| Vol.209 フィンランディア 投稿者:KEN1 投稿日:2007/02/02(Fri) 22:44 No.767 | |
|
森と湖の国「フィンランド」。この国で敬愛を受け、国民的英雄と讃えられている作曲家がいます。その人物は「ジャン・シベリウス」(Jean Sibelius)[1865年12月8日〜1957年9月20日]。祖国を愛したシベリウスの曲には、厳しくも美しいフィンランドの自然と対峙して生まれたような、深く内面性へ根差した作品が多く、清冽で澄み切った独特の作風で知られています。因みに、今年(2007年)はシベリウスの歿後50周年のシベリウス・イヤーに当たります。
シベリウスの名前の綴りを見ると、「ヤン・シベリウス」と読めますが、船乗りだった彼の叔父が、フランス風にジャンと名乗っていたことに影響を受け、シベリウス自らもそう称していたと伝えられていることから、「ジャン・シベリウス」と表記しています。
■シベリウスの祖国フィンランドの歴史 シベリウスの代表作の一つに、交響詩「フィンランディア」というものがあります。この曲が生まれていなければ、フィンランドの独立はなかったと言われるくらい、当時の政情に多大な影響を与えた曲とされています。
北欧の国フィンランドは、常に他国に支配されていた歴史を持つ国です。
1155年、 西隣の国スウェーデンは、北方十字軍と称してフィンランドに進攻し、フィンランドを統治下に置いてしまいます。1581年にはフィンランドの独立が模索され、スウェーデン王国を宗主国とする形でフィンランド公国の建国が宣言されたものの実情は変わらず、1808年まで、スウェーデンの一つの州として、政治的抑圧や経済的搾取を受け続けることとなります。
フィンランドは地政学上の特性から、ロシアの北欧への侵攻を受けるため、スウェーデンの覇権とロシアの西進との板挟みあい、常に蹂躙され続けてきました。この両国の間にあって、フィンランドは度々争いに巻き込まれています。1323年、スウェーデンとロシアの間で結ばれた「パハキナサ−リ条約」により境界線が定められ、東南部の「カレリア」の地は二つに分かれることとなりました。やがて、1397年にデンマーク・ノルウェー・スウェーデンの北欧三国間で成立した「カルマル同盟」により、スウェーデンからの圧制は弱まりましたが、今度は、デンマークからの重税に苦しめられることになります。
1700年には、帝政ロシアがバルト海の覇権をスウェーデンから奪おうとしたため、「大北方戦争」が起こります。その結果、1721年、「ニスタット条約」でフィンランドの一部「カレリア」がロシア帝国に割譲されてしまいました。
1807年、ロシア皇帝「アレクサンドル1世」は、ナポレオンの対英大陸封鎖令に参加する見返りとして、「ティルジット条約」の中で、フィンランドの獲得を認めさせます。この内諾を受け、1808年に帝政ロシアはスウェーデンに宣戦布告、「フィンランド戦争」が勃発しました。この戦争により、ロシアはスウェーデンからフィンランドを奪い、1809年には、アレクサンドル1世がフィンランド大公国を建国し、フィンランド大公を兼任する形で、フィンランドは立憲君主制の大公国となりました。その後、スウェーデンが戦勝国となりますが、フィンランドはスウェーデン領に戻ることはなく、ロシアの一公国として留め置かれています。
三代目のフィンランド大公となった「アレクサンドル2世」は、啓蒙的な開明君主として、外交権は認めないものの、宥和政策を採り、フィンランド人による統治を認めています。この時代は、スウェーデンの支配を受けていたときとは違い、宗教・政治・言語など、ロシア化を強要されることはなく自由が認められていました。この政策によって、フィンランド人はロシア皇帝に忠誠を誓い、束の間の自由で平和な時代が訪れます。この時期は、フィンランドが独自の文化を確立していったばかりでなく、国づくりの基礎を積み上げ、独立に向けた知恵を蓄えるなど、民族意識に覚醒していった重要な時期となっています。
■フィンランディアとフィンランドの独立 長々とフィンランドの歴史を綴ってきましたが、ここからシベリウスが登場します。
19世紀中頃から、ヨーロッパ諸国の形勢は急激に変化します。この情勢の中、四代目大公「アレクサンドル3世」や五代目大公「ニコライ2世」の時代になると、ロシア民族主義が台頭し、強行にフィンランドをロシア化する動きが出てきます。1899年には、フィンランドに対する宥和政策を中止し、自治権を奪おうと目論んだため、民衆はロシアの圧政に苦しめらることになります。
そんな中、ナショナリズムに目覚めていたフィンランド人の活動の一環として、新聞業界人が、フィンランドの歴史を描いた民族劇『いにしえからの歩み』(Scenes historiques;『歴史的情景』)の上演を計画します。当時、作曲家として成功を収めていたシベリウスに、この劇の付随音楽の作曲が委嘱され、1899年11月、この劇と共に全6曲の付随音楽がヘルシンキで初演されました。この上演は、フィンランドの民族叙事詩『カレワラ』(Kalevala;「英雄の地」の意)の情景が演じられていたため、祖国を愛する人々の民族意識を揺さぶることとなりました。
シベリウスは、これ以前にも、1891年に『カレワラ叙事詩』に基づく大作『クッレルヴォ交響曲』を発表し、大成功を収めています。また、1893年に野外劇のため作曲された劇付随音楽『カレリア』(全9曲)は、その後、直ぐに『カレリア』序曲作品10と、「間奏曲」「バラード」「行進曲」の3曲からなる、『カレリア』組曲作品11に改編されるなど、民族的題材による創作活動を行っていました。
因みに、カレワラ叙事詩とは、医師「エリアス・リョンロート」(Elias Lonnrot)[1802年4月9日〜1884年3月19日]が、フィンランド、とくにカレリア地方に伝わる民間伝承を収集し編纂した叙事詩で、当初、1835年に二巻三十二章の叙事詩として出版され、最終的には、増補されて、1849年に、全五十章のものとして出版されていたものです。発表当時、フィンランドの知識人に大きな衝撃を与え、カレワラによってフィンランド人の民族意識が高揚したとされています。
シベリウスは、1899年の『歴史的情景』の上演で、6つの情景に合わせた音楽をそれぞれ作曲していますが、最終場面「フィンランドは目覚める」(Suomi heraa)のための音楽が特に好評となり、「スオミ(スウォミ)」(Suomi;フィンランド語で「フィン人の自称」、つまりフィン人の国という意味でフィンランドを指す)と呼ばれるようになります。翌1900年7月2日には、パリ万国博覧会に於いて、「ロベルト・カヤヌス」の指揮ヘルシンキ管弦楽団の演奏によって、独立した交響詩として初演され、聴衆を感動の渦に巻き込んでいます。この曲が、後の交響詩「フィンランディア」の原曲となったものです。また、フィンランディアの名称は、シベリウスの生涯の友であった「アクセル・カルペラン男爵」の示唆により付けられました。
ヨーロッパ諸国に於けるフィンランディアの上演は成功を収め、いつの間にか、フィンランドの独立を認める雰囲気がヨーロッパにも広がり、ロシアの立場は次第に悪くなっていきます。この曲の成功によって、フィンランドで独立の気運が高まっている状況は、すぐさまロシア皇帝に伝えられました。そして、弾圧が始まり、スオミの演奏は禁止され、スオミの名がある演奏会は、厳しく取り締まりを受けます。すると、今度は名前を変えて上演されますが、直ぐに弾圧されるなど、しばらくいたちごっこが続きます。その間、フィンランドの独立運動は益々勢いを増し、1904年には、遂にロシア総督が暗殺されます。
独立の機運が高まる中、日露戦争終了後の1905年、第一次ロシア革命が起こり、ニコライ2世はフィンランドのロシア化政策を一時撤回します。フィンランドは独立こそ果たせませんでしたが、民主的な憲法が制定され、普通選挙法や女性参政権などが実現し、総選挙によって議院内閣制に基づいた政府が発足しました。しかし、第一次世界大戦の緊迫感の中、ロシアは再びフィンランドを抑圧し、政府は解散され、法律は停止されまてしまいます。
これでフィンランド独立の夢は霧散したかに見えました。しかし、フィンランディアの成功によって、民族の誇りを自覚していたフィンランド人の団結心は固く、1917年のロシア革命(二月革命・十月革命)を機に、徐々に追い詰められたロシア国内の政治的動揺に乗じて、フィンランドは12月6日に一方的に独立を宣言しました。その後、フィンランド国内で急進左派による内戦が勃発したものの数ヶ月で終結し、1919年には、国際的承認を得て独立国と認められました。
その後、フィンランディアの中間部にある美しい旋律には歌詞が付けられ、「フィンランディア賛歌」(Finlandia-hymni)として独立し、現在でも、フィンランド人に勇気と希望を与え続ける、第二の国歌として愛されています。
■交響詩フィンランディア フィンランドの独立の歴史を知ると、現在でもフィンランドの人々が、フィンランディアを宝物のように大切にしていることが良く判ります。また、この曲が、当事のフィンランドを描いている曲であることにも気付かされます。
フィンランディアは、冒頭「アンダンテ・ソステヌート」(緩やかに、歩くような速さで・音を保持するの意)で、唐突に、重々しく不安げな金管の重奏で始まります。これが「苦難のモティーフ」と呼ばれるものです。やがてティンパニーを伴い咆哮のように奏でられるこの動機は、圧制に苦しむフィンランド人の苦悩を描いているかのようです。
暗鬱な空気を表すような木管と低弦によるメロディが、民衆の悲嘆と悲しい祈りを示すようこれを受けています。そうするうちに、金管によって「闘争への呼びかけのテーマ」が、重々しいファンファーレとして出現します。民族の誇りを鼓舞するように鳴らさた後、「アレグロ」へとテンポを上げて、金管とティンパニーの「トレモロ」(小きざみに繰り返す奏法)による「闘争への呼びかけのモティーフ」となります。これは、戦争での銃撃戦を表現したもののようで、圧制に立ち向かう民衆の戦闘シーンを表現しています。「苦難のモティーフ」と「闘争への呼びかけのモティーフ」が交錯しながら、次第に戦局がフィンランドの優勢であることを表現するかのように、ティンパニーと低音による行進のような音楽が始まり、「勝利に向かうモティーフ」により、勝利へ突き進む戦いの音楽が力強く盛り上がって、次第にクライマックスへと向かいます。
主部が力強く繰り返された後、賛美歌風の旋律が流れ、完全に勝利を確信したフィンランドを言祝ぐように歌い上げられます。木管群による美しく旋律の後、弦楽器へとバトンタッチさたこの部分は、戦沒者へ優しく祈りを捧げるかのようにも聞こえます。この部分には、後に歌詞が付けられ、『フィンランディア賛歌』と呼ばれるようになります。
フィンランディア賛歌の部分が静かに終わった後には、「闘争のモティーフ」と「勝利に向かうモティーフ」が再現され、全管弦楽によって雄大に盛り上がりを見せます。最後には、フィンランディア賛歌のメロディも加わって、壮大に戦勝を祝うように結ばれます。
■フィンランディア賛歌 『フィンランディア賛歌』は、最初、歌手の「ヴァイノ・ソラ」が、1937年(かその翌年)に、フィンランド語の歌詞を付けて、シベリウスの承諾を取り歌っています。1940年には、詩人「コスケンニエミ」(Veikko Antero Koskenniemi)[1885年〜1962年]に正式に作詞が依頼され、現在の歌詞として最終版が確定されたのは1948年のことです。今日では、讃美歌として、この旋律に詞をつけて歌われています。
フィンランディア賛歌 (Finlandia-hymni) Oi Suomi, katso, sinun paivas koittaa, yon uhka karkoitettu on jo pois, ja aamun kiuru kirkkaudessa soittaa kuin itse taivahan kansi sois. Yon vallat aamun valkeus jo voittaa, sun paivas koittaa, oi synnyinmaa. Oi nouse, Suomi, nosta korkealle paas seppeloima suurten muistojen, oi nouse, Suomi, naytit maailmalle sa etta karkoitit orjuuden ja ettet taipunut sa sorron alle, on aamus alkanut, synnyinmaa.
<意訳> おお、スオミ(フィンランド)、見よ、夜明だ。 あなたを脅かす夜の闇は追い払われ、 雲雀が、輝く朝日の詩を歌っている様子は、まるで空が鳴り響いているようだ。 朝の光が夜の闇を打ち砕くように、 あなたの夜明けが訪れたのだ、祖国よ。 さあ立ち上がれ、スオミ、そして高々と、偉業の示す花束をかざし頭を上げるのだ。 さあ立ち上がれ、スオミ、あなたは世界に示した、隷属に甘んずることなく、支配に不屈であったことを、 あなたの一日がようやく始まるのだ、祖国よ。
※意訳は、東京大学大学院言語動態学教授 松村一登氏の訳を参考にしました。 また、フィンランド語の歌詞なので、原文中、母音の一部にウムラウトが付いています。
■シベリウスの生涯 シベリウスは、1865年12月8日、ヘルシンキ北方にある古城の町ハメンリンナに、父「クリステイアン・グスタフ」と母「マリア」の長男として生まれました(姉・リンダ、弟・クリステイアン)。シベリウスは洗礼名を、「ヨハン・ユリウス・クリステイアン」(Johan Julius Christian)といい、「ヤンネ」とスウェーデン風の愛称で呼ばれていました。元々、シベリウスの母国語はスウェーデン語でしたが、1873年に、フィンランドの文化を守る目的で新設されたフィンランド・ノルマル学校(フィンランド語の予備学校)に進学したため、日常的に、スウェーデン語とフィンランド語の二ヶ国語に接するようになります。
ハメンリンナの駐屯地で軍医をしていた父は、シベリウス2歳の時(1868年7月31日)に急死しています。父の死により借金を抱えた家族は、母方の祖母で牧師の未亡人だった「カタリーナ・ボルイ」と共に生活することを余儀なくされています。
幼い頃より音楽に親しんでいたシベリウスは、5歳の頃からピアノを、少年時代にはヴァイオリン、そして室内楽に熱中しています。早熟であったシベリウスは、1875年、10歳にしてヴァイオリンとチェロの為の曲『水滴』を作曲しています。ピアノは叔母の「ユリア・ボイル」から手解きを受け、1880年の春から、軍楽隊長の「グスタフ・レヴァンデル」にヴァイオリンの奏法を学び始め、ヴァイオリンの魅力に取り憑かれました。このレッスンは25歳まで続いています。因みに、シベリウスの姉はピアノを、弟はチェロを弾いていたので、三人でピアノ・トリオとしてよく演奏していたようです。
1885年、19歳でヘルシンキ大学に入学し法律を学びますが、同時にヘルシンキ音楽院(後のシベリウス・アカデミー)の選科生となっています。最初はヴァイオリンそして作曲法へと、深く音楽の世界に没頭していったシベリウスは、1886年に大学を退学して音楽の道に専念します。シベリウスは、最初ヴァイオリン奏者を志望していたようですが、学内でのコンサートでヴァイオリン独奏に失敗したため、志望を作曲家へと転換したようです。1987年12月29日に母が死去。1888年、音楽院の教授の一人であった、イタリアの名ピアニストで作曲家の「フェルッチォ・ブゾーニ」(Ferruccio Benvenuto Busoni)[1866年〜1924年]との出会いに大きな影響を受けて、親交を得ています。この関係は1924年にブゾーニが亡くなるまで続きました。音楽院時代に作曲した『弦楽四重奏曲イ短調』が、1889年5月29日に初めて演奏されています。
1889年に音楽院を卒業後、自治領政府から奨学金を受けて、1889年の秋から翌年に掛けベルリンに留学し、「アルベルト・ベッカー」(Albert Becker)に師事しています。しかし、対位法しか教えてもらえないと愚痴をこぼしています。1890年の秋から翌年には、ウィーンにも留学し、作曲家でウィーン音楽院楽理科教授の「ローベルト・フックス」「(Robert Fuchs)に師事し、作曲法と器楽法を学んでいます。また、同音楽院の管弦楽法教授で作曲家の「カール・ゴルトマルク」(Karl Goldmark)の門下生にもなっています。留学中に、R・シュトラウスの『ドン・ファン』の初演や、ブルックナー『交響曲第3番』の演奏に触れたり、ピアニストであり、1882年創立のベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の初代常任指揮者に就任していた「ハンス・フォン・ビューロー」(Hans Guido Freiherr von Bulow)のピアノ・ソナタに触れる機会を得ています。
1890年、「アイノ・ヤルネフェルト」(Aino Jarnefelt)[1871年〜1969年]と婚約し、1892年6月10日、シベリウス26歳の時に結婚、後に六女(内一人は死去)を儲けています。彼女は、フィンランドで名立たる将軍の娘であり、また、彼女の家がフィンランド語の家系であったため、シベリウスは、婚約期間中よりフィンランド語やその文化に興味を抱き、民族叙事詩『カレワラ』を熱心に読んでいました。また、新婚旅行には、フィンランド東部の南北カレリア地方を訪ねるなど、フィンランドの伝承文化を育んできた気風に触れ、その後の創作活動の源泉となっています。つまり、シベリウスが祖国の文化に根差した創作活動を行った要因には、スウェーデンやロシアからの圧制に対抗する民族的意識ばかりではなく、妻を理解しようとした愛情の表れもあったと言えるようです。
余談ですが、二人の新婚旅行は、若気の至りか、蒸気船に小型ピアノを乗せて湖を渡ったり、野宿したりと、かなり破天荒なものだったようです。また、シベリウスが吟遊詩人に会うため、妻を一人でクオピオという街に行かせて、シベリウスだけで農村巡りなどをしていたようです。
1891年、ウィーン留学中にカレワラ叙事詩をテーマとした『クレルヴォ交響曲』を手掛け、翌年4月29日に留学帰りにヘルシンキ大学講堂で、自らの指揮で初演され好評を博しました。しかし、この曲は、管弦楽に独唱・男声合唱も加わった大規模な曲であったため、3度しか演奏されず、その後、シベリウスの生存中に演奏されることはありませんでした。翌年には、『エン・サーガ』を、そして1895年には『レミンカイネン組曲』(4つの伝説曲)を完成させました。1892年から1901年には、ヘルシンキ音楽院で、作曲法とヴァイオリンを教えています。その後、1894年には、イタリアとパイロイトを訪問しています。
1897年、ヘルシンキ大学の音楽教授の座を、当時、フィンランドを代表する音楽家で指揮者の「ロベルト・カヤヌス」(Robert Kajanus)[1856年〜1933年]と争っています。シベリウスは、カヤヌスの代表作で、カレワラに因んだ作品『アイノ交響曲』を聴き感銘を受け、クレルヴォ交響曲交響曲を着想した経緯がありました。しかし、1898年にシベリウスが大学教授に任命された際、もう一人の志願者であったカヤヌスが大学当局に訴えて、決定を覆させています。その後、二人は1900年にヘルシンキ管弦楽団(現在のフィンランド国立管弦楽団)の演奏旅行(主席指揮者:カヤヌス、副指揮者:シベリウス)に際し和解しています。和解の後シベリウスは、交響詩『エン・サーガ』や『ポホヨラの娘』をカヤヌスに献呈しています。その後、カヤヌスは、シベリウスや他のフィンランドの作曲家の擁護者として、ヘルシンキ管弦楽団で活躍しました。
1899年、『交響曲第1番』の発表と共に、『アテネ人の歌』(テュルタイオスの戦争の歌)も初演されました。この歌には、帝政ロシアに反発する愛国的メッセージが込められていたため、シベリウスは国民主義的な作曲家と位置付けられるようになります。このようなシベリウスの国民的人気を受けて、同年に『歴史的情景』の上演に際し、付随音楽の作曲を依頼され発表しています。その終曲が後に改作されて、交響詩『フィンランディア』として独立し、更なる人気を博しています。
1900年には、生涯の友となる「アクセル・カルペラン男爵」(1858年〜1919年)との交際が始まります。男爵は、それほど裕福ではなかったため、パトロンという立場ではなく、良き理解者・助言者としての付き合いでした。カルペラン男爵の尽力により、友人たちを説得して資金が調達され、1901年2月〜3月、シベリウスは家族と共にイタリアへ長期滞在の旅に出掛けました。現在のリグーリア州ジェノヴァ郊外のリゾート地・ラパッロ街に居を構え、『交響曲第2番』の作曲を開始します。
フィンランドに比べて穏やかな気候のイタリアを、シベリウスは“魔法が掛かった国”と評しています。この温暖な風土と、イタリアに伝わる伝承や芸術に触れたことにより、彼の創造力は刺激を受け、第2楽章の楽想は、フィレンツェでの印象や、ドン・ファン伝説にインスピレーションを得たと言われています。更に、ローマ滞在中には、16世紀のイタリアの作曲家で、ミサ曲・モテットなどを多数作ったローマ楽派の祖「パレストリーナ」(Giovanni Pierluigi da Palestrina)[1525年頃〜1594年]の音楽に触れ、「パレストリーナの対位法」を学び多くを吸収しています。しかし、シベリウスは交響曲第2番をイタリア滞在中に完成できませんでした。フィンランドに戻ってからも筆を入れ、1901年11月にカルペラン男爵宛に完成が近いと手紙を送っています。この時点で一旦完成していたようですが、年末に再び大幅な改訂を行っています。イタリアからの帰途に、プラハに立ち寄って、「ドヴォルザーク」に面会し、帰国後には、ハイデルベルク・フェスティヴァルに出掛け、「R・シュトラウス」の知己を得ています。
また余談ですが、シベリウスは若くしてその才能を認められたせいか、日頃より、享楽的な生活を送っていました。1897年以降、政府からの芸術家として終身年金3000マルッカを受けるようになり、経済的には安定していたかに見えたシベリウスですが、生来の浪費癖がたたって、常に困窮していました。特に、結婚前のベルリン留学時代に見られた服装への高級志向のため、奨学金が短期間で底をついてしまう事態も招いているほどです。シベリウスは、こんな経済的困窮の原因を作ってしまう自己の弱さを痛感しながら日々を送っていました。また、己の弱さから逃避するために痛飲したり、生来のあがり症を誤魔化すために、指揮台に立つ前に飲酒をすることもあったようです。更に、大好きな葉巻を続けたためか、後年には咽頭腫瘍の摘出手術を受けています。
こうしたシベリウスの生活を立て直そうと 支援者のカルペラン男爵は、都会を離れ郊外へ居を移すことを薦めます。こうして、1904年の夏の終わり頃、ヘルシンキ近郊にあったトゥースラ湖東のヤルヴェンパー郊外の森に、妻の名前に因んだ山荘「アイノラ」(Ainola)を建てました。この隠遁所での生活は、後のシベリウスの作風にも影響を与え、その作風は次第に内省的な性格へと変化していきました。
その影響からか、1907年に発表した『交響曲第3番』以降の作品では、様式が整理され、より純化されたスタイルへと変貌しています。この変化は、「あたかも脂肪や華やかな外面の交響的な美しさの部分を殺ぎ落としているようだ」と評されています。
1905年、ロンドンやパリ、ベルリンに訪問しています。その後、1908年と1909年、1912年にもイギリスを再訪問しています。因みに、シベリウスの指揮ぶりは、専門の指揮者のような見事な棒さばき、というわけにはいかなかったようです。しかし、直感的で力強く、聴衆にもオーケストラにも好評だったようです。
1907年の秋、ヘルシンキでシベリウスはマーラーと面会しています。伝えられるところによると、両者の音楽観が相容れないものであったため、また、互いの自尊心が邪魔をして会話は弾まなかったそうです。
またまた余談ですが、シベリウスは、若い頃より「モーツァルト」、そして「メンデルスゾーン」の才能を崇拝していたようです。また、「ベートーヴェン」については、自分と同程度の才能と感じていたようで、「才能は普通だが、弛まぬ努力で偉大になった作曲家」と評しています。しかし、1890年にベートーヴェン交響曲第9番の実演に接し、その考えを改めています。「ワーグナー」については、その才能を認めていたものの、大袈裟過ぎると嫌悪しています。また、「ブルックナー」については、交響曲第3番に接した際、その精神性に深く惹かれ、深い敬愛と尊敬を覚えたとの言葉を遺しています。そして、チャイコフスキーについては、自分と同じ感性を感じたものの、後年比較して、自作の強固さを強調するようになっています。この様な作曲家への評価は、シベリウスの音楽観を俯瞰する上で興味深いものです。
1908年には、ベルリンで咽頭腫瘍の摘出手術を受け、その後7年間はアルコールを断っています。この手術後、更にその作風は内向的性格を帯びるようになり、1909年の『弦楽四重奏曲ニ短調』(親愛の声)や、1911年の『交響曲第4番』に表れています。
1914年、アメリカを訪問して『大洋の女神』の初演を指揮しています。同年には、エール大学から名誉博士の称号を授与されています。
第一次世界大戦が勃発すると、シベリウスは外国へ演奏旅行を断念しています。戦争中、金銭的な問題を回避するため、幾つかの小曲を作曲してヘルシンキの出版社に売っています。しかし、その殆どは戦争終結まで出版されませんでした。その後、1915年に『交響曲第5番』を完成し、1916年と1919年に改訂しています。
1915年12月8日のシベリウス生誕50周年は、国家規模の祝典となっています。祝賀コンサートでシベリウスが指揮した曲に、『交響曲第5番』の初版が含まれていました。
1923年の『交響曲第6番』、1924年の『交響曲第7番』、1925年の交響詩『タピオラ』、1926年の『テンペスト』の劇音楽の発表以降、シベリウスの創作は途切れがちになり、1946年に発表した作品が、現存する最後の作品とされています。一説には、『交響曲第8番』のスケッチをしていたようですが、終に発表されることはありませんでした。交響曲第8番は、一度は完成したものの、シベリウス自ら燃やしてしまったとも伝えられています。
1925年12月8日、生誕60周年祭も大々的に執り行われました。大統領から白薔薇十字勲章が贈られ、国民からも27万マルッカもの寄付を受けています。更に、終身年金も10万マルッカに増額されています。翌年の秋頃に、シベリウスは指揮することを止めています。
1935年12月8日の生誕70周年祭が、シベリウスが公の場に現れた最後となりました。その祝賀コンサートには、7000人もの聴衆が訪れたといいます。
1957年9月20日の夕方、ヤルヴェンパーのアイノラ荘で脳出血により歿します。享年91歳でした。シベリウスの葬儀は、ヘルシンキの大聖堂で国葬として営まれ、棺はアイノラ荘の庭に埋葬されました。葬儀の後、葬列がアイノラへと向かう際、数千人もの会葬者が列を成して見送り、フィンランド中の家の窓には、ロウソクの火が灯さたといいます。
シベリウス:「交響詩フィンランディア」op.26 を聴きながら・・・ ボーンマス交響楽団 パーヴォ・ベルグルンド指揮
|
| イタリア的な幸せ! states - 2007/02/05(Mon) 01:04 No.768 | |
|
|
昼間、コンサートホールにてお会い出来、 幸甚でありました! 良いコンサートでしたね。
・・シベリウス・2番の「イタリア的なゆとり」は、 このコラムを拝読して更に合点がいきました。 昨夜、SERAV様が理由を仰らず、 「カレリア組曲」をお持ち下さって聴かせていただき、 特に「行進曲」には感動すらおぼえて。 「カレリア組曲」は見えない革命闘士ですね! キーワードですね。
ありがとうございました。 |
| Ensemble Labo. Kumamoto KEN1 - 2007/02/06(Tue) 20:52 No.769 | |
|
|
statesさん、返信ありがとうございます。
今回のコラムは、Ensemble Labo. Kumamoto第4回演奏会への水先案内の意味で配信しました。
これまで誘われていたものの、都合がつかず聴けませんでしたが、 やっと、出掛けることができました。
まず、思っていた以上に、高い技術力に驚きました。 仕事の合間に練習されていることを思うと、本当に素晴らしいことだと思います。 演奏全体については…、これは言わないほうがよいですね。
在熊のアマチュア・オケ「Ensemble Labo. Kumamoto」。 “実験室”と名前のとおり、色々なことにチャレンジして、 団員の皆さん自身が楽しむとともに、素敵な音楽を熊本の人達に届けて下さい。
|
| Re: Vol.209 フィンランディア SERAV - 2007/02/07(Wed) 00:58 No.770 | |
|
|
シベリウスさすがにこの季節 我が家のレパートリーに上がる季節限定といったところです。
北欧の作曲家独特の「透明で透き透る」音楽が心を洗い また別の意味で「嫌味」に聞こえなくもない 最近はシベリウスをよく聞いたので 今宵グリークでも聞き休むとしましょう。
何時もながら作曲家の詳しい説明勉強になります。 |
| グリーク KEN1 - 2007/02/07(Wed) 19:57 No.771 | |
|
|
SERAVさん、返信ありがとうございます。
私も最近は、ベルグルンド指揮のシベリウスばかり聴いていました。 聴けば聴くほど、交響曲は3番以降が良いですね!
カラヤン・ベルリン・フィルの美しい(だけの)演奏を聴いた後では、 物足りない印象があるかもしれませんが、シベリウスはこれでいいのです。 純化された美しさなら、ベルグルンドが一番だと思います。
グリーグを、ドイツ語読みで「グリーク」と表記なさっているところなど、 SERAVさんらしいですね! 私も、ベルグルンド・ボーンマス交響楽団で 「ペール・ギュント」でも聴くことにしましょう。
|
|