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閑話休題。

そして、わが定番観劇の『原典で読む 平家物語の夕べ』♪

こっちは、来る10/1(日)、at 「紀尾井ホール」
http://www.kioi-hall.or.jp/

も、その某社長からのご招待♪

『原典で読む 平家物語の夕べ』(10/1)

■演目・出演

1.『祇園精舎』岩佐鶴丈(琵琶奏者)、

2.『忠度都落』、『忠度最期』下條アトム(独り芝居)
    +
  深町 純(ピアノ)、

3.『文之沙汰』、『副将被斬』緒川たまき(独り芝居)
    +
  岩佐鶴丈(琵琶奏者)、

4.『倶利迦羅落』山寺宏一(独り芝居)
    +
  放送テクノアカデミア 他




蕭蕭たる"琵琶の音"で、心を浄(あら)ってきます.....




●TOP画像は、前回(4/17)『平家物語』巻第九「小宰相身投」を熱演する若村麻由美氏。



■『原典で読む 平家物語の夕べ』 HIDETO.K - 2006/09/16(Sat) 11:49 No.453  


●前回(4/17)の公演時のパンフレット。



■能面『泥眼』 HIDETO.K - 2006/09/16(Sat) 11:54 No.454  


●能『葵上』にて六条御息所の生霊の怨念を表す「泥眼」の面。

演目は『葵上』ですが、「葵上」が主人公ではなく、「六条御息所」の生霊が主役です。



■「若村麻由美」氏オフィシャル・サイト HIDETO.K - 2006/09/16(Sat) 12:11 No.455  

●「若村麻由美」氏オフィシャル・サイト

http://www.syunca.com/

●結婚されて、ますますその"演技"と"艶"に厚みを増されましたね!


■「平家物語の夕べ」(前回「第7回」(4/17〜4/25)のクールの公演日程表です。公演は終了しています。)

平家物語を(原文のまま、さまざまな芸能と演者の技法で演じ語ります。
日本語の美しい響きとリズム、そして平家物語の仏教思想、無常感が当時の「コトバ」で体感できます。


●語り芝居『小宰相身投』:女優  若村麻由美

≪その他の出演≫
上原まり・坂田美子 ・平井真軌・渡邊容之助・茂山七五三
岡橋和彦
(地謡)薮 俊彦、島村明宏、渡邊茂人
(囃子)藤舎呂英、望月太津之、藤舎花帆、島 萌黄
(笛)福原 寛、福原友裕、福原寛菜
(尺八)設楽瞬山

演 出:笠井賢一

≪その他の演目≫
『祇園精舎』『信連』『実盛』『猫間』『敦盛最期』『僧都死去』『知章最期』『六代』


●公演日程

<東京公演>
日 時: 平成18年4月17日(月) 18時半開演(18時開場)
場 所: セルリアンタワー能楽堂
料 金: 全席指定 S席6,000円 A席5,000円

<名古屋公演>
日 時: 平成18年4月18日(火) 18時半開演(18時開場)
場 所: 名古屋能楽堂
料 金: 全席指定 S席6,000円 A席5,000円

<神戸公演>
日 時: 平成18年4月19日(水) 17時半開演(17時開場)
場 所: 湊川神社神能殿
料 金: 全席指定 S席6,000円 A席5,000円 

<奈良公演>
日 時: 平成18年4月20日(木) 18時半開演(18時開場)
場 所: 奈良県新公会堂能楽ホール
料 金: 全席指定 S席6,000円 A席5,000円

<金沢公演>
日 時: 平成18年4月22日(土) 18時半開演(18時開場)
場 所: 石川県立能楽堂
料 金: 全席指定 S席6,000円 A席5,000円

<京都公演>
日 時: 平成18年4月24日(月) 
昼の部 14時半開演(14時開場)
夜の部 18時半開演(18時開場)
場 所: 金剛能楽堂
料 金: 全席指定 S席6,000円 A席5,000円

<大阪公演>
日 時: 平成18年4月25日(火) 
昼の部 14時半開演(14時開場)
夜の部 18時半開演(18時開場)
場 所: 大槻清韻会能楽堂
料 金: 全席指定 S席6,000円 A席5,000円


※ チケットお申込み  
○電子チケットぴあ



Re: Vol.0092:秋..... states - 2006/09/19(Tue) 11:03 No.459  

花散里のような奥床しげな気の置けないひとを、
「終のおんな」にしたい気持ちも分かるような気がするし、
夕顔のような嫋々とした女を求める心もあるし。
紫の上に対するような、「育む愛」も普通の人間は
経験ができないので、羨ましいような。

しかし抑制の利かない、不如意な業腹が生霊死霊となって
「男」の周にはからずも無意識に跋扈してしまい、
「男」に絡まる女を苦しめる・・・そんな壮絶な女は、
大方の男にとって「想定外」です。

貴君はやはり、愛のバガボンド。
いろいろな「おんなのかたち」。


COFFEE BREAK.0031:堪能@「ル・コネスール le Connaisseur」 投稿者:HIDETO.K 投稿日:2006/08/26(Sat) 23:45 No.447  

先程まで、渋谷のシガー・バー「ル・コネスール le Connaisseur」で飲んでました.....

いいシガー.....いいラム酒.....いいバーテンダー.....至福のとき.....

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■本日のシガー・サイド・カクテル

1.とりあえず、「ロミオ&フリエタ ROMEO Y JULIETA Exhibicion No.4」を「ミント・ジュレップ MINT JULEP」にて。

*ミントのフレッシュな香りが、シガーの香りを引き立ててくれます。


2.ラムと黒糖焼酎好きのHIDETO.Kとしては、2ndは、グアテマラ産ラム
「ロンサカパ センテナリオ 23年 RON ZACAPA CENTENARIO 23」

*本日の◎。芳醇で深みのある味わい、最高!!のひとこと。


3.葉巻を「パルタガス セリエD No.4 Partagas Serie D No.4」に変え、3rdは、インド産ラム「オールド・モンク OLD MONK」で♪

*「オールド・モンク OLD MONK」は友人に最近教えてもらったのですが、これも◎。


■シガー・バーの「ル・コネスール le Connaisseur」は、銀座、六本木、渋谷、赤坂、丸の内にあります。
("コネスール"とは、フランス語で"こだわり"という意味。)

渋谷店はマークシティWESTの端にある一戸建て。デイタイムはカフェ営業で、オープン・テラス付きです。

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■le Connaisseur ル・コネスール

http://www.connaisseur.co.jp/connaisseur.html



「ル・コネスール le Connaisseur」 HIDETO.K - 2006/08/26(Sat) 23:47 No.448  

BARカウンター。



「ル・コネスール le Connaisseur」 HIDETO.K - 2006/08/26(Sat) 23:52 No.449  

エントランス。



「ル・コネスール le Connaisseur」 HIDETO.K - 2006/08/26(Sat) 23:56 No.450  

1stの「ミント・ジュレップ MINT JULEP」



「ル・コネスール le Connaisseur」 HIDETO.K - 2006/08/27(Sun) 00:03 No.451  

■"シガーには、是非このラムで !!"の.....

グアテマラ産ラム「ロンサカパ センテナリオ 23年 RON ZACAPA CENTENARIO 23」&インド産ラム「オールド・モンク OLD MONK」&ハイチ産ラム「バルバンクール 15年 Rhum Barbancourt 15」



Vol.0091:『蒼穹』と『闇の絵巻』 〜梶井基次郎の「闇」の現象学〜 投稿者:HIDETO.K 投稿日:2006/07/06(Thu) 06:56 No.441  

"彼の文学が与える爽やかな戦慄は、つねに個と絶対とが感覚の尖端で触れあう光景の与える戦慄である。「身を噛む孤独」と「巨大な闇」が接触しあう原風景に接した戦慄である。"

「自己の残像と自己と」中野孝次『ユリイカ VOL.5-2 特集:梶井基次郎』(青土社)(1973年2月号)P 118所収

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《三月の半ば頃私はよく山を蔽(おお)った杉林から山火事のような煙が起こるのを見た。それは日のよくあたる風の吹く、ほどよい湿度と温度が幸いする日、杉林が一斉に飛ばす花粉の煙であった。しかし今すでに受精を終わった杉林の上には褐色がかった落ちつきができていた。瓦斯(ガス)体のような若芽に煙っていた欅(けやき)や楢(なら)の緑にももう初夏らしい落ちつきがあった。闌(た)けた若葉がおのおの影を持ち瓦斯体のような夢はもうなかった。ただ溪間にむくむくと茂っている椎(しい)の樹が何回目かの発芽で黄な粉をまぶしたようになっていた。》『蒼穹』

"梶井氏は志賀直哉氏の影響を受けながら、志賀氏のような現実にたいする関心を、むしろ積極的に捨てて、その詩人的側面を強く示し、作品の一つ一つを象徴詩のような高さに高めました。この一節も一見、写実的な描写のようでありながら、彼の鋭い神経の感じた心的風景であり、実に誠実に微妙に観察していながら、その観察を超えて自然の事物が一つ一つ象徴的色彩をおびて、表現されています。この『蒼穹』という短編はドイツ・ロマンティックの作家ジャン・パウルのような趣きをもった短編で、「私」という人物が広い自然の景色の中で、雲のつきない生成のありさまを見ているうちに、その雲の溶け込んでいく青空が、深淵のように思われてきて、青空そのものが闇のように見えてくる不思議な感覚的体験を描写しただけの短編でありますが、そこにはただの自然描写を超えて、精神の深淵をのぞかせるものがあらわれています。これは作品そのものというよりは、梶井氏の文体の効果であって、氏は日本文学に、感覚的なものと私的なものとを綜合する稀れな詩人的文体を創始したのであります。"

『文章読本』三島由紀夫(中央公論社)

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■「病い」と「闇」と「タナトス」....."梶井基次郎の文学"を解き明かすキーワードです。

梶井基次郎の神経(感覚)においては、「澄みきった鋼鉄のような青空」は「漆黒の暗黒流砂の戦慄」を感じさせる"原風景"なのでしょう。

ここに梶井基次郎の文章の読後に訪れる「爽快感」と「透明感」の秘密が隠されているといえます。

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■作品『蒼穹』と『闇の絵巻』における、梶井基次郎の「闇」の現象学

●≪闇といふのもを、私はその渓間ではじめて経験した≫と梶井基次郎が書くとき、彼がそれを、「闇」体験が彼の存在の根源につながる体験であることが確実になるまでに、とことんまで経験したに違いないことは、『蒼穹』や『闇の絵巻』がわれわれに経験させるものによって明らかでしょう。われわれはそのとき、「闇」というものの持つ魅惑も戦慄も恐怖もすべて、つまり「闇」そのものを体験させられるのです。それも他に比類がないほど鮮明に、蠱惑的に。それは、たかが一感覚にすぎないではないかというなら、たしかに感覚の探求にすぎないと言ってもいいでしょう。しかしそれは、或る種の蝶の触覚のように、それによって未踏の世界そのものを知覚する、おそろしく繊細な、精緻な、こちらの存在の最深部に直結している感覚の探求です。このような探求とは、論理的操作とか思想とか、概念による認識作業が始まる以前の原探求にほかならない、すなわちあらゆる本物の思想的営為が必ずその始めに、そして最終的に持っている原体験の確認にほかならないものであります。梶井基次郎という夭折した、驚嘆すべき寡作家の文学が、いまだに少しも減磨しない知的エネルギーの源泉でありうるのは、彼の僅々二十篇あまりの、それもほとんどが数ページに足りぬ、短編というよりむしろ断片というべき文章が、どれもそういう凝縮した知覚のエッセンスからだけ成立しているからです。これ以上大きくも小さくもなりえない、必然的な結品のようにそこにあるからであります。

●例えば「闇」。梶井基次郎が闇へ突入するさいの「絶望への情熱」を記し、ひとたび昏黒の「闇」の中に身を入れたときの「深い安堵」について語るとき、この「闇」とは一体どういう性質のものでしょう。この重心の低い、無為の、受動的生活者が、「闇」の与える諸感覚を感じきわめるとき、そこに見定められた「闇」と呼ばれるなにものかは、すでに人間存在の一所与としての自然ではなくて、人間存在を包み呑みこむ、宇宙的で同時に形而上的な絶対的ななにかに変貌しています。「闇」の中で彼は山々の屋根が語る言葉を聞いているのです。そしてこのような「闇」体験は、≪療養地の身を噛むような孤独と切離せるものではない≫とも記しています。彼の文学が与える爽やかな戦慄は、つねに個と絶対とが感覚の尖端で触れあう光景の与える戦慄です。「身を噛む孤独」と「巨大な闇」が接触しあう原風景に接した戦慄であります。

≪ある夜のこと、私は私の前を私と同じように提灯(ちょうちん)なしで歩いてゆく一人の男があるのに気がついた。それは突然その家の前の明るみのなかへ姿を現わしたのだった。男は明るみを背にしてだんだん闇のなかへはいって行ってしまった。私はそれを一種異様な感動を持って眺めていた。それは、あらわに言ってみれば、「自分もしばらくすればあの男のように闇のなかへ消えてゆくのだ。誰かがここに立って見ていればやはりあんなふうに消えてゆくのであろう」という感動なのであったが、消えてゆく男の姿はそんなにも感情的であった。
≫『闇の絵巻』

●梶井文学の原点がここにあると言っていいでしょう。光の中に一瞬現れ、すたすたまた「闇」の中へ沈んでいった人物の姿、これだけの視覚的に単純で正確な記述が、人間存在の姿そのものを見たかのような感動を喚起します。われわれはすでに人間を包む巨大な「闇」を経験しており、その宇宙的「闇」への想像力を解放させてゆく人物の「孤独」を知っています。しかもその人物はその「孤独」の告白によってでも、「闇」の認識によってでも、文学の場を成立させるのではない、彼は光のもとに一瞬現れた男の姿を記し、さらに自己を自己から引き剥がしてその男の場に据えて、≪誰かがここに立って見てゐればやはり≫というふうにそれを見る複合的視力、あるいは相互交換的想像力の持ち主であります。見る我と見られた我、外界を見る自己と自己を見る外界とのこのどう動かしようもなく釣合ったところに、梶井基次郎の静謐なる光景が成立しているといえます。

●以上、「自己の残像と自己と」中野孝次『ユリイカ VOL.5-2 特集:梶井基次郎』(青土社)(1973年2月号)に拠る。

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■『蒼穹』梶井基次郎 【全文掲載】
 
ある晩春の午後、私は村の街道に沿った土堤の上で日を浴びていた。空にはながらく動かないでいる巨(おお)きな雲があった。その雲はその地球に面した側に藤紫色をした陰翳を持っていた。そしてその尨大(ぼうだい)な容積やその藤紫色をした陰翳はなにかしら茫漠とした悲哀をその雲に感じさせた。
 
私の坐っているところはこの村でも一番広いとされている平地の縁(へり)に当っていた。山と溪(たに)とがその大方の眺めであるこの村では、どこを眺めるにも勾配のついた地勢でないものはなかった。風景は絶えず重力の法則に脅かされていた。そのうえ光と影の移り変わりは溪間にいる人に始終慌しい感情を与えていた。そうした村のなかでは、溪間からは高く一日日の当るこの平地の眺めほど心を休めるものはなかった。私にとってはその終日日に倦(あ)いた眺めが悲しいまでノスタルジックだった。Lotus-eater の住んでいるといういつも午後ばかりの国---それが私には想像された。
 
雲はその平地の向うの果である雑木山の上に横たわっていた。雑木山では絶えず杜鵑(ほととぎす)が鳴いていた。その麓(ふもと)に水車が光っているばかりで、眼に見えて動くものはなく、うらうらと晩春の日が照り渡っている野山には静かな懶(ものう)さばかりが感じられた。そして雲はなにかそうした安逸の非運を悲しんでいるかのように思われるのだった。
 
私は眼を溪(たに)の方の眺めへ移した。私の眼の下ではこの半島の中心の山彙(さんい)からわけ出て来た二つの溪が落合っていた。二つの溪の間へ楔子(くさび)のように立っている山と、前方を屏風(びょうぶ)のように塞(ふさ)いでいる山との間には、一つの溪をその上流へかけて十二単衣(ひとえ)のような山褶(やまひだ)が交互に重なっていた。そしてその涯(はて)には一本の巨大な枯木をその巓(いただき)に持っている、そしてそのためにことさら感情を高めて見える一つの山が聳(そび)えていた。日は毎日二つの溪を渡ってその山へ落ちてゆくのだったが、午後早い日は今やっと一つの溪を渡ったばかりで、溪と溪との間に立っている山のこちら側が死のような影に安らっているのがことさら眼立っていた。三月の半ば頃私はよく山を蔽(おお)った杉林から山火事のような煙が起こるのを見た。それは日のよくあたる風の吹く、ほどよい湿度と温度が幸いする日、杉林が一斉に飛ばす花粉の煙であった。しかし今すでに受精を終わった杉林の上には褐色がかった落ちつきができていた。瓦斯(ガス)体のような若芽に煙っていた欅(けやき)や楢(なら)の緑にももう初夏らしい落ちつきがあった。闌(た)けた若葉がおのおの影を持ち瓦斯体のような夢はもうなかった。ただ溪間にむくむくと茂っている椎(しい)の樹が何回目かの発芽で黄な粉をまぶしたようになっていた。
 
そんな風景のうえを遊んでいた私の眼は、二つの溪をへだてた杉山の上から青空の透いて見えるほど淡い雲が絶えず湧いて来るのを見たとき、不知不識(しらずしらず)そのなかへ吸い込まれて行った。湧き出て来る雲は見る見る日に輝いた巨大な姿を空のなかへ拡げるのであった。
 
それは一方からの尽きない生成とともにゆっくり旋回していた。また一方では捲きあがって行った縁(へり)が絶えず青空のなかへ消え込むのだった。こうした雲の変化ほど見る人の心に言い知れぬ深い感情を喚(よ)び起こすものはない。その変化を見極めようとする眼はいつもその尽きない生成と消滅のなかへ溺(おぼ)れ込んでしまい、ただそればかりを繰り返しているうちに、不思議な恐怖に似た感情がだんだん胸へ昂(たか)まって来る。その感情は喉(のど)を詰らせるようになって来、身体からは平衝の感じがだんだん失われて来、もしそんな状態が長く続けば、そのある極点から、自分の身体は奈落のようなもののなかへ落ちてゆくのではないかと思われる。それも花火に仕掛けられた紙人形のように、身体のあらゆる部分から力を失って。---
 
私の眼はだんだん雲との距離を絶して、そう言った感情のなかへ巻き込まれていった。そのとき私はふとある不思議な現象に眼をとめたのである。それは雲の湧いて出るところが、影になった杉山のすぐ上からではなく、そこからかなりの距(へだた)りを持ったところにあったことであった。そこへ来てはじめて薄(うっす)り見えはじめる。それから見る見る巨(おお)きな姿をあらわす。---
 
私は空のなかに見えない山のようなものがあるのではないかというような不思議な気持に捕えられた。そのとき私の心をふとかすめたものがあった。それはこの村でのある闇夜の経験であった。
* * *
その夜私は提灯(ちょうちん)も持たないで闇の街道を歩いていた。それは途中にただ一軒の人家しかない、そしてその家の燈(ひ)がちょうど戸の節穴から写る戸外の風景のように見えている、大きな闇のなかであった。街道へその家の燈(ひ)が光を投げている。そのなかへ突然姿をあらわした人影があった。おそらくそれは私と同じように提灯を持たないで歩いていた村人だったのであろう。私は別にその人影を怪しいと思ったのではなかった。しかし私はなんということなく凝(じ)っと、その人影が闇のなかへ消えてゆくのを眺めていたのである。その人影は背に負った光をだんだん失いながら消えていった。網膜だけの感じになり、闇のなかの想像になり――ついにはその想像もふっつり断ち切れてしまった。そのとき私は『何処(どこ)』というもののない闇に微かな戦慄(せんりつ)を感じた。その闇のなかへ同じような絶望的な順序で消えてゆく私自身を想像し、言い知れぬ恐怖と情熱を覚えたのである。――
* * *
その記憶が私の心をかすめたとき、突然私は悟った。雲が湧き立っては消えてゆく空のなかにあったものは、見えない山のようなものでもなく、不思議な岬のようなものでもなく、なんという虚無! 白日の闇が満ち充ちているのだということを。私の眼は一時に視力を弱めたかのように、私は大きな不幸を感じた。濃い藍色に煙りあがったこの季節の空は、そのとき、見れば見るほどただ闇としか私には感覚できなかったのである。

●(注):上記の論考との関連で、"引用部分"をわかりやすくするために、原文には無い「 * * *」で一部括ってあります。

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■『闇の絵巻』梶井基次郎 【全文掲載】

最近東京を騒がした有名な強盗が捕まって語ったところによると、彼は何も見えない闇の中でも、一本の棒さえあれば何里でも走ることができるという。その棒を身体の前へ突き出し突き出しして、畑でもなんでも盲滅法(めくらめつぽう)に走るのだそうである。
私はこの記事を新聞で読んだとき、そぞろに爽快な戦慄を禁じることができなかった。
 
闇! そのなかではわれわれは何を見ることもできない。より深い暗黒が、いつも絶えない波動で刻々と周囲に迫って来る。こんななかでは思考することさえできない。何が在(あ)るかわからないところへ、どうして踏み込んでゆくことができよう。勿論われわれは摺(すり)足でもして進むほかはないだろう。しかしそれは苦渋や不安や恐怖の感情で一ぱいになった一歩だ。その一歩を敢然と踏み出すためには、われわれは悪魔を呼ばなければならないだろう。裸足で薊(あざみ)を踏んづける! その絶望への情熱がなくてはならないのである。
 
闇のなかでは、しかし、もしわれわれがそうした意志を捨ててしまうなら、なんという深い安堵(あんど)がわれわれを包んでくれるだろう。この感情を思い浮かべるためには、われわれが都会で経験する停電を思い出してみればいい。停電して部屋が真暗になってしまうと、われわれは最初なんともいえない不快な気持になる。しかしちょっと気を変えて呑気(のんき)でいてやれと思うと同時に、その暗闇は電燈の下では味わうことのできない爽やかな安息に変化してしまう。
 
深い闇のなかで味わうこの安息はいったいなにを意味しているのだろう。今は誰の眼からも隠れてしまった---今は巨大な闇と一如(いちにょ)になってしまった---それがこの感情なのだろうか。
 
私はながい間ある山間の療養地に暮らしていた。私はそこで闇を愛することを覚えた。昼間は金毛の兎が遊んでいるように見える谿(たに)向こうの枯萱山(かれかややま)が、夜になると黒ぐろとした畏怖(いふ)に変わった。昼間気のつかなかった樹木が異形(いぎょう)な姿を空に現わした。夜の外出には提灯(ちょうちん)を持ってゆかなければならない。月夜というものは提灯の要(い)らない夜ということを意味するのだ。---こうした発見は都会から不意に山間へ行ったものの闇を知る第一階梯(かいてい)である。
 
私は好んで闇のなかへ出かけた。溪ぎわの大きな椎(しい)の木の下に立って遠い街道の孤独の電燈を眺めた。深い闇のなかから遠い小さな光を跳めるほど感傷的なものはないだろう。私はその光がはるばるやって来て、闇のなかの私の着物をほのかに染めているのを知った。またあるところでは溪の闇へ向かって一心に石を投げた。闇のなかには一本の柚(ゆず)の木があったのである。石が葉を分けて戞々(かつかつ)と崖へ当った。ひとしきりすると闇のなかからは芳烈な柚の匂いが立ち騰(のぼ)って来た。
 
こうしたことは療養地の身を噛むような孤独と切り離せるものではない。あるときは岬の港町へゆく自動車に乗って、わざと薄暮の峠へ私自身を遺棄された。深い溪谷が闇のなかへ沈むのを見た。夜が更けて来るにしたがって黒い山々の尾根が古い地球の骨のように見えて来た。彼らは私のいるのも知らないで話し出した。
「おい。いつまで俺達はこんなことをしていなきゃならないんだ」
 
私はその療養地の一本の闇の街道を今も新しい印象で思い出す。それは溪(たに)の下流にあった一軒の旅館から上流の私の旅館まで帰って来る道であった。溪に沿って道は少し上りになっている。三四町もあったであろうか。その間にはごく稀にしか電燈がついていなかった。今でもその数が数えられるように思うくらいだ。最初の電燈は旅館から街道へ出たところにあった。夏はそれに虫がたくさん集まって来ていた。一匹の青蛙(あおがえる)がいつもそこにいた。電燈の真下の電柱にいつもぴったりと身をつけているのである。しばらく見ていると、その青蛙はきまったように後足を変なふうに曲げて、背中を掻(か)く模(ま)ねをした。電燈から落ちて来る小虫がひっつくのかもしれない。いかにも五月蠅(うるさ)そうにそれをやるのである。私はよくそれを眺めて立ち留っていた。いつも夜更(ふ)けでいかにも静かな眺めであった。
 
しばらく行くと橋がある。その上に立って溪の上流の方を眺めると、黒ぐろとした山が空の正面に立ち塞(ふさ)がっていた。その中腹に一箇の電燈がついていて、その光がなんとなしに恐怖を呼び起こした。バァーンとシンバルを叩いたような感じである。私はその橋を渡るたびに私の眼がいつもなんとなくそれを見るのを避けたがるのを感じていた。
 
下流の方を眺めると、溪が瀬をなして轟々(ごうごう)と激していた。瀬の色は闇のなかでも白い。それはまた尻(し)っ尾(ぽ)のように細くなって下流の闇のなかへ消えてゆくのである。溪の岸には杉林のなかに炭焼小屋があって、白い煙が切り立った山の闇を匍(は)い登っていた。その煙は時として街道の上へ重苦しく流れて来た。だから街道は日によってはその樹脂臭い匂いや、また日によっては馬力の通った昼間の匂いを残していたりするのだった。
 
橋を渡ると道は溪(たに)に沿ってのぼってゆく。左は溪の崖。右は山の崖。行手に白い電燈がついている。それはある旅館の裏門で、それまでのまっすぐな道である。この闇のなかでは何も考えない。それは行手の白い電燈と道のほんのわずかの勾配のためである。これは肉体に課せられた仕事を意味している。目ざす白い電燈のところまでゆきつくと、いつも私は息切れがして往来の上で立ち留った。呼吸困難。これはじっとしていなければいけないのである。用事もないのに夜更けの道に立ってぼんやり畑を眺めているようなふうをしている。しばらくするとまた歩き出す。
 
街道はそこから右へ曲がっている。溪沿いに大きな椎の木がある。その木の闇はいたって巨大だ。その下に立って見上げると、深い大きな洞窟のように見える。梟(ふくろう)の声がその奥にしていることがある。道の傍らには小さな字(あざ)があって、そこから射して来る光が、道の上に押し被(かぶ)さった竹藪(たけやぶ)を白く光らせている。竹というものは樹木のなかで最も光に感じやすい。山のなかの所どころに簇(む)れ立っている竹藪。彼らは闇のなかでもそのありかをほの白く光らせる。
 そこを過ぎると道は切り立った崖を曲がって、突如ひろびろとした展望のなかへ出る。眼界というものがこうも人の心を変えてしまうものだろうか。そこへ来ると私はいつも今が今まで私の心を占めていた煮え切らない考えを振るい落としてしまったように感じるのだ。私の心には新しい決意が生まれて来る。秘(ひそ)やかな情熱が静かに私を満たして来る。
 
この闇の風景は単純な力強い構成を持っている。左手には溪の向こうを夜空を劃(くぎ)って爬虫(はちゅう)の背のような尾根が蜿蜒(えんえん)と匍(は)っている。黒ぐろとした杉林がパノラマのように廻(めぐ)って私の行手を深い闇で包んでしまっている。その前景のなかへ、右手からも杉山が傾きかかる。この山に沿って街道がゆく。行手は如何(いかん)ともすることのできない闇である。この闇へ達するまでの距離は百米(メートル)あまりもあろうか。その途中にたった一軒だけ人家があって、楓(かえで)のような木が幻燈のように光を浴びている。大きな闇の風景のなかでただそこだけがこんもり明るい。街道もその前では少し明るくなっている。しかし前方の闇はそのためになおいっそう暗くなり街道を呑(の)み込んでしまう。
* * *
ある夜のこと、私は私の前を私と同じように提灯(ちょうちん)なしで歩いてゆく一人の男があるのに気がついた。それは突然その家の前の明るみのなかへ姿を現わしたのだった。男は明るみを背にしてだんだん闇のなかへはいって行ってしまった。私はそれを一種異様な感動を持って眺めていた。それは、あらわに言ってみれば、「自分もしばらくすればあの男のように闇のなかへ消えてゆくのだ。誰かがここに立って見ていればやはりあんなふうに消えてゆくのであろう」という感動なのであったが、消えてゆく男の姿はそんなにも感情的であった。
* * * 
その家の前を過ぎると、道は溪(たに)に沿った杉林にさしかかる。右手は切り立った崖である。それが闇のなかである。なんという暗い道だろう。そこは月夜でも暗い。歩くにしたがって暗さが増してゆく。不安が高まって来る。それがある極点にまで達しようとするとき、突如ごおっという音が足下から起こる。それは杉林の切れ目だ。ちょうど真下に当る瀬の音がにわかにその切れ目から押し寄せて来るのだ。その音は凄(すさ)まじい。気持にはある混乱が起こって来る。大工とか左官とかそういった連中が溪のなかで不可思議な酒盛りをしていて、その高笑いがワッハッハ、ワッハッハときこえて来るような気のすることがある。心が捩(ね)じ切れそうになる。するとそのとたん、道の行手にパッと一箇の電燈が見える。闇はそこで終わったのだ。
 
もうそこからは私の部屋は近い。電燈の見えるところが崖の曲り角で、そこを曲がればすぐ私の旅館だ。電燈を見ながらゆく道は心易い。私は最後の安堵(あんど)とともにその道を歩いてゆく。しかし霧の夜がある。霧にかすんでしまって電燈が遠くに見える。行っても行ってもそこまで行きつけないような不思議な気持になるのだ。いつもの安堵が消えてしまう。遠い遠い気持になる。
 闇の風景はいつ見ても変わらない。私はこの道を何度ということなく歩いた。いつも同じ空想を繰り返した。印象が心に刻みつけられてしまった。街道の闇、闇よりも濃い樹木の闇の姿はいまも私の眼に残っている。それを思い浮かべるたびに、私は今いる都会のどこへ行っても電燈の光の流れている夜を薄っ汚なく思わないではいられないのである。

●(注):上記の論考との関連で、"引用部分"をわかりやすくするために、原文には無い「 * * *」で一部括ってあります。
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画像は、『蒼穹』、『闇の絵巻』所収の『梶井基次郎全集』(全4巻) (筑摩書房)です。



■梶井基次郎(かじい もとじろう)・・・明治34年(1901)年2月17日〜昭和7年(1932)2月24日 HIDETO.K - 2006/07/06(Thu) 07:02 No.442  

■「梶井基次郎」略歴

◇明治34年(1901)0歳

2月17日、大阪市西区土佐堀通5丁目に、父宗太郎、母ひさの次男として生まれる。父は大阪の商家の出で、当時は安田運搬所勤務。母も大阪の商家に養女として育ち、幼稚園の保母をしていた。5歳年上の姉富士、2歳年上の兄謙一がいた。父方の祖母、母方の祖父と同居。9月、異母弟網干順三生まれる。

◇明治35年(1902)1歳
◇明治36年(1903)2歳
◇明治37年(1904)3歳

2月、日露開戦により、安田運搬所は武器の運搬で潤い、父は茶屋に居続けるなど家庭をかえりみなくなる。

◇明治38年(1905)4歳

10月、西区江戸堀南通4丁目に転居。

◇明治39年(1906)5歳

1月、次弟・芳雄生まれる。

◇明治40年(1907)6歳

4月、江戸堀尋常小学校入学。母、保母をやめる。教育に熱心で、子供に古典の和歌や物語を読み聞かせる。

◇明治41年(1908)7歳

1月、急性腎炎で危うく死にかける。三弟勇生まれる。

◇明治42年(1909)8歳

12月、父が安田商事合名会社東京本店に転勤。一家は上京して、芝区二本榎西町に移る。(習作『不幸』にこの頃の回想がある)父は会社の処遇に不満で、酒びたりになり、また順三親子と養祖母を上京させ、面倒をみたため、家計は窮迫した。

◇明治43年(1910)9歳

1月、私立頌栄尋常小学校3年生に転入、兄謙一は5年生に転入。(習作『凧』にこの頃の生活の一面が描かれている)学校では英語教育が行われ、巌谷小波がお伽の講話を行っていた。9月、末弟良吉生まれる。

◇明治44年(1911)10歳

5月、父が安田系の鳥羽造船所営業部長となり、一家は三重県志摩郡鳥羽町の社宅へ。(『過古』に転居時の情景が描かれている)鳥羽尋常小学校5年生に転入。生活にも自然にも恵まれた日々。(遺稿「海」にこの頃の回想がある)この年順三の母親が病没し、順三と養祖母は一家に同居。

◇明治45年・大正元年(1912)11歳

4月、6年生に進級、級長となる。

◇大正2年(1913)12歳

3月、全甲の成績で小学校を卒業。4月、兄と同じ三重県立第四中学校に入学。宇治山田市の兄の下宿先に入る。四中で楽譜の読解を教えられる。6月、祖母、肺結核で死亡。この頃、基次郎をはじめ兄弟達に感染したらしい。10月、父が大阪の安田鉄工所に転勤、家族は大阪市北区に移る。

◇大正3年(1914)13歳
2月、家族が大阪市西区靭南通に移転。4月、大阪府立北野中学2年生に転入。兄は4年生。家から30分ほどを徒歩で通学、水泳と音楽が好きな少年だった。この年、初恋の少女・池田ツヤに会ったか。

◇大正4年(1915)14歳
8月、弟芳雄、脊椎カリエスで死亡。9歳。(『冬の日』にこの時の様子が描かれている)

◇大正5年(1916)15歳
3月、高等小学校を終えた順三が奉公に出される。成績上位で3年生を修了後、退学して筋向かいのメリヤス問屋の丁稚となる。のち、商店の住み込み奉公に変わる。この年父が退職し、両親は家で、玉突き屋を開業。

◇大正6年(1917)16歳

4月、北野中学4年生に再入学。欠席日数増え、肺結核の兆候現れる。宇賀康・畠田敏夫・中出丑三らの優等生グループと知り合う。同校の美少年に惹かれる。この年から兄は結核性リンパ腺炎で手術を重ねる。姉・富士が宮田汎と結婚。

◇大正7年(1918)17歳

5年生の1学期に寝込む。森鴎外の『水沫集』『即興詩人』に触れ、漱石全集に親しむようになる。

◇大正8年(1919)18歳

3月、成績中位で北野中学卒業。この年兄が卒業した大阪高等工業学校を受験、失敗。(習作『帰宅前後』にこの頃の様子が描かれている)父の知人の娘で、高等女学校3年生の美少女(池田ツヤ)に憧れ、友人や兄に恋の気持ちを訴える。7月、第三高等学校理科甲類に合格。8月、兄と富士登山。10月、寄宿舎北寮に入る。飯島正・中谷孝雄と同室。音楽や文学に親しみ、授業に出なくなる。書簡に梶井漱石・梶井潤二郎の署名が見える。

◇大正9年(1920)19歳

4月、上京区浄土寺町に下宿。「白樺」派に親しむようになる。5月、肋膜炎で発熱、帰阪。6月、休学届を出す。7月、落第。8月、三重県北牟婁郡の姉夫婦(ともに小学校教師)の許へ転地療養。町人の子として焦燥と自己嫌悪に苦しむ。9月、尾鷲の医者に肺尖カタルの診断を受け、軌阪。母の学業中止の勧めに憤慨。10月、父と淡路島に転地療養先を探す。11月、両親を説得、復学して寄宿舎に戻る。

◇大正10年(1921)20歳

1月、同志社の渡辺に江戸珈琲店で会い、腕力の前に弱小な自分を恥じる。(習作『カッフェー・ラーヴェン』に描かれる)3月、京都公会堂で、エルマンのヴァイオリン演奏を聴く。握手をして感激する。学制改革で第1学年修了。春休み、紀州湯崎温泉へ旅行。京都帝大医学部の学生近藤直人を知る。美術・音楽を語らい、刺激を受ける。旅行から帰り、異母妹八重子を見て衝撃を受ける。4月、自宅より汽車通学。車内で出会った同志社女専の生徒に惹かれ、英語の詩集から恋愛誌をちぎって渡したが無視された経験を、小説めいたものに書く。中谷孝雄と平林英子の同棲する部屋をしばしば訪問。6月頃、上京区吉田中大路町に下宿。夏休み友人と伊豆大島へ旅行。10月、賀川豊彦のキリスト教社会運動に打ち込む大宅壮一の態度に脅威を感じ、天職のみつけられない寂しさを嘆く。酒を飲み、初めて遊廓にあがる。11月、上京区北白川西町に下宿を移る。


◇大正11年(1922)21歳

4月、特別及第で3年生に進級。7教授免職から校長排斥運動が起こる。関心は持ったが、決議文には署名しなかった。5月、劇研究会に入る。遊興を重ねては後悔し、「自我」の確立を願う。小説を書きかけ、表現の客観性について考察したり、1顆のレモンに慰められる心を文語詩に歌う。夏休み、琵琶湖・和歌山・東京に遊ぶ。『カラマゾフの兄弟』『暗夜行路』前編など読む。秋、酒に酔っての乱行が度を超える。12月、「退廃的生活」を両親に告白、家で「謹慎生活」を送る。トルストイなどの読書盛ん。

◇大正12年(1923)22歳

前年暮れからこの年前半、自分の内面を客観化して書こうとする傾向の草稿をいくつも試みる。佐藤春夫の『都会の憂鬱』に感心する。自宅より汽車通学して卒業試験に備えようとしたが、結局試験は受けられず、落第。5月、上京区寺町通に下宿。劇研の回覧雑誌、『真素木(ましろき)』に、ポール・セザンヌをもじった瀬山極の筆名で『奎吉』を出す。7月、『矛盾の様な真実』を三高交友会誌「嶽水会雑誌」に発表。他に戯曲の試みもある。7月、四国小松島の三高水泳所に行く。8月、簡閲点呼をうけるため帰阪、父のおともで別府温泉へ旅行。9月、劇研、公演を準備。チェーホフの『熊』、シングの『鋳掛屋の結婚』(演出を担当)、山本有三の『海彦山彦』を同志社女専の女学生2名を加えて稽古。不謹慎だとする噂が広まる。10月、校長より公演中止命令。

◇大正13年(1924)23歳

1月、上京区岡崎西福之川町に下宿を移り、卒業試験に備えた。2月、卒業試験。受験後、重病を装って人力車で教授宅を廻り、嘆願。3月、特別及第で卒業。東京帝国大学文学部英文科に入学手続きのため中谷孝雄・外村茂と上京。4月、上京して、本郷3丁目の蓋平館支店に下宿を決める。同人誌の計画のため、集まりを重ねる。7月2日、異母妹八重子(3歳)が結核性脳膜炎で死亡。8月、三重県飯南郡松坂町の姉夫婦の家に遊ぶ。このときのスケッチが『城のある町にて』の素材となる。9月、上京。このころ実家は、大阪市天王寺区阿倍野町に移り、母親が小間物屋を始める。10月、同人誌の名前が「青空」と決まる。広告とりなど創刊の準備にかかる。『瀬山の話』を書き進めたが、完成できず、その中の「瀬山ナレーション」の断章を独立した作品に仕立て直して『檸檬』とする。12月、荏原郡目黒町中目黒に下宿を移る。下旬、岐阜刑務所作業部へ「青空」創刊号を、中谷・外村と受け取りに行く。秋から暮れにかけて、回想的草稿2篇。

◇大正14年(1925)24歳

1月、「青空」創刊。同人は、中谷孝雄・外村茂・小林馨・惣那吉之助・稲森宗太郎(創刊時のみ)の6人。2月、『城のある町にて』を発表。春、創作に行き詰まり、神経衰弱気味。5月、麻布区飯倉片町に下宿を替える。7月『泥濘』を発表。8月、外村・淀野隆三と宇治に遊ぶ。父と道後温泉へ、また、和歌山に近藤直人を訪ねる。10月、『路上』を発表。ジル・マルシェックスのピアノ演奏会に6日間通う。11月、書簡体小説『橡の花』を発表。淀野隆三、同人に参加。12月、大津の「青空」文芸講演会『過古』など朗読。

◇大正15年・昭和元年(1926)25歳

1月、『過古』発表。飯島正、同人に参加。中谷と熱海・箱根に遊ぶ。2月、『雑記(講演会其他)』掲載。編集当番、青空社は飯倉片町の堀内方に移る。3月、「青空」『編集後記』。4月、外村と飯倉片町の島崎藤村宅を訪ね、「青空」を献呈。三好達治、同人に参加。5月、逗子に結核療養中の飯島を見舞う。6月『雪後』発表。「同人印象記」に『惣那に就いて』『飯島に就いて』。7月、『川端康成第四短篇集「心中」を主題とせるヴァリエイション』発表。8月、『ある心の風景』発表。病状進み、血痰を見る。「新潮」より、10月新人特集への原稿依頼。9月、「青空」『編集後記』。原稿書けず新潮社へ行き、楢崎勤に違約を詫びる。10月、『Kの昇天』発表。三好達治が下宿の隣の部屋へ来る。11月、「青空」に『「新潮」10月新人号小説評』。北川冬彦・阿部知二、同人に参加。12月、『編集後記』と『青空語』。卒業を断念、転地療養のため伊豆へ。31日、湯ヶ島温泉落合楼に泊まる。

◇昭和2年(1927)26歳

1月1日、湯本館に滞在中の川端康成の紹介で、湯川屋に移る。川端が湯ヶ島を去る4月までよく訪ねる。「青空」を献呈、碁の相手をしたり、作品集『伊豆の踊子』の校正を手伝った。中谷・外村・淀野らが見舞う。2月、『冬の日』前半を発表。同じ号の三好の詩や北川の短詩『馬』を絶賛。3月、湯本館へ結核療養にきた、藤沢桓夫を知る。4月『冬の日』後半を発表。「辻馬車」5月号の中野重治の評論にうたれる。6月、「青空」は通巻28号で廃刊。7月、三好・淀野卒論執筆のため湯ヶ島へ。この夏、湯ヶ島で萩原朔太郎・広津和郎一家・尾崎士郎・宇野千代夫妻を知る。宇野千代に惹かれた。10月、帰阪して診断を受けたが、来春まで静養するようにと言われ、湯ヶ島に帰る。12月、北川らの詩誌「亜」の終刊号に『「亜」の回想』を載せる。「文芸都市」同人に消極的だが参加。

◇昭和3年(1928)27歳

1月3日、熱海に川端康成を訪ね、数日後上京、馬込村を訪れる。宇野千代をめぐる感情的もつれから尾崎士郎と悶着を起こす。このころボードレール『パリの憂鬱』とアーサー・シモンズの英訳の一部をノートに筆写。3月、『蒼穹』を「文芸都市」に発表。上旬、いったん上京。東京帝大文学部から除籍。4月、『筧の話』を「近代風景」に発表。5月、『器楽的幻覚』を「近代風景」に、『冬の蝿』を「創作月刊」に発表。上旬、上京してもとの飯倉片町の下宿へ。北川冬彦・伊藤整と同宿。(この頃の事情は伊藤整の『若い詩人の肖像』に詳しい。)7月、『ある崖上の感情』及び同人印象記『浅見淵君に就いて』を「文芸都市」に発表。下旬、東多摩郡和田堀町の中谷孝雄方に寄寓。8月、『「戦旗」「文芸戦線」7月号創作評』を「文芸都市」に発表。体の衰弱はなはだしく、毎日のように血痰を見る。9月3日、大阪へ帰る。12月、『桜の樹の下には』『器楽的幻覚』を「詩と詩論」に発表。『「青空」のことなど』を三高「嶽水会雑誌」百号記念特輯号に載せる。

◇昭和4年(1929)28歳

1月4日、父死去。享年59。『資本論』などマルクスの著作を読み始める。3月、河上肇の公演を聴く。夏、映画や海水浴に出かける。12月、北川冬彦の新刊詩集について『詩集「戦争」』を「文学」に発表。

◇昭和5年(1930)29歳

1月初旬、肺炎で寝込む。ゴーリキーなど読書盛ん。2月、武田麟太郎の『ある除夜』に刺激されて、西鶴を読み始める。下旬、母肺炎で入院。3月、初旬より床に臥せる。下旬、母腎臓炎で入院。4月、母を看護。25日、母退院。5月、弟勇が結婚、母と兵庫県伊丹の兄謙一方へ移る。6月、『愛撫』を北川・三好らの「詩・現実」創刊号に発表。9月、『闇の絵巻』を「詩・現実」第二冊に発表。28日、兄一家と共に兵庫県川辺郡稲野村字千僧に転居。

◇昭和6年(1931)30歳

1月、『交尾』を「作品」に発表。流感で寝込み、春過ぎまで寝たり起きたりの生活。創作集の出版に三好と淀野が尽力。4月、校正刷りから『橡の花』を削除。5月、作品集『檸檬』刊行。北川の推薦で「中央公論」より原稿依頼。7月、「作品」で『檸檬』の「誌上出版記念会」。8月『檸檬』の印税75円受け取る。9月、「作品」の「『スワン家の方』誌上出版記念会」に『「親近」と「拒絶」』掲載。大阪の家へ戻る。10月25日、大阪市住吉区王子町に自分の家を借りる。

◇昭和7年(1932)31歳

1月、『のんきな患者』を「中央公論」に発表。正宗白鳥が「朝日新聞」・直木三十五が「読売新聞」の時評で取上げる。2月、小林秀雄が「中央公論」で梶井基次郎を論じる。鴎外の史伝に親しむ。古い大坂の町を好むと告げる。3月、容態悪化。23日、夕刻より意識不明瞭。夜、苦痛を訴える。母に諭され、死を覚悟する。24日、午前2時永眠。僧職にあった異母弟順三が読経。25日、自宅で告別式。戒名、泰山院基道居士。南区中寺町常国寺に墓がある。

画像は、『梶井基次郎全集』(全4巻)(筑摩書房)より「第三巻」所収の「兵庫県川辺郡稲野村字千僧の兄謙一宅の庭で」(昭和6年1月、梶井謙一氏撮影)です。



■『ユリイカ VOL.5-2 特集:梶井基次郎』(青土社)(1973年2月号) HIDETO.K - 2006/07/06(Thu) 08:15 No.443  


●「自己の残像と自己と」中野孝次氏所収の『ユリイカ VOL.5-2 特集:梶井基次郎』(青土社)(1973年2月号)です。



■『檸檬・冬の日』梶井基次郎 (岩波書店)(緑87-1) HIDETO.K - 2006/07/06(Thu) 08:27 No.444  


●画像は、『蒼穹』、『闇の絵巻』をはじめ梶井基次郎作品11篇所収の『檸檬・冬の日』梶井基次郎 (岩波書店)(緑87-1)です。

*第三高等学校(現・京都大学教養学部)時代から梶井基次郎の友人で、かつフィリップ etc.の名訳で知られる仏文学者、淀野隆三氏の手で校訂されています。



■旧版『梶井基次郎全集』(全3巻) (筑摩書房) HIDETO.K - 2006/07/09(Sun) 22:08 No.445  


●画像は、1966(昭和41)年6月20日完結の、旧版『梶井基次郎全集』(全3巻) (筑摩書房)です。



Vol.0090:『源氏物語』の核心、そして『豊饒の海』へ 〜『源氏物語』「桐壺」巻に仕掛けられた4つの謎〜 投稿者:HIDETO.K 投稿日:2006/07/04(Tue) 23:47 No.440  

『源氏物語』は「恋」と「愛」の物語であり、「王権」と「政治」の物語であり、「人の生き方」と「救済」を問う物語でもあります。

日向一雅氏の指摘するように、千年にわたって読みつがれてきたその物語の根源・魅力は、冒頭の「桐壺」巻に"仕掛けられた"「4つの謎」を手がかりとして読み解き、ある程度の核心にまで肉迫することができると思います。


■『源氏物語』はどのような物語か

以下、『源氏物語』の碩学、日向一雅氏の著作『源氏物語の世界』(岩波書店)に正鵠を射た論考がございますので、以下本書に沿って進めてゆきたいと思います。

"源氏物語は恋物語、愛の物語に決まっているではないかと言われそうであるが、はたしてそうなのか。それで源氏物語を十全に理解したことになるのだろうか。本書では源氏物語は恋物語、愛の物語であると同時に、王権の物語、家の物語、あるいは諷諭の物語であるという観点から述べていきたい。それだけではなく

源氏物語は読者に意味を問いかける物語、

あなたはどう考えるかと問いかける物語であるという観点をも念頭に置いて述べていきたい。
なぜそのように言うかというと、源氏物語の中世の大変すぐれた注釈書である『河海抄』(1362年成立)が次のように言っている。

≪(源氏物語は)誠に君臣の交り、仁義の道、好色の媒(なかだち)、菩提の縁(えにし)にいたるまで、これをのせずといふことなし。そのおもむき、荘子の寓言に同じきものか。詞(ことば)の妖艶さらに比類なし。≫

古めかしい言い方であるが、これは源氏物語の広範囲にわたる内容をきわめて簡潔的確に言い当てているものであると思う。天皇と臣下との交わり、人としての正しい道、恋愛、仏道による救済という事柄が語られているというのである。言い換えれば、王権と政治、人倫、恋愛、宗教が主題とされていると理解してよい。源氏物語は恋物語、愛の物語であるというのはそのとおりであるが、もっと広く人間の生き方や政治や宗教に及ぶ内容の文学として理解すべきであるということを、『河海抄』は指摘していたのである。そのように考えるのがよいと思うし、そのような文学としてしっかりと鑑賞できることこそ源氏物語が第一級の文学であることの証拠にほかならない。"

*以上、『源氏物語の世界』日向一雅著(岩波書店)「プロローグ」より。

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■「桐壺」巻に"仕掛けられた"「4つの謎」

■第1の謎:「桐壺帝」のモデルは誰か?

源氏物語の冒頭、「桐壺帝」は《いづれの御時にか、女御、更衣あまたさぶらひたまひけるなかに、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めき給ふありけり》と始まります。

有名な一節でありますが、この「いづれの御時にか」とはどういう意味なのでしょうか。これが何を意味しているのかと、中世の注釈書は問い続けました。
「いづれの御時にか」といへる、おぼつかなし。例にひき申すべきみかどいづれぞや」(『紫明抄』1260年頃成立)と。そして、桓武・仁明・嵯峨・醍醐という各天皇について、どの天皇が「桐壺帝」の「例」としてふさわしいかを議論しています。

「桐壺帝」とはどのような天皇なのか、「桐壺帝」の時代はどのような時代なのか、どのような政治を行ったのか、なぜ《いづれの御時》とおぼめかした言い方をするのか、そのような問いかけであります。

◇Ans.1:

●天皇の愛は政治と不可分であるという現実を物語は語っています。
十二歳になった光源氏が「左大臣」家の娘「葵上」と結婚して、「桐壺帝」と「左大臣」との連合が成立し、「右大臣」家の勢力を圧倒します。ここに「桐壺帝」の王権は安定を見ます。即位後十数年が経っていました。
これ以後、譲位までは十年ほどですが、その期間が「桐壺帝」の親政が花開いた時期であります。「桐壺帝」の主催した父・一院のための朱雀院における紅葉の賀宴や、紫宸殿での桜花の宴は盛大な舞楽や詩作によって文化隆盛の時代の到来を告げていました。そういう「桐壺帝」の権力の確立を端的に示すのが「藤壷」の立后(中宮に立つ)であります。世間では東宮の母として二十余年にもなる「弘徽殿女御」を差し置いて、「藤壷」立后がすることに批判がありましたが、「桐壺帝」は今やそれを押さえる力を十分に持っていました。

●そのような「桐壺帝」の物語は歴代の天皇との関わりが深いと考えられます。

まず、第一の仮説として、『河海抄』には、「桐壺帝」は「聖王」といわれた「醍醐天皇」に準拠しており、「桐壺帝」の時代は醍醐天皇の「聖代」を模倣するように書かれているというのです。このような解釈を『延喜準拠説』といいます。
それは、「桐壺更衣」を亡くして悲しみにくれる「桐壺帝」が「宇多天皇」(887〜897在位)の作らせた「長恨歌」絵巻に親しんでいること、また「宇多天皇」が譲位に際して「醍醐天皇」に与えた『寛平御遺誡』に従って行動していることです。「宇多天皇」は「醍醐天皇」の父です。あたかも「桐壺帝」は「宇多天皇」の子であるかのように設定されています。

しかし、「桐壺帝」が「右大臣」家ときびしく対立する物語は、「醍醐天皇」との類似よりもむしろ「宇多天皇」との共通点が目立ちます。「桐壺帝」と「宇多天皇」の共通点としては、特に「末摘花」巻にふれられる『男踏歌』が注目されます。『河海抄』(1362年成立)によればこの行事は、聖武天皇の天平元年(729年)正月十四日に初めて行なわれた、由緒ある正月の年中行事でした。仁明天皇の時代まで行なわれましたが、文徳・清和・陽成・光孝の四代は中絶していたのを、「宇多天皇」が『承和(「仁明天皇」の年号)の旧風』を尋ねて再興しました。

さらに「宇多天皇」と「桐壺帝」を比較してみると、「宇多天皇」は譲位後、「醍醐天皇」に対して院政的な関わりをしたことが明らかになっていますが、「桐壺帝」も譲位後、「朱雀帝」に対して院政的な権威を振るいました。「宇多天皇」が譲位に際して「醍醐天皇」に与えた『寛平御遺誡』と桐壺帝の遺言も類似しています。
「桐壺帝」と「宇多天皇」との共通点は思いのほか多いといえます。

●「花宴」巻で、紫宸殿での桜花の宴の盛儀に感動した「左大臣」は、この盛儀が「仁明朝」を思い起こさせると言い、すぐれた漢詩文が詠まれ、みごとな舞楽が披露された桜花の宴は「聖代」の証でもありました。「仁明朝」は宮廷行事、宗教行事、文化文物の伝流、故実や先例などの広範囲にわたって宮廷文化を振興し、『承和の旧風』、『承和の故事』といわれて後代から規範とされたのであります。

物語は「桐壺帝」の時代を、「仁明天皇」、「宇多天皇」、「醍醐天皇」という三代を重ねるようにして構想していたと見ていいでしょう。こうした後代から王朝の模範と看做されていた天皇の時代を選んで「桐壺帝」の物語は構成されたと考えられます。『延喜準拠説』だけでは「桐壺帝」の物語の理解は十分ではありません。

「いづれの御時にか」.....「桐壺帝」の物語は親政を目指す若く意欲的な天皇の物語として始まったのであります。

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■第2の謎:「按察大納言」は何故「桐壺更衣」を入内させたか?

その「桐壺帝」に入内して寵愛を一身に受けたのが光源氏の母の「桐壺更衣」でありますが、「桐壺更衣」の父、「按察大納言」は《ただ、この人の宮仕への本意、かならず遂げさせたてまつれ。我れ亡くなりぬとて、口惜しう思ひくづほるな》(「桐壺」)と遺言していました。自分が死んでも更衣の入内は必ず成し遂げよ、決して諦めてはならないと。
ここで何が謎かといいますと、「按察大納言」が娘の更衣の入内を彼の死後に実行させていることです。「按察大納言」は更衣の入内に何を期待したのでしょうか。通常この時代の入内は、蘇我氏や藤原氏を例にとるまでもなく、入内した女子が皇子を生み、その皇子が天皇に即位して外戚としての権勢(政治力、圧力)を獲得することにあったと考えてよいでしょう。

「桐壺更衣」は光君三歳のときに夭折し、「按察大納言」家は後継者のいないまま断絶してしまいます。そうした家の断絶が予見できたにもかかわらず、「桐壺更衣」を入内させた「按察大納言」の意図は何だったのでしょうか。この謎解きは物語の重要な主題世界となっていきます。のちに「明石一門」の物語がその主題を引き継ぎ、「按察大納言」の遺言は物語の長編構造の起点として据えられた謎でした。

◇Ans.2:

●「明石」巻の、「明石入道」にとっては、「明石君」を光源氏と結婚させるというのが当初からの計画であったと考えられます。源氏の母「桐壺更衣」は「明石入道」といとこであり、源氏と「明石君」は又いとこであり、源氏の母方の血筋は「明石一門」であります。「明石入道」はこれを強く意識して、源氏との婚姻の実現に全身全霊を傾けました。
それはこの婚姻によって「明石一門」の再興が成ると考えたからであります。家の系図が男系原理である以上、
「明石入道」の家も「桐壺更衣」の家も断絶しますが、一門は「源家」として再興します。それも一門の女子を介して再生するのであります。これが「明石入道」の望んでいたところであると考えられます。
「明石一門」が「桐壺更衣」と「明石君」という女子を介して光源氏家として再生したという捉え方を可能にします。「明石一門」は光源氏家という新しい「源家」となって繁栄します。これが「明石入道」の悲願達成の第一段階でした。

●「明石入道」の子孫に中宮と天皇が生まれることは、その第二段階と考えてよいでしょう。「明石女御」の皇子誕生を聞いて、「明石入道」ははじめて「月日の光さやかにさし出でて世を照らす」(「若菜 上」)という夢の告げを披露しましたが、そのように子孫が王権につくことが「明石入道」の祈願の目的でした。そしてそれは「桐壺更衣」を入内させた「按察大納言」の遺言とも共通する、「明石一門」の遺志であったと考えることができます。
「按察大納言」も「明石入道」と同様に子孫に天皇が生まれることを念願したのであります。それが「按察大納言」の遺言の真意であったと理解してもよいでしょう。
光源氏が「帝王の相」を持った皇子として生まれたことは「按察大納言」の念願にかなっており、源氏が准太上天皇になったことは、完璧ではないにせよ、その成就を意味しています。

その源氏の子孫が次々に即位することで、「明石入道」と「按察大納言」の遺志は叶えられます。彼らはともに「明石一門」=BRAND NEW「源家」の共通の遺志のもとに生きたのであります。
これが、「桐壺更衣」の入内をめぐる第二の謎解きです。

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■第3の謎:光源氏の「帝王の相」とは何か?

「桐壺帝」は光君が七歳になった時、たまたま来日した高麗(こま)の相人に光君の人相を占わせました。相人は光君には「帝王の相」があるが、帝王になるとすると「乱れ憂ふること(乱憂)」が予見される。しかし決して「臣下の相」ではないと占いました。相人は光君を右大弁(右弁官局の主席)の子と聞いていましたので、その子が「帝王の相」を持つことに驚き不審に思いました。古代中国の観念で言えば、臣下の子が帝王になるとすれば、易姓革命であります。新しい王朝ができるということです。相人はそのように考えたに違いありません。

この相人の占いを聞いて、「桐壺帝」は光君を臣籍に下し「源姓」を賜りました。光源氏の誕生です。
「桐壺帝」は光君が帝王になるとすると、「乱憂」を避けられないという占いに基づいて、「乱憂」の人生を回避すべく臣下にしたと考えられます。しかし、ここで新たな問題が生じます。臣下に下った源氏は、いかにして「帝王の相」を成就するのか。皇子であってもいったん臣下に下ると、帝王になることは通常ありえません。物語は光源氏がどのようにして「帝王の相」を実現するのかという謎をここに仕組んだのであります。第三の謎であります。これから、光源氏の非日常的な王権の物語が始まります。

◇Ans.3:

●「梅枝」、「藤裏葉」の両巻には光源氏三十九歳の一年の慶事が語られています。「六条院」は栄華の頂点に向かっていました。その年の秋には光源氏は≪太上天皇になずらふ御位(みくらい)≫(「藤裏葉」)を得ます。臣下から准太上天皇になるという例は史実にはありません。これ以後源氏の呼称は原則として「院号」に変わります。

「澪標」巻で「冷泉帝」の即位に引き続いて、「明石君」に姫君が生まれたとき、源氏は<宿曜(すくよう)>の予言を思い起こします。<宿曜(すくよう)>とは占星術のことですが、それによれば源氏には「天皇」と「皇后」と「太政大臣」になる三人の子が生まれるというものでした。これは光源氏にとっては三つ目の予言です。
最初の予言は七歳の時に高麗(こま)の相人から「帝王の相」(「桐壺」)があると占われ、十八歳の時には天皇の父になるという<夢占い>(「若紫」)がありました。<宿曜(すくよう)>の占いは源氏の子孫の繁栄を予言しますが、源氏は自分の人生が予言の実現していく人生であると確信するようになっています。

その根拠は<夢占い>(「若紫」)と<宿曜(すくよう)>の予言が的中したことにほかなりません。この時源氏はこの三つの予言の関わり、すなわち自分に「帝王の相」があると予言されたことと、実際に天皇の父になったこととの関わりについて考えます。

●考えた末の結論は、「帝王の相」の予言とは、自分が天皇になるということではなく、天皇の父になることだったという了解であります。父「桐壺院」が自分を臣下にしたことを考えると、自分は天皇になる運命にはなかったのですが、「冷泉帝」の父になったことで予言は成就したのであり、それが自分の「帝王の相」の真意であったと納得します。

源氏の「帝王の相」は本人の即位を意味してはいませんでした。天皇の父として"実質的に"実現される王権でした。これが「桐壺帝」に発する第三(光源氏の「帝王の相」)の謎解きです。

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■第4の謎:「長恨歌」(白居易)引用の意味は何か?

「桐壺帝」と「桐壺更衣」の物語には随所に中国の唐代の詩人、白居易(772〜846)の「長恨歌」が引用されています。「長恨歌」は唐の玄宗皇帝が楊貴妃を溺愛し、楊一族の専横を許したために、「安禄山の乱」を招き、楊貴妃は殺され、玄宗皇帝は都を追われたという史実に基づいています。「桐壺帝」の「桐壺更衣」に対する寵愛は後宮の序列を無視して常軌を逸していましたので、宮廷では公卿たちがこの「楊貴妃のためし」を思い起こして、帝を非難するようになったと語られています。

これを初めとして「桐壺帝」の「桐壺更衣」を亡くした悲しみは、楊貴妃を亡くした玄宗皇帝の悲しみに重ね合わせて語られました。

尋ねゆくまぼろしもがなつてにても玉のありかをそこと知るべく(たづねゆく まぼろしもがな つてにても たまのありかを そことしるべく)(「桐壺」)

"魂を捜してゆく幻術士が欲しいことよ、ひとづてにしろその魂の住所をそれそこだと知ることができるように"
●まぼろし:幻術士。道士。「玉」は魂の当て字。はるかに故「桐壺更衣」の最期の歌「限りとて〜」と呼応し、生死を超えた贈答歌の趣を持つ。

これは「長恨歌」を引用した哀傷歌(死者を悲しむ歌)であります。「長恨歌」では悲嘆にくれる玄宗皇帝に同情した道士が方士という者を遣わして、地の底から空のかなたまで死んだ楊貴妃の住処を探させ、方士は蓬莱宮に楊貴妃を尋ね当てて形見の品を持ち帰ったと歌われました。その一節を引用して「桐壺帝」はそのような幻術士がいてくれたら、「桐壺更衣」の魂のありかがどこか知ることができるのにと歌います。

「長恨歌」は《天長く地久しき、時に尽くること有れども、此の恨みは綿々として絶ゆる期(とき)無けむ》と、天地は滅びる時があるが、愛する人を亡くした恨みは永遠に尽きることはないと歌っています。「桐壺帝」にとって「桐壺更衣」を亡くしたことはそのような<長恨>にほかなりませんでした。
しかし、それから数年後、「桐壺更衣」にそっくりの「藤壷」が入内した時から「桐壺帝」は徐々に悲しみから立ち直っていきます。「桐壺帝」の「桐壺更衣」に対する<長恨>の悲しみは癒されたのでしょうか。ここから第四の謎が始まります。本人によく似た<身代わり>のことを『源氏物語』では<形代(かたしろ)>と呼びますが、<長恨>の悲しみは<形代>によって癒されるのでしょうか。

「桐壺帝」は癒されたようですが、この<長恨>と<形代>の問題は光源氏が引き継ぎ、【宇治十帖】の「薫」が背負わされた、彼らの人生にとって重い課題でありました。

◇Ans.4:

●「桐壺帝」と「桐壺更衣」の物語は「桐壺帝」自身が「長恨歌」の世界を追体験するかのような物語になっていました。「桐壺更衣」の死後5〜6年経ったころ、「桐壺更衣」にそっくりの「藤壷」が入内した時から、「桐壺帝」に転機が訪れます。「藤壷」は「桐壺更衣」の<形代(かたしろ)>の役割を十二分に果しました。ここに「桐壺帝」は新しく蘇ります。

『源氏物語』はこの<長恨>と<形代(かたしろ)>のテーマを繰り返し変奏することになります。光源氏が「藤壷」を理想の女性として憧憬したのは<長恨>のテーマの読み替えであります。光源氏にとって「藤壷」への恋は現世では許されない恋として永遠の悔恨であるほかありません。「長恨歌」や「李夫人」の愛する人を亡くした恨みを、愛する人に逢えない恨みに置き換えたのであります。のちに「紫上」が<形代(かたしろ)>として呼び出されるのも必定でありました。

「桐壺帝」における「桐壺更衣」と「藤壷」は『源氏物語』における<長恨>と<形代>の物語の原型であります。その「桐壺帝」の生きた愛の軌跡を光源氏はあたかもなぞるかのように生きてゆきます。

●「幻」巻で源氏は召人(めしうど)の中納言の君や中将の君に向かって、自分は高い身分に生まれ何の不足もない破格の身の上であったが、世間の人とは比べものにならない不本意な宿縁を生きてきた、それは仏が世の無常を教えるために、そのように定めたのだろうと述懐します。
これは「紫上」の「御法」巻の独白とよく似た内容です。その不本意な宿縁-----《人よりことに口惜しき契り》(「幻」)とは何かといえば、「藤壷」へのかなわぬ恋と考えてよいでしょう。その「藤壷」の<形代>である「紫上」を亡くしたことが今や悲しみの極みであると言う。その悲しみを「幻」巻は一年にわたる哀傷歌(死者を悲しみ悼む歌)を中心に語ったのですが、そのなかで源氏は父「桐壺帝」と同じ「長恨歌」を引用した歌を読みました。

(A)「大空をかよふまぼろし夢にだに見えこぬ玉のゆくゑたづねよ」(おおぞらを かよふまぼろし ゆめにだに みえこぬたまの ゆくゑたづねよ)
"大空を行き来する幻術の使い手よ、夢にすら姿を見せて来ない魂の行方を探してくれ"
●「玉」は当て字。「長恨歌」を踏まえる。まぼろしは幻術士、道士、で巻名になる。《魂魄曾て来りて夢に入らず》(「長恨歌」)。「紫上」は死後源氏の夢にあらわれないことによって、この世への執着がないことを示していよう。「桐壺」巻の

(B)「尋ねゆくまぼろしもがなつてにても玉のありかをそこと知るべく」(たづねゆく まぼろしもがな つてにても たまのありかを そことしるべく)
"魂を捜してゆく幻術士が欲しいことよ、ひとづてにしろその魂の住所をそれそこだと知ることができるように"
●まぼろし:幻術士。道士。「玉」は魂の当て字。はるかに故「桐壺更衣」の最期の歌「限りとて〜」と呼応し、生死を超えた贈答歌の趣を持つ。
と呼応する歌か。

*注:「新日本古典文学大系」(全105巻)より 第22巻『源氏物語 四』柳井滋/室伏信助/大朝雄二/鈴木日出男/藤井貞和/今西祐一郎校注(岩波書店)に拠る。

これにはどのような意味があるのでしょうか。

●源氏にとって「紫上」は「藤壷」の<形代>であり、「藤壷」への叶わぬ恋を慰める<身代わり>でありました。しかし、いつしか「紫上」が<形代>の域を脱して「藤壷」と入れ替わり、「藤壷」の位置に着いていたことに源氏は気づいたのであります。

では、「紫上」はいつ「藤壷」の<形代>を脱したのでしょうか?「女三の宮」の降嫁後、一人苦しみに耐えるなかで、彼女が高貴に輝きを増していくことに源氏が驚嘆する描写がありますが、おそらくそうした時期と考えてよいでしょう。源氏は「紫上」の美しさを、《去年より今年はまさり、昨日より今日はめづらしく、常に見馴れぬさまのし給へるを、いかでかくしもありけむ》(「若菜 上」)と思っています。「紫上」の常にはじめて見るような感じの美しさとは内面の輝きであり、精神世界のたゆまぬ深まりでありましょう。

この時「紫上」は「女三の宮」に対してへりくだって対面をしながら、しかし、自分より上の人が入るだろうかという自負心を支えに生きていました。源氏への不信を募らせつつも、世間の物笑いの種にはなるまいという強い自負心を支えに、六条院の安定と協調に献身したのでありました。そういう緊張感が彼女を輝かせていたのだといえます。「紫上」は「藤壷」にまさる女性となって、源氏を魅了したのであります。

●「桐壺帝」と源氏に同じ歌を詠ませた物語は、この父と子の魂の類似性を確認しようとしているのでしょう。「紫上」は「藤壷」にそっくりであり、「藤壷」は「桐壺更衣」にそっくりであったから、「紫上」は「桐壺更衣」に重なります。

父と子はともに「桐壺更衣」を探し続けたのであります。

彼らは「桐壺更衣」にめぐり逢い、「桐壺更衣」に先立たれ、「桐壺更衣」の幻を求めました.....。
「桐壺更衣」は彼らの魂に刻み込まれた《愛の原型》とでもいえばよいでしょうか。

源氏は父「桐壺院」と同じ《魂の軌跡》を生きたのであります。

「長恨歌」の引用からはじまった物語は「長恨歌」の地平を大きく超えて父と子の運命の物語へと展開したのであります。
これが、<長恨>の悲しみと<形代>の問題という第四の一つの謎解きです。

●第二部で「紫上」によっていったん昇華されたかに見えた<形代>の物語は、【宇治十帖】(「薫」と「浮舟」の物語)ではっきりと別の位相を見せます。<形代>の問題は理想の女性像を求める物語であり、「紫上」は「藤壷」の<形代>として「藤壷」にまさる理想的な女性に昇華しました。しかし、<形代>としての理想とは所詮男の立場からのそれでしかありえません。立場を変えて、女にとってそれが理想的な生き方なのかと問うたとき、作者(紫式部)は否定的にならざるをえなかったのでしょう。

泣き伏す「浮舟」は<形代>となることを拒否しますが、では「浮舟」が「浮舟」らしく生きることは可能なのか、彼女にはどのような生き方が残されているのでしょうか。物語はそうした問いをここでも投げかけてきます。

<形代>の物語は【宇治十帖】を通り抜けることによって、女の立場から女の人生を考える物語へと変換されていたのだといえます。正編における<形代>の物語の克服であります。

そのような「浮舟」を「薫」は誰か男にかくまわれているのではないかと想像します。この卑俗さは、横川僧都に向かって《心の中(うち)は聖(ひじり)に劣りはべらぬものを》(「夢浮橋」)といってはばからない「薫」の道心への自負をそらぞらしく感じさせます。
「薫」こそ「浮舟」が堪えねばならない重い現実だったのです。そのような「浮舟」の造型が語りかけてくるものはいったい何でしょうか。

◇それは現実に対して絶望をも希望をも虚妄として、崩れそうになりながらも屈服を潔しとしない、物語作者=紫式部の精神の所在にほかならないといえるでしょう。

*以上、『源氏物語の世界』日向一雅著(岩波書店)に拠る。



●さらに、これこそ三島由紀夫氏が『豊饒の海』「春の雪」において「輪廻転生」譚の震源に置いていた.....「綾倉聰子」を<長恨>的対象とした「松枝清顕」の「転生」の物語.....『源氏物語』に精通していた三島由紀夫氏の手になる、

『豊饒の海』「春の雪」とは『源氏物語』を『濱松中納言物語』風にアレンジした"悲恋物語".....

"昭和文壇"もしくは"昭和の読者"への最後の「問題提起」であり「謎解き」であったと考えられないでしょうか。

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●日向一雅(ひなた かずまさ)・・・1942(昭和17)年〜

1972(昭和47)年、東京大学大学院博士課程単位取得退学、博士(文学)。

専攻:平安文学
現在:明治大学文学部教授
著書:『源氏物語の準拠と話型』(至文堂)
   『源氏物語 〜その生活と文化〜』(中央公論美術出版)
   『源氏物語の鑑賞と基礎知識 須磨』『源氏物語の鑑賞と基礎知識 明石』『源氏物語の鑑賞と基礎知識 澪標』(編著、至文堂)
   『神話・巫俗・宗教 〜日韓比較文化の試み〜』(共編著、風響社)

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画像は、『源氏物語の世界』日向一雅著(岩波書店)です。



Re: Vol.0090:『源氏物語』の核心、そして『豊饒の海』へ 〜『源氏物語』「桐壺」巻に仕掛けられた4つの謎〜 states - 2006/08/20(Sun) 10:13 No.446  

昨夜、三島の「葵の上」(近代能楽集)を読み返し、
今さらながら換骨奪胎の奥義を感じました。

「長恨的」対象としての綾倉聰子!
「浜松中納言物語」風「源氏」!
・・・貴君の美しき感覚に今さらながら脱帽します。

有り難うございました。


Vol.0089:『平家物語』全章段 (覚一本) 投稿者:HIDETO.K 投稿日:2006/07/01(Sat) 14:54 No.436  

■『平家物語』全章段をご紹介いたします。

●南北朝期に「平曲」の全盛時代を先導した「覚一検校」が、自流の定本としたものを『覚一本』といいます。
 建礼門院に関する説話を一まとめにし、特に「灌頂巻」と名づけて、12巻のほかに特立させています。



■「覚一本」総目次

■第一巻
1  祇園精舎       (ぎをんしやうじや)
2  殿上闇討       (てんじやうのやみうち)
3  鱸          (すずき)
4  禿髪         (かぶろ)
5  吾身栄花       (わがみのえいぐわ)
6  祗王      (ぎわう)
7  二代の后      (にだいのきさき)
8  額打論        (がくうちろん)
9  清水寺炎上      (きよみづでらえんしやう)
10  東宮立        (とうぐうだち)
11  殿下乗合       (てんがののりあひ)
12  鹿谷         (ししのたに)
13  俊寛沙汰 鵜川軍  (しゆんくわんのさた うかはいくさ)
14  願立         (ぐわんだて)
15  御輿振        (みこしぶり)
16  内裏炎上       (だいりえんしやう)

■第二巻
1  座主流        (ざすながし)
2  一行阿闍梨之沙汰   (いちぎやうあじやりのさた)
3  西光被斬       (さいくわうがきられ)
4  小教訓         (こげうくん)
5  少将乞請 (せうしやうこひうけ)
6 教訓状        (けうくんじやう)
7  烽火之沙汰     (ほうくわのさた)
8  大納言流罪      (だいなごんるざい)
9  阿古屋之松      (あこやのまつ)
10  大納言死去      (だいなごんのしきよ)
11  徳大寺沙汰     (とくだいじのさた)
12  山門滅亡 同衆合戦 (さんもんめつぼう だうじゆかつせん)
13  山門滅亡      (さんもんめつぼう)
14  善光寺炎上     (ぜんくわうじえんしやう)
15  康頼祝言       (やすよりのつと)
16  卒塔婆流       (そとばながし)
17  蘇武         (そぶ)

■第三巻
1 赦文         (ゆるしぶみ)
2 足摺         (あしずり)
3 御産         (ごさん)
4 公卿揃         (くぎやうぞろへ)
5 大塔建立        (だいたふこんりふ)
6 頼豪          (らいがう)
7 少将都帰        (せいしやうみやこがえり)
8 有王         (ありわう)
9 僧都死去       (そうづしきよ)
10 飆          (つじかぜ)
11 医師問答       (いしもんだふ)
12 無門         (むもん)
13 灯炉之沙汰      (とうろのさた)
14 金渡        (かねわたし)
15 法印問答       (ほふいんもんだふ)
16 大臣流罪       (だいじんるざい)
17 行隆之沙汰      (ゆきたかのさた)
18 法皇被流       (ほふわうながされ)
19 城南之離宮     (せいなんのりきゆう)

■第四巻
1 厳島御幸 (いつくしまごかう)
2 還御          (くわんぎよ)
3 源氏揃        (げんじぞろへ)
4 鼬之沙汰        (いたちのさた)
5 信連         (のぶつら)
6 競          (きほふ)
7 山門牒状 (さんもんのてふじやう)
8 南都牒状       (なんとてふじやう)
9 永僉議        (ながのせんぎ)
10 大衆揃        (だいしゆぞろへ)
11 橋合戦        (はしがつせん)
12 宮御最後      (みやのごさいご)
13 若宮出家       (わかみやしゆつけ)
14 通乗之沙汰     (とうじようのさた)
15 鵺         (ぬえ)
16 三井寺炎上    (みゐでらえんしやう)

■第五巻
1 都還        (みやこうつり)
2 月見         (つきみ)
3 物怪之沙汰    (もつけのさた)  
4 早馬        (はやうま)
5 朝敵揃        (てうてきぞろへ)
6 咸陽宮        (かんやうきゆう)
7 文覚荒行      (もんがくのあらぎやう)
8 勧進帳        (くわんじんちやう)
9 文覚被流      (もんがくながされ)
10 福原院宣      (ふくはらゐんぜん)
11 富士川       (ふじがは)
12 五節之沙汰    (ごせつのさた)
13 都帰        (みやこがへり)
14 奈良炎上 (ならえんしやう)

■第六巻
1  新院崩御 (しんゐんほうぎよ)
2  紅葉         (こうえふ)
3  葵前        (あふひのまえ)
4  小督         (こがう)
5  廻文         (めぐらしぶみ)
6  飛脚到来      (ひきやくたうらい)
7  入道死去      (にふだうしきよ)
8  築島       (つきしま)
9  慈心坊       (じしんぼう)
10 祇園女御      (ぎをんにようご)
11 嗄声        (しはがれごゑ)
12 横田河原合戦     (よこたがはらのかつせん)

■第七巻
1 清水冠者  (しみづのくわんじや)
2  北国下向      (ほくこくげかう)
3  竹生島詣      (ちくぶしままうで)
4  火打合戦       (ひうちがつせん)
5  願書        (ぐわんじよ)
6  倶利迦羅落    (くりからおとし)
7  篠原合戦      (しのはらがつせん)
8  実盛        (さねもり)
9  玄肪        (げんぼう)
10 木曽山門牒状     (きそさんもんてふじやう)
11 返牒        (へんてふ)
12 平家山門連署     (へいけさんもんへのれんじよ)
13 主上都落       (しゆしやうのみやこおち)
14 維盛都落      (これもりのみやこおち)
15 聖主臨幸      (せいしゆりんかう)
16 忠度都落       (ただのりのみやこおち)
17 経正都落       (つねまさのみやこおち)
18 青山之沙汰      (せいざんのさた)
19 一門都落       (いちもんのみやこおち)
20 福原落       (ふくはらおち)

■第八巻
1  山門御幸      (さんものごかう)
2  名虎        (なとら)
3  緒環        (をだまき)
4  太宰府落       (だざいふおち)
5  征夷将軍院宣   (せいいしやうぐんのゐんぜん)
6  猫間         (ねこま)
7  水島合戦      (みずしまがつせん)
8  瀬尾最期      (せのをさいご)
9  室山         (むろやま)
10 鼓判官       (つづみはうぐわん)
11 法住寺合戦     (ほふじゆうじかつせん)

■第九巻
1  生ずきの沙汰   (いけずきのさた)
2  宇治川先陣    (うぢがはのせんぢん)
3  河原合戦      (かはらがつせん)
4  木曽最期      (きそのさいご)
5  樋口被斬罰     (ひぐちのきられ)
6  六ケ度軍      (ろくかどのいくさ)
7  三草勢揃      (みくさせいぞろへ)
8  三草合戦        (みくさがつせん)
9  老馬        (らうば)
10 一二之懸       (いちにのかけ)
11 二度之懸       (にどのかけ)
12 坂落        (さかおとし)   
13 越中前司最期    (ゑつちゆうのせんじさいご)
14 忠度最期       (ただのりさいご)
15 重衡生捕       (しげひらいけどり)
16 敦盛最期       (あつもりさいご)
17 知章最期      (ともあきらさいご)
18 落足         (おちあし)
19 小宰相身投     (こざいしやうみなげ)

■第十巻
1  首渡        (くびわたし)
2  内裏女房      (だいりにようぼう)
3  八島院宣      (やしまゐんぜん)
4  請文        (うけぶみ)
5  戒文       (かいもん)
6  海道下      (かいだうくだり)
7  千手前       (せんじゆのまへ)
8  横笛       (よこぶえ)
9  高野巻       (こうやのまき)
10 維盛出家      (これもりのしゆつけ)
11 熊野参詣 (くまのさんけい)
12 維盛入水      (これもりのじゆすい)
13 三日平氏       (みつかへいし)
14 藤戸       (ふぢと)
15 大嘗会之沙汰    (だいじようゑのさた)

■第十一巻
1  逆櫓        (さかろ)
2  勝浦 付大坂越 (かつうら つけたりおほさかごえ)
3  嗣信最期      (つぎのぶさいご)
4  那須与一       (なすのよいち)
5  弓流        (ゆみながし)
6  志度合戦      (しどがつせん)
7  鶏合 壇浦合戦   (とりあはせ だんのうらかつせん)
8  遠矢        (とほや)
9  先帝身投      (せんていみなげ)
10 能登殿最期     (のとどのさいご)
11 内侍所都入    (ないしどころのみやこいり)
12 剣          (けん)
13 一門大路渡     (いちもんおほちわたし)
14 鏡          (かがみ)
15 文之沙汰      (ふみのさた)
16 副将被斬       (ふくしやうきられ)
17 腰越         (こしごえ)
18 大臣殿被斬     (おほいとのきられ)
19 重衡被斬       (しげきらのきられ)

■第十二巻
1 大地震          (だいぢしん)
2 紺掻之沙汰      (こんかきのさた)
3 平大納言被流    (へいだいなごんのながされ)
4 土佐坊被斬      (とさぼうきられ)
5 判官都落       (はうぐわんのみやこおち)
6 吉田大納言沙汰    (よしだだいなごんのさた)
7 六代          (ろくだい)
8 泊瀬六代       (はせろくだい)
9 六代被斬       (ろくだいきられ)

■灌頂卷        (くわんぢやうのまき)

1 女院出家        (にようゐんしゆつけ)
2 大原入        (おほはらいり)
3 大原御幸       (おほはらごかう)
4 六道之沙汰       (ろくだうのさた)
5 女院死去        (にようゐんしきよ)

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◇画像は、『日本絵巻大成』(全27巻)(中央公論社)より 第13巻『平治物語絵詞』「後白河上皇を大内裏に拉致する信頼軍」小松茂美/松原茂/日下力解説です。



■「源氏」「平氏」系図 HIDETO.K - 2006/07/01(Sat) 15:09 No.437  

*「源氏」「平氏」系図です。



Vol.0088:安田靫彦(やすだ ゆきひこ) 投稿者:HIDETO.K 投稿日:2006/07/01(Sat) 12:57 No.428  

■今回、『源氏物語』の名訳として参照しております『新々訳 源氏物語』(全10巻)谷崎潤一郎訳(中央公論社)の挿絵を描かれている日本画家、安田靫彦氏をご紹介いたします。

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●安田靫彦(やすだ ゆきひこ)(本名 安田新三郎)・・・1884(明治17)年2月16日〜1978(昭和53)年4月29日

大正〜昭和期の日本画家。東京都出身。

前田青邨と並ぶ歴史画の大家で、青邨とともに、焼損した法隆寺金堂壁画の模写にも携わりました。「飛鳥の春の額田王」「黎明富士」「窓」はそれぞれ1981年、1986年、1996年に切手に用いられました。良寛の書の研究家としても知られ、良寛の生地新潟県出雲崎町に良寛堂を設計しました。また自らも皇居新宮殿千草の間に書、『万葉の秀歌』を揮毫しました。

◇略歴

1884年、東京日本橋の料亭の四男として生まれています。1897年、帝室博物館で法隆寺金堂壁画等の模造を見、日本絵画協会絵画共進会で横山大観、菱田春草、小堀鞆音らの作品に感動し、画業を決意。1898年より小堀鞆音に師事。青邨らと共に『紫紅会』(後、偶々同じ「紫紅」を名乗っていた今村紫紅も参加し『紅児会』)を結成。東京美術学校に進むも中退。後岡倉天心に認められ、1907年に日本美術院に招かれた。院展の初回より作品を出品し、再興院展に尽力しました。

天心の没後再興された日本美術院に今村紫紅、小林古径、前田青邨、速水御舟らとともに参画して同人になり、その中心的な存在として、大正から晩年にいたるまで、「澄明」かつ「典雅」な格調の高い画風を展開しました。

肺病に悩まされながらも晩年まで制作を続け、1974年の『鞍馬寺参籠の牛若』が院展出品の最後になりました。

1944年東京美術学校教授。1948年に文化勲章を受章。1958年財団法人となった日本美術院の初代理事となりました。1959年宮中歌会始の召人(勅題「窓」を詠進)。1965年東京芸術大学名誉教授。東京国立博物館評議員会評議員、文化財審議会専門委員、国立近代美術館設立準備員も歴任。門下に小倉遊亀、益井三重子、岩橋英遠らがいます。

◇代表作品

『聚楽茶亭』 1905 (明治38)  永青文庫
『宇治合戦図』 1905 (明治38) 平塚市美術館
『静訣別之図』 1907 (明治40)頃 滋賀県立近代美術館
『羅浮仙女』 1911 (明治44)頃 松岡美術館
『薩タ王子捨身図』 1911 (明治44)頃 栃木県立美術館
『達磨居士図』 1912 (大正元) 永青文庫
*『夢殿』 1912 (大正元) 東京国立博物館
『花の酔』 1912 (大正元)頃 宮城県美術館
『御産の祷』 1914 (大正03) 東京国立博物館
『項羽』 1916 (大正05) 東京国立博物館
『今村紫紅像』 1916 (大正05) 東京国立博物館
『御夢』 1918 (大正07) 東京国立博物館
『五合庵の春』 1920 (大正09) 東京国立博物館
『景雲餘彩』 1922 (大正11) 宮内庁三の丸尚蔵館
『瑞彩』 春光 1924 (大正13) 宮内庁三の丸尚蔵館
『日食』 1925 (大正14) 東京芸大大学美術館・東京国立近代美術館・平塚市美術館
『役の行者』 1928 (昭和03) 横山大観記念館
『風神雷神』 1929 (昭和04) 遠山記念館
『風来山人』 1930 (昭和05) 豊田市美術館
『土筆』 1930 (昭和05) 川崎市市民ミュージアム
『桔梗図』 1930-1(昭和05-6)頃 静岡県立美術館
『菖蒲』 1931 (昭和06) 京都国立近代美術館
『挿花』 1932 (昭和07) 東京国立近代美術館
『鴨川夜情』 1932 (昭和07) 茨城県近代美術館
『新樹』 1933 (昭和08) 講談社野間記念館
『源氏若紫』 1933 (昭和08) 茨城県近代美術館
『月の兎(行きなづむ旅人』1934 (S09) 川崎市市民ミュージアム
『月の兎』 1934 (昭和09) 愛知県美術館
『洛陽花』 1934 (昭和09) メナード美術館
『春暁』 1935(昭和10) ニューオータニ美術館
『役優婆塞』  1936 (昭和11) 群馬県立近代美術館
『菊慈童』 1939 (昭和14) 五島美術館
『黄瀬川陣』 1940/41 (昭和15/16) 東京国立近代美術館
『瓢箪の花』 1940 (昭和15) 青梅市立美術館
『わびすけ』 1941 (昭和16)頃 名都美術館
『益良男』 1942 (昭和17) 東京国立近代美術館
*『九郎義経』 1942 (昭和17)
『楠公』 1942-44 (昭和17-19)頃 松岡美術館
『佐久良(さくら』 1943 (昭和18)頃 川崎市市民ミュージアム
『赤星母堂像』 1943 (昭和18) 平塚市美術館
『山本五十六元帥像』1944 (昭和19) 東京芸大大学美術館
『豊太閣』 1944 (昭和19) 東京国立近代美術館
『保食神(うけもちのかみ』1944 (昭和19) 東京国立近代美術館
『小楠公』 1944 (昭和19) 東京国立近代美術館
『横山大観喜寿祝色紙』1944 (S19) 横山大観記念館
『わかき射手』 1944 (昭和19) メナード美術館
『謡坂』 1944 (昭和19) メナード美術館
『兎』 1945(昭和20)頃 山中湖高村美術館
『小鏡子』 1947 (昭和22) 川崎市市民ミュージアム
『大観先生像』 1950 (昭和25) 東京国立近代美術館
『窓』   1951 (昭和26) 横浜美術館
『鴻門会』 1955 (昭和30) 東京国立近代美術館
『栗』 1955 (昭和30)頃 高崎タワー美術館
『伏見の茶亭』 1956 (昭和31) 東京国立近代美術館
『紅花白瓶』 1958(昭和16)頃 メナード美術館
『大観先生像』 1959 (昭和34) 横山大観記念館
『大観先生』 1959 (昭和34) 東京国立近代美術館
『王昭君』 1959 (昭和34) メナード美術館
*『草子洗小町』 1960 (昭和35)
『紅梅・絵唐津瓶』 1961 (昭和36) 鎌倉大谷記念美術館
『紅梅』 1961 (昭和36) 滋賀県立近代美術館
*『茶室』 1962 (昭和37) 福島県立美術館
*『黎明富士』 1962 (昭和37)   川崎市市民ミュージアム
*『飛鳥の春の額田王』1964 (昭和39) 滋賀県立近代美術館
『平泉の義経』 1965 (昭和40) 山種美術館
『春暁富士』 1967 (昭和42) メナード美術館
『卑弥呼』 1968 (昭和43) 滋賀県立近代美術館
『良寛和尚像』 1969 (昭和44) 川崎市市民ミュージアム
『出陣の舞』 1970 (昭和45) 山種美術館
『富士秋霽』 1972 (昭和47) メナード美術館
*『草薙の剣』 1973 (昭和48) 川崎市市民ミュージアム
『後南朝自天王像』 1973 (昭和48) メナード美術館
『鞍馬寺参籠の牛若』1974 (昭和49) 滋賀県立近代美術館
『春雨』 不明         講談社野間記念館
『不二山』 不明         五島美術館
『紅梅』 不明          五島美術館
『曙梅』 不明          五島美術館
『坩梅』 不明          五島美術館
『菩薩思惟』 不明          五島美術館
『達磨』 不明          五島美術館
『聖徳太子御影』不明        五島美術館
『鎌倉右大臣』 不明        五島美術館
『佗介図』 不明          静嘉堂文庫美術館
『水風図』 不明          静嘉堂文庫美術館
『黎明富士』 不明          川崎市市民ミュージアム
『萩』   不明          川崎市市民ミュージアム
『あざみ』 不明          川崎市市民ミュージアム
『紅白梅』 不明          川崎市市民ミュージアム
『六朝偶人』 不明          福岡市美術館
『草庵孤座』 不明          福岡市美術館

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◇画像は、『飛鳥の春の額田王』安田靫彦(1964)(滋賀県立近代美術館)です。



■安田靫彦(やすだ ゆきひこ)・・・1884(明治17)年2月16日〜1978(昭和53)年4月29日 HIDETO.K - 2006/07/01(Sat) 13:55 No.429  


◇画像は、安田靫彦氏照影1970(昭和45)年(86歳)元旦です。



■『夢殿』 1912 (大正元) 年 HIDETO.K - 2006/07/01(Sat) 13:57 No.430  


◇画像は、『夢殿』 1912 (大正元)年(東京国立博物館)です。



■『九郎義経』 1942 (昭和17)年 HIDETO.K - 2006/07/01(Sat) 14:00 No.431  


◇画像は、『九郎義経』 1942 (昭和17)年です。



■『草子洗小町』 1960 (昭和35) 年 HIDETO.K - 2006/07/01(Sat) 14:05 No.432  


◇画像は、『草子洗小町』 1960 (昭和35) 年です。



■『茶室』 1962 (昭和37) 年 HIDETO.K - 2006/07/01(Sat) 14:09 No.433  

◇画像は、『茶室』 1962(昭和37)年(福島県立美術館)です。



■『黎明富士』 1962 (昭和37)年  HIDETO.K - 2006/07/01(Sat) 14:11 No.434  


◇画像は、『黎明富士』 1962(昭和37)年(川崎市市民ミュージアム)です。



■『草薙の剣』 1973 (昭和48) 年  HIDETO.K - 2006/07/01(Sat) 14:14 No.435  


◇『草薙の剣』 1973(昭和48)年(川崎市市民ミュージアム)です。



ありがとうございます! states - 2006/07/01(Sat) 15:13 No.438  

中公の文庫で谷崎訳を手にし、
背表紙の川端康成氏の文言が目に入ってきたときに、
私、身震いがしました。

私の如き不肖なものに、
貴君は、かくもやさしみと深慮を湛えた
水先案内をつとめてくださる。
ディレッタントにとどまらぬその鋭い考察を、
わかりやすく平易に書き落としてくださいます。

これから始まる私の「源氏原体験」に、
最高のイッシューです。
言葉には尽くせませんが、有り難きしあわせです。


Vol.0087:『源氏物語の美 vol.01 桐壺(きりつぼ)』 投稿者:HIDETO.K 投稿日:2006/07/01(Sat) 11:53 No.427  

さて、『源氏物語』全編の幕開けです。

「周囲に歓迎されない恋愛」、これが長大な物語の発端となります。人の一生を"愛の葛藤劇"とみる人生観は、古くて新しいですね。


■【「桐壺」の梗概】

光源氏の両親(「桐壺帝」と「桐壺更衣」)の恋から物語は始まります。光源氏の母「桐壺更衣」は、「桐壺帝」の寵愛を独り占めにしていました。その身分の低さからほかの妃たちはこれを許さず、烈しい嫉妬の恨みを買い陰湿な"いじめ"や迫害にあいます。父「按察大納言」の亡き後、「更衣の母北の方」の苦労は絶えることがありません。
そんな中で、「桐壺更衣」は、美しい皇子(「光源氏」)を生み、帝の寵愛はますます深まっていきます。第一皇子の母、「弘徽殿女御(=弘徽殿大后)」ら「右大臣」方の圧力、妃たちのいじめもいっそう激しくなります。心身ともに疲れ切った「桐壺更衣」は、病のため実家に帰り、ふたたび宮中に戻ることはありませんでした。光源氏三歳のことであります。「桐壺帝」と「更衣の母北の方」の悲嘆はたとえようもありません。
「更衣の母北の方(源氏の祖母)」は源氏六歳のときに死去し、その後、身寄りのない源氏は宮中に引き取られて成長してゆきます。「桐壺帝」は「桐壺更衣」の形見の若宮(「光源氏」)を大切に育てます。七歳で教育を受けはじめますが、学問も芸能も並はずれて優秀な源氏に、父「桐壺帝」は期待をかけます。しかし、高麗(こま)人の観相(運命判断)に従い、皇族から臣下に降し「源氏」姓を与えました。若宮は光輝く美しさから光源氏と呼ばれるようになりました。「桐壺更衣」亡き後、茫然自失の日々を送っていた「桐壺帝」に、新しく先帝の姫君=「藤壺女御」が妃として迎えられます。「藤壺女御」は、源氏の亡き母「桐壺更衣」に生き写しの美貌と評判されます。
光源氏はこの妃「藤壺女御」が亡き母に生き写しだと聞かされるうちに禁断の慕情を寄せます。十二歳、源氏は元服し、「左大臣」の姫君「葵上」と結婚します。彼女は四歳年上で、とりすました美貌に源氏はさっぱり愛情が湧いてきません。いよいよ「藤壺女御」への恋慕にのめりこんでいきます。世の人々は二人の美貌と寵愛を讃えて、源氏を"光る君"、「藤壺女御」を"輝く日の宮"と呼びました。
源氏は、亡き母の殿舎(桐壺)を自室にし、母の実家を改築します。のちの「二条院」であります。源氏は、ここで理想の女性と住むことを夢見ます。ここにおいて、源氏は、宮中と自邸を自由に往き来できる特権を許されたことになります。こうして、"物語の展開に必要な条件"が整ってゆきます。

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■【原文 a.】光源氏の母 〜ならびなき寵愛〜 

いづれの御時にか、女御、更衣あまた侍ひ給ひけるなかに、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり。
はじめより我はと思ひ上がりたまへる御方がた、めざましきものにおとしめ嫉みたまふ。同じほど、それより下臈の更衣たちは、ましてやすからず。朝夕の宮仕へにつけても、人の心をのみ動かし、恨みを負ふ積もりにやありけむ、いと篤しくなりゆき、もの心細げに里がちなるを、いよいよあかずあはれなるものに思ほして、人のそしりをもえ憚らせたまはず、世のためしにもなりぬべき御もてなしなり。
上達部、上人なども、あいなく目を側めつつ、「いとまばゆき人の御おぼえなり。唐土にも、かかる事の起こりにこそ、世も乱れ、悪しかりけれ」と、やうやう天の下にもあぢきなう、人のもてなやみぐさになりて、楊貴妃の例も引き出でつべくなりゆくに、いとはしたなきこと多かれど、かたじけなき御心ばへのたぐひなきを頼みにてまじらひたまふ。

■【与謝野源氏/現代文 a.】

どの天皇様の御代であったか、女御とか更衣とかいわれる後宮がおおぜいいた中に、最上の貴族出身ではないが深い御愛寵を得ている人があった。最初から自分こそはという自信と、親兄弟の勢力に恃む所があって宮中にはいった女御たちからは失敬な女としてねたまれた。その人と同等、もしくはそれより地位の低い更衣たちはまして嫉妬の焔を燃やさないわけもなかった。夜の御殿の宿直所から退る朝、続いてその人ばかりが召される夜、目に見耳に聞いて口惜しがらせた恨みのせいもあったかからだが弱くなって、心細くなった更衣は多く実家へ下がっていがちということになると、いよいよ帝はこの人にばかり心をお引かれになるという御様子で、人が何と批評をしようともそれに御遠慮などというものがおできにならない。御聖徳を伝える歴史の上にも暗い影の一所残るようなことにもなりかねない状態になった。
高官たちも殿上役人たちも困って、御覚醒になるのを期しながら、当分は見ぬ顔をしていたいという態度をとるほどの御寵愛ぶりであった。唐の国でもこの種類の寵姫、楊家の女の出現によって乱が醸 されたなどと蔭ではいわれる。今やこの女性が一天下の煩いだとされるに至った。馬嵬の駅がいつ再現されるかもしれぬ。その人にとっては堪えがたいような苦しい雰囲気の中でも、ただ深い御愛情だけをたよりにして暮らしていた。

*「全訳 源氏物語(上)」(全3巻)与謝野晶子訳 (「桐壺」〜「少女」)(角川書店)P6〜P7に拠る。
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■【原文 a. 語釈】 
*帝の偏った寵愛は宮中を揺るがす事件となります。

●いづれの御時にか:「御」は「おほん」と読む。「御 オヽム オホム」(色葉字類抄〔院政期〕)。「御時」は、帝のご治世をいう。「帝の」の意が省略されている。係助詞「か」(疑問の意。自問のニュアンス)は下に「ありけむ」などの語句が省略された形。
●女御:帝の妃。皇后の下、更衣の上。この物語では、「女御(にようご)("にょご"と訓むか)」は大臣(従二位)や親王の娘が、「更衣(かうい)」には大納言(正三位)以下の殿上人(昇殿を許された五位及び六位蔵人)以上の娘がなる。皇后または中宮について触れられていないことは、まだそれが空位であることをほのめかす。
●侍ひたまひけるなかに:「さぶらふ」は「あり」の謙譲語。お仕えする。伺候する。尊敬の補助動詞「たまふ」(四段)は「女御」にあわせて付けられたもの。
●いとやむごとなき際にはあらぬが:「いと.....ぬ」(打消の助動詞)は、「たいして.....ではない」の意になる。「ぬ」は打消の助動詞「ず」の連体形。「が」(格助詞)は主格の意で、以下の「時めきたまふ」の主語となるので、その間に「方」などの語が省略された形。文脈上、「.....で」と同格のようになる。
●時めきたまふありけり:「たまふ」(連体形)の下には、「方」などの語が省略されている。『新大系』は「「ありけり」は竹取物語や伊勢物語の冒頭部にも見え、「おったという」あるいは「今にありきたる」と、人物の登場を示す言い回し。桐壺更衣の紹介である」と注す。「けり」(過去の助動詞)は、同じく過去の助動詞「き」がその事象が過去にあったことまたはその人にとって過去に体験されたことなどを表すことに重点があるのに対して、過去の事象や記憶というものを現在に呼び起こし、それをそうと認識するとともにまた他人の前にそれをそうと提示しようとする意識の反映があることに重点のある表現である。「寵愛を蒙っていらっしゃる人がいたのである」というニュアンス。そして、以下の文章は、「けり」の付かない、いわゆる現在時制で語られていくというしくみである。
●はじめより:入内(宮仕え)当初から。
●思ひ上がりたまへる御方がた:「思ひ上がる」は「古くは、自惚れる、つけ上がるの意はなく、誇りを高く持って、低俗なるものを排し、より高貴であろうとする意欲を持つ意に用いられた」。「御方がた」は女御たちをさす。
●めざましきものにおとしめ嫉みたまふ:「もの」は、ここでは軽蔑の気持がこもる。目的語は「いとやむごとなき際にはあらぬがすぐれて時めきたまふ」方を。以下、助動詞「けり」を伴わない文が続き、一気に物語の渦中に入る。
●同じほどほとそれより下臈の更衣たち:この物語の女主人公は中臈以上の更衣と知られる。「下臈」は「地位の低い」。
●まして:「やすからず」の度合についていう。女御たち以上に心穏やかでない。女御たちのような寵愛を期待できないからである。
●朝夕の宮仕へにつけても:「明ければ退下、暮れればまた参上とお側仕へをするにつけても」(今泉忠義訳)。帝の寝所に侍ること。「入内」(宮中に入ること、すなわち結婚)を「宮仕へ」といった。
●恨みを負ふ積もり:「負ふ」(連体形)+「積もり」(名詞)。「恨みを負うことが、積もり積もった」という意。『休聞抄』は「あしかれと思はぬ山の峰にだにおふなる物を人の嘆きは」(悪いやつだと思ってもいない山の峰にさえ人の嘆き(=木)は生えると言いうのに)(詞花集雑上 三三二 和泉式部)を指摘したが、別本の陽明文庫本には「うらみ」に対して「なけき」という異文があり、それならばことばが一致する。
●積もりにやありけむ:「に」(断定の助動詞)、「や」(係助詞、疑問)、「けむ」(過去推量の助動詞)、「積もり積もったのであろうか」の推量する人は、語り手。前の「恨みを負う」までが、物語の伝承的事実。「にやありけむ」は、この物語筆記編集者の物語世界に対する推量。読点で区切って文意の相違を示した。
●篤しく:衰弱がひどいさま。明融臨模本は「異例也」という注記と「つ」の左下に後世の筆になる濁点を表す二つの丸印が付いている。『岩波古語辞典』では、「金剛般若経集験記」の平安初期訓「アツシ」の他に院政期の「三蔵法師伝点」と『名義抄』の訓点「アヅシ」を掲載し、「その頃、アヅシの形もあった」と指摘。『新日本古典文学大系』では「あづしく」と読む。
●いよいよあかずあはれなるものに思ほして:主語は帝。
●え憚らせたまはず:副詞「え」は下に打消の語を伴って、不可能の意を表す。「せたまはず」は帝に対して用いられた最高敬語。「せ」も「たまふ」も敬意をあらわす助動詞。
●なりぬべき:「ぬ」(完了の助動詞、確述)+「べし」(推量の助動詞、推量)、「きっとなってしまいそうな」の意。予想される結果や事態が無作為的・自然的に起こるニュアンス。
●上達部、上人:「上達部(かんだちめ)」は大臣・大中納言・参議および三位以上の人。「上人(うへびと)」は殿上人のことで、清涼殿の殿上の間に上がることを許された人。さらに院の御所・春宮御所に上がることを許された人をもいう。普通、上達部以外の四位・五位の者の一部、六位の蔵人をいう。
●あいなく目を側めつつ:「あいなく」(本来何の関係もないのに、の意)は、この物語筆記編集者の感想が交えられた表現。『異本紫明抄』は「目を側め」の表現に「京師長吏為之側目」<京師の長吏之が為に目を側む>(白氏文集巻第十二 長恨歌伝 陳鴻)を指摘。「そばめ」は、横目で睨む意と視線を逸らす意とがある。ここでは横目でちらりと注視したり、あるいは目を逸らしたり、という両義があろう。
●いとまばゆき:以下「悪しかりけれ」まで、上達部や殿上人の噂。
●人の御おぼえなり:「御おぼえの人なり」と同じだが、特に「御おほえ」を強調させた表現。
●唐土にもかかる事の起こりにこそ世も乱れ悪しかりけれ:『源氏釈』は、唐の玄宗皇帝と楊貴妃との故事を指摘。青表紙本の「あしかりけれ」は、やや不安定な感じを残す表現である。別本の御物本は「あしかりけれは」、陽明文庫本は「あしきこともいてきけれともてなやむほとに」、国冬本は「あしくはなりけれと」とある。「出で来」または「なる」などの語があると落ち着く。『源氏釈』所引「源氏物語」本文でも「もろこしにもかゝることにこそよはみたれあしきこともいてくれ」(冷泉家本)、「もろこしにもかゝることにてこそ世はみたれあしき事はいてきけれ」(前田家本)などとある。
●楊貴妃の例:先に「唐土(もろこし)にも」とあったが、ここで初めて「楊貴妃」の名を明かす。
●引き出でつべく:「つ」(完了の助動詞、確述)+「べし」(推量の助動詞、推量)、「きっと引き合いに出されそうな」の意。予想される結果や事態が作為的・人為的に起こるニュアンス。
●かたじけなき御心ばへのたぐひなきを:「かたじけなき御心ばへ」と「たぐひなき(御心ばへ)を」は同格の構文。
●まじらひたまふ:宮仕え生活。帝の妃としての朝晩のお側仕え、他の女御更衣たちや廷臣たちとの社交生活をさす。

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■【原文 b.】光源氏の誕生と気丈な祖母  

父の大納言は亡くなりて、母北の方なむいにしへの人のよしあるにて、親うち具し、さしあたりて世のおぼえはなやかなる御方がたにもいたう劣らず、なにごとの儀式をももてなしたまひけれど、とりたててはかばかしき後見しなければ、事ある時は、なほ拠り所なく心細げなり。
先の世にも御契りや深かりけむ、世になく清らなる玉の男御子さへ生まれたまひぬ。いつしかと心もとながらせたまひて、急ぎ参らせて御覧ずるに、めづらかなる稚児の御容貌なり。
一の皇子は、右大臣の女御の御腹にて、寄せ重く、疑ひなき儲の君と、世にもてかしづききこゆれど、この御にほひには並びたまふべくもあらざりければ、おほかたのやむごとなき御思ひにて、この君をば、私物に思ほしかしづきたまふこと限りなし。

■【与謝野源氏/現代文 b.】

父の大納言はもう故人であった。母の未亡人が生まれのよい見識のある女で、わが娘を現代に勢カのある派手な家の娘たちにひけをとらせないよき保護者たりえた。それでも大官の後援者を持たぬ更衣は、何かの場合にいつも心細い思いをするようだった。
前生の縁が深かったか、またもないような美しい皇子までがこの人からお生まれになった。寵姫を母とした御子を早く御覧になりたい思召しから、正規の日数が立つとすぐに更衣母子を 宮中へお招きになった。小皇子はいかなる美なるものよりも美しいお顔をしておいでになった。帝の第一皇子は右大臣の娘の女御からお生まれになって、重い外戚が背景になっていて、疑いもない未来の皇太子として世の人は尊敬をささげているが、第二の皇子の美貌にならぶことがおできにならぬため、それは皇家の長子として大事にあそばされ、これは御自身の愛子として 非常に大事がっておいでになった。

*「全訳 源氏物語(上)」(全3巻)与謝野晶子訳 (「桐壺」〜「少女」)(角川書店)P7に拠る。
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■【原文 b. 語釈】 
*源氏の祖母である北の方が、亡夫の遺言を守ろうと女の意地を貫きます。虚偽と虚飾の渦巻く後宮で、娘を支える女親の胸には、家を守る執念が燃えています。これが一家の主婦の真の姿ともいえます。
光源氏が誕生します。
天性の美貌の持主です。妃たちの嫉妬と羨望の嵐のなかでの出生は、物語の主役にふさわしい.....波乱万丈の人生が源氏の行く手に待っています。

●父の大納言は亡くなりて母北の方なむいにしへの人のよしあるにて:桐壺更衣の家系は、父親が大納言。大臣に次ぐ、太政官の次官。正三位相当。しかし既に没している。母親は、由緒ある旧家の出で、教養のある人。兄弟について語られていないのは、はかばかしい人がいなかったことによる。「にしへの人のよしあるにて」は「にしへの人のよしある(人)にて」の文脈で「にしへの人」と「よしある(人)」は同格の構文。「にて」連語(断定の助動詞「なり」の連用形「に」+接続助詞「て」)なので、の意。『新日本古典文学大系』は「何氏か不明。大納言で亡くなったことは没落を暗示するか。のちに出る紫上の故母の父も亡き大納言である点が類型的である」と注す。
●いたう劣らず:「いたく」副詞。下に打消、または禁止の語を伴って、それほど、たいして、の意を表す。「いたく」は平安時代から鎌倉時代にかけての和文に用いられた。
●後見しなければ:副助詞「し」強調の意。形容詞「なけれ」已然形+接続助詞「ば」は順接の確定条件を表す。後見人がいないので。
●先の世にも御契りや深かりけむ:「や」(係助詞、疑問)、「けむ」(過去推量の助動詞)、疑問の主体者は語り手。語り手の物語登場人物たちへの推測が挿入されている。
●玉の男御子さへ生まれたまひぬ:「さへ」(副助詞)、語り手の驚嘆が言い込められた表現。「玉」は当時の最高の美的形容。また「魂」とも通じて呪術的な霊力をもった意味もこめられている。
●いつしかと心もとながらせたまひて:主語は帝。「いつしか」(連語、代名詞「いつ」+副助詞「し」強調の意+係助詞「か」疑問の意)は、これから起こることを待ち望む気持ち、を表す。