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バー ステイツ コラム Walnut rocking chair
【Virtual STATES symposion】by KEN1

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Vol.217 スコッチの故郷「グレン」 投稿者:KEN1 投稿日:2007/07/07(Sat) 18:12 No.811  
 今日は七夕ですが、あいにくの雨で、織姫と彦星の逢瀬は叶わないようです。今日降る雨を灑涙雨(さいるいう)と言いますが、昨日からの灑(注)ぐと言うよりは滂沱の雨に、被害にあわれた方もあったことでしょう。心よりお見舞い申し上げます。

 さて今回は、バーのコラムらしく、久々にお酒の話題をお送りします。

 ステイツのバック・バーには、様々なボトルが並んでいますが、その一角を占めるスコッチ・ウイスキーの中に、「グレン〜」(GLEN〜)という名前のものを見かけると思います。すぐに思い付く有名なものでも、「ザ・グレンリベット」(THE GLENLIVET)、「グレンフィディック」(Glenfiddich)、「グレンファークラス」(Glenfarclas)、「グレンモーレンジ」(GLENMORANGIE)、「グレングラント」(GLEN GRANT)などに、このグレンの名称が付いています。

 このグレンという名称には、スコッチの歴史に纏わる秘密が隠されているのです。それでは、スコッチの歴史を紐解きながら、グレンの秘密に迫りたいと思います。

■ゲール語としてのグレン
 グレンとは、「ゲール語」で“渓谷”や“狹い谷”、“深い谷”を意味する言葉で、地名の構成要素として使われている氷食谷(U字谷)のことです。地名としてのグレンは、“Glen”“Glin”“Glyn”“Glan”“Glain”など様々に綴られ、北ウェールズやイングランドの湖水地方、スコットランドのハイランド地方によく見られる地形です。特に、スコットランド北西部のマーレー湾に流れ込む、ネス川の河口に位置しているインヴァネス(Inverness)の北西部は、ハイランド地方でも特に高い山々と深い谷(グレン)が多い所で、それらのグレンには細長い大小のロッホ(地溝湖)が点在しています。周囲の山々は、一面ヒース(heath)に覆われており、谷はスコットランドの代表的な景観の一つであるピート湿原(Peat Bog)を形成しています。このピート層を通って流れてきた水を湛えるロッホは、琥珀色をしていることも珍しくありません。怪獣ネッシーで有名なネス湖は、ロッホ・ネス(Loch Ness)と言い、この幅2km長さ38kmもある湖も、細長いグレンの底に出来たロッホで、一番深いところで230m、平均深度も200m前後あります。因みに、“Ness”とは、古代北欧語で「岬」を意味する言葉です。

 グレン一帯に群生しているヒースとは、ツツジ科の低木エリカ属の数種とカルーナ(Colluna)(ハイデソウ・御柳擬き(ギョリュウモドキ)、所謂、ヘザー(Heather)を含む呼称で、スコットランドやアイルランドの荒地をイメージさせる代表的な植物群です。そしてピートは、ヒースとその下に生えているコケ類や綿萱(ワタスゲ)、葦などが長い年月を掛けて堆積し、空気に触れない条件の下でゆっくりと分解して出来た泥炭の一種です。このピートは、言わずと知れたモルトウイスキーの原料となる麦芽を乾燥させる際に用いられているもので、スコッチの特徴的な味わいの一つである、煙っぽい(smoky)とかピート様(peaty)と表現される風味は、このピートで薫煙されることに起因しています。

 ところで、グレンと同様に「ウイスキー」(Whisky)も、ゲール語の「ウシュク&ウースカ」(uisge)から派生した言葉です。12世紀にアイルランドを占領したイングランド軍には、この言葉が「ウイシュギ」(uishgi)と聞こえたとの記録が残されており、それが次第に「ウスケバア」(usquebaugh)、「ウスケ」(usuque)、そしてウイスキーへと転訛していきました。

 このウイスキーの語源である“uisge”は、「ウシュク・ベーハー」(uisge beatha)の略語であり、「命の水」という意味です。これは、ヨーロッパの錬金術師が広めたとされる蒸留酒を、ラテン語の「アクア・ヴィテ」(aqua vitae)と呼んでいたものを、ゲール語読みしたものとされています(別説では、ゲール語からラテン語に翻訳されたとも)。同様に、北欧の蒸留酒「アクアビット」(デンマーク語・スウェーデン語:Akvavit、ノルウェー語:Akevitt、ドイツ語:Aquavit)や、ブランデーのフランス語「オー・ド・ヴィー」(eau de vie)、そして「ウオツカ」(vodka;ズィズネニャ・ワダ(Zhiznennia Voda)から転訛)の語源の何れも、この命の水を現地語読みしたことに由来しています。

 この様にスコッチを語る上で欠かせないゲール語とは、インド・ヨーロッパ語族のケルト語派に属する言語で、現在では、一般的にアイルランドのゲール語(アイルランド語)を指しています。ゲール語には、アイルランド語以外にも、スコットランドのゲール語(スコットランド・ゲール語)とマン島のゲール語(マン島語)が存在していますが、日本でゲール語として紹介される場合、その殆どはアイルランド語のようです。アイルランド語は、アイルランドに於ける第一公用語として指定されているものの、日常的に使用されることは殆ど稀であり、「ゲールタハト」(an Ghaeltacht)と呼ばれる、アイルランド語を公用語とする地域だけに限られています。

 グレイの多い地方として紹介した近隣の町インヴァネスも、ゲール語で“Inbhir Nis”と表記されますが、これはスコットランド・ゲール語であり、「ネス川の河口」を意味しています。因みに、インヴァネスは、ハイランドの唯一つの市であるため、「ハイランドの首都」とも呼ばれています。

■密造から生まれたスコッチ
 前置きが長くなりましたが、グレンという谷間の地形を表す古い言葉が、どのようにしてスコッチやその蒸留所に付けられることになったのでしょうか。そこには、ウイスキーが密造されてスコッチが生まれたという、何とも皮肉な歴史が関係しているようです。

 一般的にウイスキーという言葉が使われ始めたのは18世紀に入ってからのことですが、大麦を原料とする酒は紀元5世紀初頭に、聖パトリックがヨーロッパからもたらしたとされています。12世紀頃にアイルランドで初めて蒸留され、15世紀末にはスコットランドでもかなりの量が取引されていたと記録が遺されています。16世紀にはウイスキー蒸留所の組合が生まれるまでになり、その多くは家内工業的に蒸留されて、農民の経済の基盤となっていました。

 ウイスキーらしい最初の記述は、1494年、スコットランドの王室財務記録帳に遺されており、それは「修道僧ジョン・コールに麦芽を与え、それによってアクアヴィテを造らせた」との記録だそうです。この時点では、ウイスキーという言葉はまだ使われておらず、一般的に使用されるようになったのは、それから200年以上も後のことです。ウイスキーと言う言葉が公式に登場するのは、1755年、「サミュエル・ジョンソン博士」が編纂した英語辞典に記載されてからのことです。その辞典の記述には、「香料と共に出される蒸留物」と規定されていました。当時のウイスキーは熟成されることがなかったため、粗野で荒々しい焼酎のようなウイスキーを、香料等で風味付けして飲んでいたのでしょう。

 さて、1644年にスコットランド議会によって、ウイスキー税が導入されると、その後、約180年間にも渡り密造が横行します。この酒税には懲罰的な意味が込められており、法外な金額を取り立てることによって、酒造りを抑制していたのでした。当時、スコットランドの農民にとって、この大麦を原料とした蒸留酒は、極めて換金性の高い農産加工品として盛んに作られていましたが、この酒税導入により、スコットランドのほぼ全域が密造地帯と化したのです。

 1707年、スコットランドがイングランドに併合されると、ウイスキーの蒸留税が大幅に引き上げられます。しかし、人々はそう簡単に現金収入の道を諦めませんでした。厳しい取り締まりを逃れるために、人目に付かない奥地へと蒸留場所を移して、山奥に籠もるようにしてウイスキーの密造を続けました。

 その結果、その地方独特の清冽な仕込み水を得るとともに、密造者自ら新たに土地を耕して大麦を収穫することになりました。更に、湿気が多い山奥で発芽や糖化が進む大麦を乾燥させるため、石炭や木材が手に入り難い状況での燃料として、其所彼所で容易に手に入る、熱効率の悪いピートが用いられるようになります。こうして、ウイスキーは蒸留器でゆっくりと蒸留されるようになりました。

 こうした密造という苦肉の策が、ウイスキーに劇的な質的向上をもたらすことになりました。まず、ピートに燻されることによって、蒸留酒に独特のフレーバーが与えられました。更に、収税官吏の目から逃れるために、出来上がった蒸留酒をシェリーなどの古樽に詰めて隠したことにより、樫樽における長期熟成(エイジング)が、琥珀色とまろやかさ・芳醇さを与える幸運に恵まれました。こうして、現在のモルト・ウイスキー製造の基本が定まっていったのです。

 樽熟成の始まりについては異説があるものの、現在に続くスコッチ造りのノウハウは、厳しい酒税から逃れるるために横行した密造酒造りによって確立した、なんとも皮肉な幸運だったのです。因みに、スコットランドでは、密造酒のことを、隠語で「マウンテン・デュー」(mountain dew;山の雫)などと呼んでいたようです。

 しかし、次第に税吏の取締りが厳しくなるにつれ、南部のローランド地方では次第に密造が廃れていきます。これは、山深く渓流が多いハイランド地方に対し、ローランド地方は穏やかな丘陵地帯であるためです。そのような環境では、取締りから逃れて密造を行うことには限界があり、更に、イングランドに接している立地条件も、密造を隠し通せなかった要因でもありました。

 そんなローランド地方に対して、あらゆる手が尽くして取り締まりを強化したにも係わらず、ハイランド地方の密造は面々と続いていきます。遂に政府は酒税法の無意味さを悟り、1823年の物品税法が施行されました。こうしてウイスキー製造許可料が導入されることにより、1世紀以上に渡って続いた密造酒の時代は終わりを告げました。因みに、1824年に政府公認第一号を取得した蒸留所は、あの「ザ・グレンリベット・ディスティラリー」です。

 その後、パテント・スチルの発明やウイスキー裁判など、スコッチに関する興味深い歴史は続きますが、その紹介は別の機会に譲るとして、密造がスコッチの成立に寄与していることは間違いのない事実のようです。伝統的に、スコッチの蒸留所は、「ローランド」(Lawland)、「ハイランド」(Highland)、「スコットランド」西海岸沖の島に浮かぶ「アイラ(アイレイ)」(Islay)、「アイランド諸島」(Island)、「キャンプベルタウン」(Campbeltown)が主要地域として知られていますが、スコットランド全体の約半数近い51もの蒸留所が、非常に狭いスペイサイド地区(Speyside;ハイランド地方の中心)に密集してることからも、スペイサイドがいかにスコッチ造り、つまり密造に適していたかがよく分かります。つまり、密造に適した山深い隠れた地形「グレイ」が、銘醸地としてスコッチの名称や蒸留所の名前に付けられているのは、こうした理由からなのです。

■グレンの呼称をもつ代表的なスコッチ
[ザ・グレンリベット](THE GLENLIVET)
 私も大好きな「ザ グレンリベット」は、シャープで切れの良い味わいのバランスと、柑橘系とフローラルと草原を思わせる香り、そしてバニリンが余韻を楽しませてくれる逸品です。

 グレンリベットとは、ゲール語で「静かなる渓谷」というの意味で、元々は「リベットの谷」という地域全体を示す言葉だったようです。スペイ川に流れ込むリベット川の谷に、その谷を見下ろすように蒸留所は建っています。

 政府公認第一号の蒸留所として、1824年にライセンスを取得した伝統あるディスティラリーであるグレンリベットは、創業者ジョージ・スミスの当時から、その品質は傑出しており、その名声に肖かろうと、多くの蒸留所がグレンリベットを名乗っていました。業を煮やしたグレンリベットが訴訟を起こし、そして勝訴した結果、1880年には、定冠詞である“THE”を付けて名乗ることが政府に認められました。

[グレンフィディック](Glenfiddich)
 世界で一番売れているシングル・モルト・ウイスキーで、色はやや薄いものの、独特の風味と、辛口ですっきりしたまろやかな味からくるのどごしが人気のスコッチです。最初の一滴が生まれ出たのは1887年12月25日、クリスマスの朝だったといいます。

 グレンフィディックのフィディックとは川の名前で、ゲール語では“鹿”を意味する言葉です。つまり、「鹿の(名をもつ川)谷」という意味で、きっと、野生の鹿が水を飲みにくる清冽な流れの谷を表現しているのでしょう。これが、ラベルには鹿が描かれている所以です。

[グレンファークラス](Glenfarclas)
 熟成に全てシェリー樽を使っていることによる甘さと、スモーキーさを兼ね備えた、重厚な味わいが特徴のスコッチです。

 グレンファークラスの名前は、ゲール語の地名「Gleann Fearann Glas」が転訛したもので、「Fearann-Glas」とは、“緑の草の生い茂る”という意味です。つまり、「緑なす草原の谷」という意味に解釈されるでしょう。

 1836年、スペイ川の支流であるエイヴォン川に沿ったこの地に、レヒレリヒ農場の小作農ロバート・ヘイがクレイゲラヒに近いダンダリース蒸留所から持ち出した設備を使って蒸留所を設立しました。1865年に創業者が亡くなったため、蒸留所はジョン・グラントが借地権を買い取り、グラント一族の所有となっています。1870年まで、ジョン・スミスの蒸留所を任せていましたが、彼が新しいクラガンモア蒸留所を自分の手で運営するために去っています。

[グレンモーレンジ](GLENMORANGIE)
 ピート処理が弱めのため、花のような仄かに甘い香りや麦芽の香り、そしてナッツやバターのような風味も感じる、クリーミーでマイルドな味わいが特徴のハイランド・モルトです。

 グレンモーレンジの名前は、蒸留所の辺を流れるモーレンジ川に由来し、モーレンジとは、ゲール語で「大いなる静寂の谷間」「静穏な渓谷」、若しくは「大きな草地の谷」の意味ともされています。

 「大いなる静寂の谷間」や「静穏な渓谷」の根拠は、ゲール語の「Gleann mor na sith」(グレンモーナシー)が転訛したというもので、グレンモーレンジの公式サイトもこの説を採っています。この説では、英語の「Glen of Tranquillity」(大いなる静寂の谷)の意味であると解説されていますが、ゲール語の本来の意味は、「平和な大きな谷」となり、ゲール語学者からは否定されているようです。

 次に、「大きな草地の谷」の根拠は、ゲール語の「Gleann Mor Innse」(グレンモーリンシェー)が転訛したというものです。ゲール語の「Innse」は、草地や島を示す女性名詞「Innis」の所有格であるので、本来は「草地がある大きな谷」という意味になります。しかし、「Morangie」という地名もあるのため、「大きな草地の谷」と解釈しても間違いではないようです。ゲール語学的には、こちらの方に軍配があるようです。

[グレングラント](GLEN GRANT)
 スコットランド北部、北海に注ぐスペイ川流域で生まれたスコッチで、ハイランド・ピュアモルトのスムーズな味わいと風味には定評があります。

 グレングラントの名前は、創設者ジョン及びジェームズ・グラント兄弟にグレンを組み合わせたもので、「グラント一族の谷」という意味となります。

 グラント一族とは、元々イングランドのケム川流域出身の一族とか、ノルマンディー出身の貴族(フランス語の「Le Grand」)を先祖に持つとか色々な説があるようですが、はっきりとは判っていないようです。因みに、ケンブリッジ(Cambridge)名前は、ケム川(the river Cam)に架かる橋(bridge)が由来となっています。その他、グラントの名は、古いサクソン語から転訛した呼び名で、元々は、「Gravelly」(砂利だらけ)や、「Gray haired」(銀髪の)という意味の名を持つ一族であったとの説もあるようです。

 如何だったでしょうか?

 この他にもグレンの名を持つスコッチは沢山あります。興味があったら、オールド・ファッションド・グラスで、お気に入りのスコッチも傾けながら、名前の由来を調べてみてください。

ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ 第14番 嬰ハ短調 作品27の2「月光」を聴きながら・・・
フリードリヒ・グルダ(ピアノ)


言葉が見つからないのです states - 2007/07/12(Thu) 10:52 No.812  

昨日のことが嘘のようです。
いまだに、信じたくないのです。

ステイツの、KEN1さんのいつものカウンター・スツールは
今夜もリザーブしておきます。


Re: Vol.217 スコッチの故郷「グレン」 DON亀 - 2007/07/12(Thu) 21:49 No.813  

昨晩はご一緒させていただきました。
泪酒になってしまいました。

遅筆でブランクが空いた時の励ましは、いつも温かな言葉でした。
KEN1さん、私たちはあなたのことを決して忘れません。
安らかにお眠りください。

数々の珠玉のコラム、ありがとうございました。


どうか 安らかに・・・ SHINNOSUKE - 2007/07/16(Mon) 11:35 No.814  

拙い私の文章にも、何度も返信をたまわり、
いつも温かく見守って下さいましたこと、
心より感謝致しております。

KEN1さまの存在に、何度も救われました。
本当に、ありがとうございました。
あなたの優しさを、心に刻みます。

どうか、安らかにお眠り下さい。
ありがとうございました。


もうすぐ一年ですね・・。 states - 2008/06/13(Fri) 04:27 No.815  

最近、中村さんのことをよく思い出すのです。

先ほども、貴方の愛したベルリオーズの曲を聴きながら、
「これは中村さんが好きな曲だったなぁ」なんて
考えながら店のワックスがけをして・・帰ってきました。

天国からステイツを見守っていてください。
私が道から外れそうになったら、
なにかしら、空から叱咤してくださいね。


Vol.216 故事成語「伯牙絶絃」&「知音」 投稿者:KEN1 投稿日:2007/07/01(Sun) 00:02 No.805  
 標題の「伯牙絶絃」(はくがぜつげん)とは、知己(ちき)の死を悲しむという意の故事成語です。「伯牙断弦」(はくがだんげん)や「断琴の交わり」(だんきんのまじわり)も同様の意味で使われます。

 因みに、「知己」とは、『史記』「刺客列伝」の「預譲」(よじょう)の一節に、「士為知己者死、、女為説己者容。」(士は己を知る者の為に死す、女は己を説(よろこ)ぶ者のために容(かたちづく)る。)をその語源としていることから、本来、自分の本当の心を良く知っている人を指すものですが、現在では、単に親友や知人を表す言葉となっています。

 ところで、この伯牙絶絃と同じ意味で使われているものに、「知音」(ちいん)というものがあります。知音=“音を知る”という言葉が、どうして自分を理解してくれる人の死を悲しむ意味となっているのでしょうか。そこには、伯牙絶絃に纏わる次のような故事が関係しているようです。

■伯牙絶絃
 この故事成語は、中国は春秋時代([周の東遷]紀元前770年〜[晋の大夫韓・魏・趙の三氏の独立]紀元前403年)、琴の名手であった「伯牙」(はくが)が、自らが弾く琴の調べを真に理解してくれていた「鍾子期」(しょうしき)が亡くなってしまった後、自ら琴の弦を断ち切って、その後、二度と弾かなかったという逸話に由来するものです。

 その出典は、『列子』「湯問篇」(とうもんへん)の第五巻や、『呂氏春秋』(りょししゅんじゅう)「孝行覧・本味篇」(こうこうらん・ほんみへん)、そして、『蒙求』(もうぎゅう)百十八「伯牙絶絃」などに見られ、そこに記述されている次のような内容が題材となっています。

◇『列子』「湯問篇」第五巻
<原文>
 伯牙善鼓琴、鍾子期善聽、伯牙鼓琴、志在登高山、鍾子期曰、善哉、峩峩兮若泰山、志在流水、鍾子期曰、善哉、洋洋兮若江河、伯牙所念、鍾子期必得之。

 伯牙游於泰山之陰、卒逢暴雨、止於巖下心悲、乃援琴而鼓之、初爲霖雨之操、更造崩山之音、曲毎奏、鍾子期輒窮其趣、伯牙乃舎琴而歎曰、善哉善哉、子之聽、夫志想象、猶吾心也、吾於何逃聲哉。

<書き下し>
 伯牙は善く琴を鼓(こ)し、鍾子期は善く聴く。伯牙琴を鼓し、志(こころざ)し高山に登るに在(あ)れば、鍾子期曰(いわ)く、善哉(よきかな)、峨峨(がが)兮(けい)として泰山の若(ごと)しと。志し流水に在れば、鍾子期曰く、善哉、洋洋(ようよう)兮として江河の若(ごと)しと。伯牙の念(おも)う所(ところ)、鍾子期必ず之(これ)を得たり。

 伯牙泰山(たいざん)の陰(いん)に遊び、卒(にわか)に暴雨に逢い、厳下(げんか)に止まりて心悲しむ。乃(すなわ)ち琴を援(とり)て之を鼓す。始め霖雨(りんう)の操(そう)を為し、更に崩山(ほうざん)の音を造る。曲を奏する毎に、鍾子期輙(すなわ)ち其の趣きを窮(きわ)める。伯牙乃ち琴を舎(お)きて嘆(たん)じて曰く、善いかな善いかな、子(し)の聴くや。夫(か)の志の想像すること、猶(な)ほ吾(わ)が心のごとし。吾れ何(いず)くに於てか声を逃れんと。

◇『呂氏春秋』「孝行覧・本味篇」(こうこうらん・ほんみへん)「知音の項」
<原文>
 伯牙鼓琴、鍾子期聽之。方鼓琴而志在太山、鍾子期曰、善哉乎、鼓琴。巍巍乎若太山。少選之間、而志在流水、鍾子期又曰、善哉乎、鼓琴。湯湯乎若流水。

 鍾子期死。伯牙破琴絶絃、終身不復鼓琴。以爲世無足復爲鼓琴者。

<書き下し>
 伯牙は琴を鼓し、鍾子期はこれを聴く。琴を鼓して志し太山(たいざん)に在るに方(あ)たりては、鍾子期曰く、善哉乎(か)、琴を鼓するや。巍巍(ぎぎ)乎(か)として太山の若(ごと)しと。少選(しょうせん)の間にして、志し流水に在れば、鍾子期又曰く、善哉乎、琴を鼓するや。湯湯(しょうしょう)乎として流水の若しと。

 鍾子期死す。伯牙琴を破り絃を絶ち、終身(しゅうしん)復(ま)た琴を鼓せず。以為(おもえらく)、世に復(ま)た為(ため)に琴を鼓するに足(た)る者無しと。

◇『蒙求』百十八「伯牙絶絃」
<原文>
 列子曰、伯牙善鼓琴、鍾子期善聽。伯牙鼓琴、志在高山、子期曰、善哉峩峩乎若泰山。志在流水、子期曰、善哉洋洋兮若江河。伯牙所念、子期必得之。

 呂氏春秋曰、鍾子期死。伯牙破琴絶絃、終身不復鼓琴。以爲無足爲鼓者。

<書き下し>
 列子に曰く、伯牙は善く琴を鼓し、鍾子期は善く聴く。伯牙琴を鼓するに、志し高山に在れば、子期曰く、善哉、峨峨(がが)乎として泰山の若しと。志し流水に在れば、子期曰く、善哉、洋々兮として江河(こうが)の若しと。伯牙の念う所は、子期必ず之を得たりと。

 呂氏春秋に曰く、鍾子期死す。伯牙琴を破(やぶ)り絃(げん)を絶ちて、終身復た琴を鼓せず。以為、為に鼓するに足る者無しと。

■断琴の交わり〜伯牙と鐘子期〜
 では、以上の出典を踏まえて、伯牙絶絃の逸話を紹介します。

 中国は春秋時代、伯牙という琴の名手がおりました。その伯牙には、鐘子期という彼の琴を聴くことに優れた友人がおりました。

 伯牙が琴を弾いて、高い山々の佇まい表現すると、傍らで耳を傾けていた鐘子期は、

 「ああ、素敵だ。高く聳え立つその感じは、まさに泰山のようだ。」

と褒め称え、流れる水の面持ちを写し取ろうと試みれば、

 「なんとも素晴らしい曲だ。洋々たる感じは、まるで長江や黄河の流れのようだ。」

と、評してくれます。

 こんな具合に鐘子期は、伯牙が琴を爪弾く度に、その調べにどんな思いが託されているのか、そこに込められた曲趣を違うことなく見事に聴き分けて、過つ事はありませんでした。

 ある日、二人は連れだって泰山の山奥深くに分け入りました。その途中、にわかの暴雨にたたられ、岩陰に身を寄せました。雨は激しく降り続け、辺りには恐ろしげに流れる土砂の音が響き、二人は心細さに恐れ慄いていました。すると、伯牙は肌身離さず携えていた琴をやおら手に取ると、自らを鼓舞するかのように即興で弾き始めました。初めに「霖雨の曲」を、続いて「崩山の曲」を奏しました。一曲を弾き終わるごとに、例のごとく、鐘子期は、その曲趣の真意を見事に言い当てては賞讃しました。

 その遣り取りはいつものことでしたが、折りしも折、心細い思いをしていた伯牙は何時も以上に感激し、泣き出したいほどの感慨を覚えました。矢庭に琴を置くと、

 「ああ、素敵だ!素敵だ!君の琴を聴き分ける耳といったら。君の想いやる心の深さといったら、まるで私の真意そのままではないか。君の前では、私の琴の音を誤魔化すことなんてできはしない。」

 このように、琴を通じてまたとない交友を結んでいた二人でしたが、不幸にも鐘子期は病で亡くなってしまいます。その日以降、悄然と過ごしていた伯牙は、遂に、愛用の琴を打ち壊し、絃を断ち切ってしまいました。その後、琴の名手としてその技を磨いていたにも拘わらず、二度と琴を手にすることはありませんでした。伯牙にとってその行いは、鐘子期という得難き聴き手を失ってしまった結果、もはや自分が琴を弾くべき者など存在しなくなり、今後、幾ら弾いても虚しく響いてしまう、そんな耐え難い悲しみからであったといいます。

■古琴台
 中国は湖北省武漢市(旧漢陽市内)に、この二人の逸話を記念した「古琴台」(こきんだい)という記念碑があるそうです。築2400年にもなるこの記念碑は清代に再建されたもので、亀山(きざん)を背にした月湖(げっこ)の畔には広大な庭園が設置され、その高台には漢白玉石で作られた「琴台」が置かれています。琴台の中央石碑の上に伯牙半身像が刻まれ、そこを囲む楼閣の梁には彫刻も施されています。また、伯牙が奏した名曲を記念して「高山流水」という四つの大きな字が掲げられ、現在は労働者文化宮の閲覧室となっているそうです。

 ところで、この記念館を始めとして現代の中国では、伯牙絶絃のエピソードが次のように脚色され紹介されているようです。

 春秋時代、兪伯牙(ゆ・はくが)という名琴師がいました。彼が各地を巡り民謡を蒐集いていた時のこと、船で遠出した中秋の夜に、偶然、雨宿りをしていた樵の鐘子期と出会いました。手慰みに兪伯牙が琴を奏でると、鐘子期は、その演奏を絶賛し、曲の内容とそこに込められた心情を見事に言い当てました。その類稀なる聴き手としての才能に感動した伯牙は、鐘子期と兄弟の契りを交わし、一年後、この場所での再開を約束しました。

 翌年の中秋、兪伯牙は約束の場所で演奏し鍾子期を待ちましたが、彼はとうとう現れませんでした。悲しいことに、鍾子期は既に世を去っていたのです。後になって、鍾子期が亡くなる前に、自分の魂が伯牙と約束した場所で会えるようにと、その亡骸を岸辺に埋葬させたことを知りました。

 兪伯牙は、鍾子期の墓前に参ると、涙ながらに琴を弾きました。奏し終わると、天を仰ぎ見て大きく溜息を吐き、「鍾子期がいなくなった今、この先、誰が私の琴を理解してくれるだろうか」と嘆き悲しみ、琴の弦を切り、叩き壊してしまったということです。

 如何だったでしょうか。

 以上のように、得難き理解者を失うことを、伯牙が琴の弦を断ち切ってしまったこの故事に因んで、「伯牙絶絃」とか「伯牙断弦」、「断琴の交わり」と呼ぶようになりました。また、この故事には直接その言葉は出てきませんが、この逸話を聞いた後世の人が、「琴の曲趣を聴き分ける=音を知るほどに深い友」という意味合いから、「知音」と呼ぶようになったと思われます。

 この故事からも分かるとおり、「伯牙絶絃」や「伯牙断弦」、そして「断琴の交わり」や「知音」の本当の意味は、単に付き合いが長いだけの友人が亡くなったという意味ではなく、芸術や文化的な付き合いの中で、その表現を余すところなく汲み取ってくれる、濃密な親交を結んだ友人を喪うという意味なのです。従って、本来は付き合いの時間などではなく、関係の“質”が問われる言葉なのでしょう。

 この二人のような交情で結ばれた友人は、そうそう居る者ではありません。もし、そうした友人が存在するならば、人生に於いて、何ものにも変えがたい喜びとなるでしょう。単に知人が亡くなった程度で、知音を悼辞で述べる人がいますが、そう簡単に口にして遺憾の意を表するのは、如何なものかと思ってしまいます。

 しかし、伯牙ほどの弾き手が楽器を手放すという事実は、伯牙がその時代にとっても特筆すべき音楽家であったであろうことを考えると、何とも複雜な気持ちになってしまいます。経緯こそ違いますが、演奏会をドロップ・アウトしてしまった、所謂、聴衆の面前でのライブを否定し録音のみに徹した、亡き「グレン・グールド」が思い起こされます。

バッハ:「音楽の捧げもの」 BWV1079 を聴きながら・・・
 オットー・ビュヒナー、クルト・グントナー(ヴァイオリン)
 フリッツ・キスカルト(チェロ)
 ジークフリート・マイネッケ(ヴィオラ)
 ヘトヴィヒ・ビルグラム(チェンバロ)
 オーレル・ニコレ(フルート)
カール・リヒター指揮・チェンバロ


Re: Vol.216 故事成語「伯牙絶絃」&「知音」 SERAV - 2007/07/01(Sun) 23:50 No.806  

 このお話のおもしろい点は、
通常ならわたし達は、偉大な音楽家(芸術家)がこの世を去り
その才能が惜しまれてなりません、とこうなるのですが、

 この話はその逆で、
自分の音楽(芸術)を理解してくれる人(聴衆)を
音楽家の方がその死を悲しみ素晴らしい「聴き手」を惜しむところがおもしろい。

 質の高い「聴衆」のもとにはやはり優れた演奏家が育ち、
優れた演奏が質の高い「聴衆」を育てる。

 カラヤンを育てた「ベルリンの聴衆」など典型的な例。
もちろんリヒターと南ドイツの聴衆も同じです。

 わたしもいつかは素晴らしい聴き手になりたいものです。


旦那衆 KEN1 - 2007/07/02(Mon) 20:44 No.807  

SERAVさん、返信ありがとうございます。

優れた聴衆が音楽家を育て、
優れた音楽家の演奏により質の高い聴衆が育つという考えは、
寄席などで、厳しく怖い客が芸人を育て、
優れた芸人により、また客も育つという、
江戸時代から続く日本の風習にも通じるものですね。

ところで、SERAVさん以上の優れた聴き手を私は知りません。
と同時に、優れたナビゲーターとしてのSERAVさんの導きにより、
至福のクラシック三昧の日々を送れることを感謝しております。



sympathy states - 2007/07/03(Tue) 12:51 No.808  

素晴らしい物語ですね!

伯牙が、鐘子期という高邁なるディレッタントに
出会ってしまったことが
果たして幸いなることであったかといえば、
そこは、伯牙にしか分からないことですね。
大きな幸いを失うことは、
それを埋めるための犠牲も大きいですね。

高山流水のたとえが妙なる音楽のことであることを
梁塵秘抄(原典ではなく、
ちくま学芸文庫の高橋信綱氏の解説本です)などを読むうちに、
最近知りました。

うつばりの塵、理解者の心。
うごきうごかされて、お互いに響きあうこと。

ステイツのお客様方は素晴らしい方ばかりですが、
私には果たして鳴らす弦があるのか?
これからも弦を探していきます。

ありがとうございました。


琴線 KEN1 - 2007/07/03(Tue) 21:00 No.809  

statesさん、返信ありがとうございます。

statesさんもお気付きのように、
今回のコラムは、「高山流水」の故事成語の紹介も兼ねています。
仰有るとおり、聴き手にその情景を感じさせるほどに、
素晴らしい演奏を指す言葉です。

ところで、statesさんの 弦 は、
常に精進を怠らない、その姿勢そのものでしょう。

statesさんの琴線は、様々な美しいものに共鳴し、
そこから生み出されるカクテルは、
秘められた精妙なニュアンスさえ感じさせてくれます。

弛まぬ努力から創り出される感性豊かなカクテル・メイクに、
何時も楽しませてもらっています。



Vol.215 四時読書楽 投稿者:KEN1 投稿日:2007/06/07(Thu) 20:56 No.800  
 もうすぐ鬱陶しい梅雨の季節がやってきます。恵みの雨を鬱陶しいなどとは不謹慎ですが、雨の日は出掛けるのも億劫になりがちで、部屋に籠もって本を読む機会も増えてくることでしょう。以前は、土砂降りになると車も少なくリスキーな路面のが好きな私は、頻繁にドライブに出掛けていましたが、今では、好きなクラシックを聴きながら読書に耽ることがほとんどです。

 「晴耕雨読」(せいこううどく)という、晴れた日は外に出て畑作業に精を出し、雨の日は家に居て書を読み田園に閑居する、そんな文人の悠々自適とした生活を賛した故事がありますが、元来、怠け者の私は、晴れた日も構わずに読書三昧な気がします。

 そこで今回は、そんな読書の楽しみを詠った漢詩を紹介したいと思います。

 今回紹介するのは、「四時読書楽」(しじどくしょらく)と題された、「朱熹」(しゅき)の作とされる漢詩です。朱熹とは、言わずと知れた宋学の大成者として、「朱子」と尊称されている南宋の学者です。因みに、この詩は朱熹の全集に載せられていないことから、「翁森」(おうしん;字は秀郷)の作との説もあります。

 詩題の「四時」(しじ)とは、この詩のように「春・夏・秋・冬」の四季を表す他に、「晦(かい)・朔(さく)・弦(げん)・望(ぼう)」の1ヶ月の時や、「朝・昼・暮・夜」の一日の時を表すこともあります。

 ところで、朱熹の言葉には、「読書三到」(どくしょさんとう)や「読書百遍意自(おの)ずから通ず」と、読書に対する心掛けを諭したものがあります。この言葉の出典は、何れも『朱子訓学斎規』(しゅしくんがくさいき)に載せられているものです。

 読書三到の三到とは、書物の内容を理解するために必要な事柄として、「心到」「眼到」「口到」の三つを説くものです。心到とは、“他の事を考えず、その書物にだけ心を傾ける”こと、眼到とは、“他の物を見ず、その書物だけを見る”こと、口到とは、“他の事を話さず、その書物だけを声を出して読むこと”をそれぞれ意味しています。

 また、読書百遍意自ずから通ずとは、『三国志魏志』の「王粛伝」(おうしゅくでん)にある、「読書百遍義自ずから見(あらわ)る」と同様の言葉で、どんなに難しい書物でも、何度も繰り返して読めば、自然とその意味は明らかになるという故事です。つまり、乱読を戒め、熟読の必要性を説いている、何とも耳の痛い訓えでもあります。

■四時読書樂(四時読書の楽しみ) [朱熹]
【春】
 山光照檻水繞廊 山光(さんこう)は檻(かん)を照らし、水(みず)は廊(ろう)を繞(めぐ)る
 舞ウ歸詠春花香 舞雨(ぶう)帰詠(きえい)すれば、春花(しゅんか)香(かんば)し ウ;雨冠+「号」の下の部
 好鳥枝頭亦朋友 枝頭(しとう)の好鳥(こうちょう)、亦(ま)た朋友(ほうゆう)
 落花水面皆文章 落花(らっか)水面、皆(みな)文章(ぶんしょう)
 蹉ダ莫遺韶光老 蹉它(さだ)韶光(しょうこう)をして老(お)いしむること莫(なか)れ ダ;足偏+它
 人生惟有読書好 人生惟(た)だ読書の好(よろ)しきに有り
 読書之樂樂何如 読書の楽しみ、楽しみは如何(いかん)
 緑満窗前草不除 緑(みどり)窓前(そうぜん)に満(み)ちて草(くさ)除(のぞ)かず

【夏】
 新竹壓檐桑四圍 新竹は簷(のき)を圧して、桑は四(よ)もに囲む
 小齋幽敞明朱曦 小斎(しょうさい)幽敞(ゆうしょう)、朱曦(しゅぎ)明らかなり
 晝長吟罷蝉鳴樹 昼長く吟(ぎん)罷(や)んで、蝉(せみ)樹に鳴き
 夜深燼落螢入幃 夜深く燼(じん)落ちて、蛍(ほたる)帷(とばり)に入る
 北窗高臥羲皇侶 北窓(きたまど)に高臥(こうが)す、羲皇(ぎこう)の侶(とも)
 只因素稔讀書趣 ただ読書の趣(おもむき)を素稔(そじん)するに因(よ)る
 讀書之樂樂無窮 読書の楽しみ、楽しみは窮(きわ)まりなし
 瑤琴一曲來桾浴@琴を援(と)りて一奏すれば、薫風(くんぷう)来たる

【秋】
 昨夜庭前葉有聲 昨夜、庭前(ていぜん)の葉に声あり
 籬豆花開蟋蟀鳴 籬豆(りとう)の花開き、蟋蟀(しっしゅつ)鳴く
 不覺商意滿林薄 不覚、商意(しょうい)は満林(まんりん)に薄し
 蕭然萬籟涵虚清 万籟(ばんらい)は蕭然(しょうぜん)たり、函渠(かんきょ)は清よし
 近牀ョ有短檠在 頼(さいわ)いに床(とこ)近くに短檠(たんけい)在りて有(たもつ)
 對此讀書功更倍 此(ここ)に対し読書の功(こう)更に倍(ま)す
 讀書之樂樂陶陶 読書の楽しみ、楽しみ陶陶(とうとう)たり
 起弄明月霜天高 起きて明月(めいげつ)を弄(ろう)すれば霜天(そうてん)高し

【冬】
 木落水盡千崖枯 木は落ち、水は尽き、千崖(せんがい)は枯る
 迥然吾亦見真吾 迥然(けいぜん)、吾(われ)も亦(また)真吾(しんご)見(あらわ)る
 坐韋對編燈動壁 坐して韋(めぐる)編(へん)に対(むか)えば、燈(ともしび)壁に動き
 商歌夜半霜壓廬 商歌(しょうか)夜半、霜(しも)庵(いおり)を圧(おさ)う
 地爐茶鼎烹活火 地炉(じろ)の茶鼎(さてい)活火(かっか)に烹(に)え
 四壁圖書中有我 四壁(しへき)図書(としょ)の中に我有る
 讀書之樂何處尋 読書の楽しみ何処(いずくに)か尋ねん
 數點梅花天地心 数点(すうてん)の梅花(ばいか)天地(てんち)の心

<語釈>
【春】
・山光
 山の色。山の景色。山が日の光を浴びて明るいこと。

・欄
 ここでは、欄干(らんかん)のこと。手摺。おばしま。

・廊
 水路。回廊。

・舞ウ
 雨冠に+「号」の下の部で表される「ウ」の文字は、そのもので雨乞いの祭り表す文字です。つまり、舞ウとは、その儀式舞や祭壇、または、見晴らしのよい高台の祭禮場を指す言葉です。

・帰詠
 道すがら詩を詠じながら帰ること。

・舞ウ歸詠
 『論語』「先進篇第十一」に「風乎舞ウ。詠而歸。」(舞ウに風し、詠(えい)じて帰らん。)との記述が見えます。

・枝頭
 枝先。枝の先端

・好鳥
 美しい鳥。

・朋友
 友達。友人。本来、同門の仲間を「朋」、互いに庇い合う同志が「友」とされます。

・落花
 花が散り落ちること。また、その花。特に、日本では桜を指しています。

・文章
 文様。表に現れた文(あや)模様。本来、「文」は青と赤の彩、「章」は赤と白の彩を指します。

・蹉だ
 ぐずぐずして時機を失うこと。不遇で志を得ぬ様。
 躓くこと。足をとられて倒れること。

・韶光
 のどかな春の日の光。春の明るい光や景色。「韶華」(しょうか)。

・何如
 いかに。どのように。

・窓前
 窓の前。窓の傍。

・緑満窗前草不除
 宋の周敦頤(しゅうとんいん)が、天地自然のままを好み、窓の前の草を刈らなかった「窓前草不除」(窓前の草を除かず;自然のままを楽しむ様)の故事を踏まえたもの。

【夏】
・簷
 檐・軒・檐・宇(のき)。
 屋根の端に垂れた竹製の檐(のき)を表す文字で、下部の字(音;エン)が、重い物を受ける意、それに竹を添えた漢字です。

・壓
 上から覆うこと。また、上から被せて押さえつけること。

・小斎
 物忌みや勉強のためにこもる小さな部屋。小さな書斎。

・幽敞
 ほの暗く開けている様子。人知れず開けて明るい様。

・朱曦
 朱い陽光。転じて、夏の明るい日差し。
 曦は、キラキラと光る美しい太陽の光。綺麗な太陽。

・罷
 疲れる。力が萎えた様。

・燼
 燃え滓として残った炭火。燃え残り。

・高臥
 世を避け、高尚な心を持って、世俗に煩わされず隠棲すること。
 枕を高くして寝る。安心出来る様。のんびりしている様。

・羲皇侶
 羲皇とは、 羲皇(伏羲;ふくぎ・ふっき:中国古伝説上の三皇の一)以前の時代、安楽に世を送っていた太古の人民と同じく肩を並べている仲間になったような心持ちを表現しています。よって、神代への憧憬を抱いていた文人の心持を表したものです。

・素稔
 充分に知り尽くす。「熟悉」(じゅくしつ)。

・薫風
 夏の季語。南風。温和な風。芳しい風。薫る風。南薫。青嵐(あおあらし)。
 青葉の香りを吹き送る初夏の風。穏やかな初夏の風。

【秋】
・庭前
 庭の縁側に近い場所。庭先。

・葉有聲
 風に吹かれて葉擦れの音がすること。

・籬豆
 まがき(柴や竹を編んで造った垣根。生垣)に絡んだ豆。
 藤豆・隠元豆・黒豆・豌豆(えんどう)豆など、蔓(つる)性の豆の俗称。かきまめ。

・蟋蟀
 こおろぎ。古名では、きりぎりす。

・不覚
 思わず。知らずに。

・商意
 秋の気配。商は、五行で秋に当てる。「商気」(しょうい)。

・蕭然
 もの寂しい様。
 イライラして落ち着かない様。

・萬籟
 「籟」は、響き意で、 この世にある全ての物が発する音や響きの意。また、風に鳴る音。「衆籟」(しゅうらい)。

・涵虚
 断面が長方形の暗渠(あんきょ;蓋いをした水路。灌漑・排水のために地下に設けた溝)。

・ョ
 幸いに…のおかげで。

・短檠
 灯火具の一で、丈の低い灯台

・功
 働きの結果。成し遂げた仕事。ききめ。実り。ここでは、読書の楽しみのこと。

・陶陶
 川などが広々としていてどこまでも続いて波うつ様。「滔々」(とうとう)。
 うちとける様。ゆったりする様。調和して長く続く様。遥か遠い様。

・弄
 弄月(ろうげつ)という熟語で、月を眺めてその美しさを楽しむ意となります。「玩月」(がんげつ)。

・霜天
 霜の降りる夜の、冷たい空。霜の降った冬の日の空。

【冬】
・千崖
 (千もの)多くの崖。
 「木落ち、水尽き、千崖枯る」とは、冬の情景の典型として漢詩には良く詠まれています。

・迥然
 遥かに遠い様。ぽつんと遠くに孤立する様。「迥迥」(けいけい)。

・真吾
 本当の自分の姿。飾らないありのままの自分。

・韋
 取り囲む。巡らす。まわりに巡らした囲い。ぐるりと取り囲む。「圍」(かこう・かこむ・かこみ)。
 但し、「韋編」(いへん)という単語になると、(竹簡をなめし革の紐で綴じたのでいう)書籍の綴じ紐の意となります。

・商歌
 悲しげな調子の歌。
 これは、『淮南子』に、晋のネイ戚が斉の桓公に会って任用を認めてもらおうとするものの、会うことができず、悲しみくれ牛を引いて商いをしていると桓公の外出に出会い、歌を歌って桓公に認められたという故事に由来しています。転じて、人に認められたくて、訴えるときの歌という意もあります。

・地爐
 地上、若しくは床に切った炉。囲炉裏。ちろ。

・茶鼎
 鼎とは、食物を煮るのに用いる金属製の容器。後には祭祀にも用いられています(ex:鼎の軽重を問う)。

・烹
 にる。湯気を立ててにること。

<現代語意訳>
【春】
 山の照り返しは欄干を照らし、水の流れは回廊を巡っている。
 祭壇のある郊外から詩を吟じながら帰る道すがら、春の花々の香りが芳しく薫ってくる。
 梢で囀っている美しい鳥は友であるし、
 水面に散った花弁は、皆、美しい文様を作っている。
 ぐずぐずしてこの美しい春の光景を愛でる時機を逸し、老いさらばえてはいけない。
 人生はただ読書の素晴らしさがあるだけだ。
 読書の楽しみ、それはどのようなものか。
 窓の前に繁った緑を刈り取らないようなものであり、自然のままを楽しむということだ。

【夏】
 新しい竹の茎は檐を覆い、桑の葉は四方を囲んでいる。
 この小さな書斎は人気もなく静けさに満ち、陽光が明るく射し込んでいる。
 昼下がり、詩を吟ずるのを止めれば、樹木の蝉は鳴き始める。
 夜更けには、燈火は燃え尽き、蛍が帳の中に入ってくる。
 涼しげな北の窓に横たわっていると、安楽に暮らしていた太古の人になった思いがする。
 そうしていると読書の趣も深く味わうことができる。
 読書の楽しみ、その楽しみはは窮まることはない。
 琴を引き寄せ一曲奏すれば、薫風が書斎に吹き付ける。

【秋】
 昨夜、庭先では秋風に吹かれた葉がざわめいていた。
 垣根の豆の花は咲き、蟋蟀(こうろぎ)が鳴いている。
 ふと気づけば、秋の気配は林一面にうっすらと漂っている。
 風の音は寂しげに響き、水路の流れも清らかである。
 寝台の近くに幸いにも燭台の火が残っているおかげで、
 ここでの読書の楽しみは更に増してくる。
 読書の楽しみは真に広大であり、
 起き上がって明月を愛でれば、霜の降りるような空は高い。

【冬】
 木は(落葉して)裸になり、(用水路の水は落とされて)水は途切れ、多くの山肌(の緑)は冬枯れしている。
 遥か遠くに心を馳せれば、真の自分を見つけることができる。
 座ったまま周りを取り囲んでいる書物に向かえば、灯影は壁に揺れ映り、
 悲しげな歌は夜半に響いて、霜が家を押しつぶしそうな気配である。
 地面に掘った囲炉裏には、茶を沸している火も盛んで、
 壁を埋め尽くす書物の中、(そんな部屋に)私は坐している。
 読書の楽しみはどこに尋ねればよいであろうか。
 僅かばかりの梅の花、ここにも天地の真髄が秘められているのだ。

<感想>
 花鳥風月を愛でながら読書に勤しむ朱熹の生活が詠われています。儒学を研究し、その大家となっている朱熹ですが、古来より、文人が憧れた老荘的な、所謂、陶淵明に代表される「田園詩人」「自然詩人」ように、自然の中に人間の真実の生き方を追い求める隠者的な生活や心境が、この詩の其処彼処に詠われています。因みに、朱熹の号の一つに「晦庵」(かいあん;人知れず隠れた庵の意)というものがありますが、そんな人里離れた自然の中にあって、些細な日常の風景や四季の移り変わりに目を留め、沁み沁みと思いを巡らしている朱熹の、学者らしい隠者のような生き様が垣間見られるような詩です。

 この詩では、本を読むということと、自然に学ぶことは同じであると言っているような気がします。儒学の求道者たる朱熹であっても、文人の嗜である風流韻事(ふうりゅういんじ)は忘れてはいません。読書の虫も良いのですが、この詩に詠じられているように、常に自然に心動かされる感性を忘れずにいたいものです。

 夜気に紛れてクチナシが薫ってきました。花を愛でながら一盃やりたい気分です。

バッハ:「ブランデンブルク協奏曲」を聴きながら・・・
マールボロ音楽祭管弦楽団
パブロ・カザルス指揮


Re: Vol.215 四時読書楽 SERAV - 2007/06/09(Sat) 00:57 No.801  

 四時読書楽を現代語訳で一度意味を理解した後、

 漢語調で読ませて頂くと、
そのリズムの良さに心奪われます。

 まるで名指揮者のタクトで演奏している奏者の気分です。わたしは読書にはその本に似合ったテンポがあるように思う時があります。

 美しい文章には美しいリズムが隠れており
文学者の「手から生まれる文章」には‘自然界の呼吸’が息づいています。

 その点からすると
カザルス・マルボロよりリヒター・ミュヘンバッハのほうが
読書には適していると思いますが、

 ハイデガーよりニーチェが今の気分といわれたら
湖畔に映る月の三日月を見ながら、本当は月は丸いんだと冗談を言いながら三日月を眺めましょう。


季節のうつろい states - 2007/06/09(Sat) 10:30 No.802  

とても爽やかな、爽やかな気分になりました。

昨今、いろいろかまびすしく言われる中国ですが、
今回ご紹介頂いた漢詩も、やさしく鷹揚ななかに
自然界とのダイアローグが感じられて、
素晴らしいですね。

SERA様の仰るとおりで、何やら精妙な諧調を感じます。
(残念ながら、漢語調で読みしらべる素養は無いのですが・・・)

わたくしもKEN1様ほどではありませんが、
私流の「やくざな派生読み」のもと
少なからず活字にこころとらわれておりまして、
常に、何かしらの書物が鞄に忍んでいなければ
少しもじもじしてしまうタイプです。
出世間的な男が、「草枕」中で淵明の飲酒・其の五
(例の、菊を手折り、南山を眺める風情)を引いていて、
興味をそそられ、陶淵明全集を拾い読んだ事を思い出しました。

まだまだ、「裳にありては帯となり」たい、沸々男然たる私。
「帰りなんいざ」とつぶやいても、
その自然はまだまだ私を受け入れてくれそうもなく・・。

ありがとうございました!


読と詠 KEN1 - 2007/06/09(Sat) 11:05 No.803  

SERAVさん、返信ありがとうございます。

本当に、漢詩は平仄を理解し、漢語で味わってこそ、その良さが解るのでしょうね。

しかし、日本語と漢字が出会って生まれた、訓読の文化も捨てたものではありません。
音訓を兼ね用いるという方法により、中国の文献をそのまま国語の文脈になおして、
読み下すことができるのですから。漢音=リヒター、訓読=カザルスといったところでしょうか。

仰有るとおり、リヒター&ミュンヘン・バッハの方が、読書を邪魔しない、自然の息吹を感じさせるリズムですよね。
しかし、カザルス盤を愛聴しすぎた私にとっては、リヒター盤は、几帳面で忙しなく感じてまうのです。

カザルスの独特のフレージングやアクセント、そしてリズムの全てが、
私の中に確固たる回路として存在しているので、まったく読書の邪魔にはなりません。

また、乱読を戒めている朱熹の読書観からすれば、流麗なリズムに乗って一気に読了するよりも、
引っ掛りながら、じっくり腰を据えての熟読を勧めているので、カザルスになったわけです。

更に、四時(四季)というわけで、本来、ブランデンブルグは第6番まであるため合致しませんが、
カザルスのCDは、都合よく管弦楽組曲第2番、ブランデンブルク協奏曲第3番、第4番、第5番と、
ちょうど4曲納められている…なんて、屁理屈も成り立っています。



もえ出るもかるゝもおなじ野邊の草いづれか秋にあはではつべき KEN1 - 2007/06/09(Sat) 11:13 No.804  

statesさん、返信ありがとうございます。

statesさんの仰有る「やくざな派生読み」には、
何時も感心しています。

今、どのような本を読んでいるので、
そこから派生した興味を得るために、
どんなアンテナを張り巡らしているかが、
何時も会話の中に垣間見られて、とても楽しくなります。

今月のカクテルが「祇王」なところを見ると、
今も『平家物語』に惑溺されているようですね。



Vol.214 質量の謎 〜ヒッグス粒子と量子色力学〜 投稿者:KEN1 投稿日:2007/05/27(Sun) 01:42 No.795  
 久々に、サイエンスの話題をお送りします。

 この世には、普通に考えても解らない事項が多々あります。特に、宇宙の根本的な原理を追求している学問、所謂、「量子力学」や「素粒子物理学」の描く、極微細な素粒子の世界で起こっている(であろう)世界観は、日常生活には馴染みのない目に見えない現象のため、身近な経験則から素直に連想することのできない、想像し難い理解を超えた理論となっています。「トンネル効果」など、その典型的な現象といえるでしょう。

 物理学の究極の目的は、宇宙に存在する物質の構造と、それらの間に働く力を解明し、宇宙を統べる原理を追及することでしょうが、この学問が取り組む問題の中に、どうして「質量」が存在するのか?という、この世の成り立ちを考える上で、欠かす事のできない根本的な疑問があります。

 質量とは、一般的には物体が有する物質の分量を示すもので、力が物体を動かそうとする際に、物体の慣性によって生ずる抵抗の度合を示す量 = 動きにくさ= 「慣性質量」として定義されます。簡単に言うと、多くの原子で構成されているものほど質量が大きいことになります。しかし、大きさのない素粒子レヴェルに於いても、例えばニュートリノとトップ・クォーク間にも質量差は存在しているのです。

 因みに、本来は質量と区別されるものですが、日常的には同義に用いられているものに「重量」があります。重量とは、万有引力の法則により、より強い引力で引かれるものはより重く、より弱い引力で引かれるものはより軽くなることを表す単位です。

 本来、質量なんてものは、それぞれの物質固有の当然の性質であると考えがちです。しかし、科学的に掘り下げて考えると、本当は謎だらけなのです。では、素粒子の固有の質量差は、どうやって生じているのでしょうか。そもそも、素粒子の質量とは、どのようにして生じているのでしょうか。

■素粒子物理学の概略
 それでは、素粒子の質量発生メカニズムを紐解く前に、掻い摘んで素粒子の標準モデルを説明します。

 ご存知のとおり、あらゆる物質は、素粒子で構成されていると考えられています。その内、物質を構成している素粒子は「フェルミ粒子」と呼ばれ、「クォーク」と、電子やミューオンなどの「レプトン」に分類され、それぞれ、重さの異なる粒子が6種類存在しています。

 これらの物質間に働く基本的な力は4種類あると考えられています。その内2つは、日常生活でも馴染み深い「重力」と「電磁気力」であり、残りの2つが、素粒子や原子核の世界で働く「強い相互作用」と「弱い相互作用」と呼ばれる力です。強い相互作用とは、核子(陽子と中性子)を結びつけて原子核を形成したり、クォークを陽子や中性子の中に閉じ込めている力です。対して弱い相互作用とは、中性子が陽子と電子とニュートリノへ崩壊する(β崩壊)を引き起こしたりする力のことです。

 この4つの力は、「ボーズ粒子」(ゲージ粒子)と呼ばれる素粒子によって媒介されます。電磁気力は「光子」、強い相互作用は8種類の「グルーオン」、弱い相互作用は3種類の「ウィークボゾン」(W粒子(W+とW-)とZ粒子)によって媒介されます。そして重力は「重力子」によって運ばれていると予想されています。

 と、現在の物理学で理解されている素粒子の世界を単純化して説明しましたが、これだけ解明されているなら、質量など些細な問題だと思われるかもしれません。しかし、素粒子レヴェルの質量とは、物質の構造や力の振る舞いをも決定する重要な意味を持つものなのです。

 素粒子の質量とは、それぞれの素粒子の固有な重さのことで、日常生活レヴェルのマクロな世界では、重力の受け方で測定することができますが、ミクロな素粒子の世界では、その粒子が存在するのに必要最小限 の、つまり静止した時に持つエネルギー量と等価になります。よって、W粒子は陽子の80倍以上の質量を持っているため、高エネルギーの加速器によってしか生成できません。

 素粒子の質量差により、光子など重さのない素粒子は静止することができず、絶えず光速度で進行し、同じ大きさの力を受けたとき、質量の小さな素粒子ほどより大きな加速度を得ることになります。また、量子力学では、素粒子の質量がそれによって媒介される力の到達距離を決定しています。光子は質量がゼロのため移動距離が大きく、電磁気力は日常的なマクロの世界でも感じることができますが、W粒子の交換によって生じる弱い相互作用が働く距離は、10の-15乗cm程度のごく短い距離だけです。更に、電子は陽子の約1/1800の質量しかないことにより、原子の大きさを決めています。

■質量の発生 〜ヒッグス粒子とヒッグス場&量子色力学〜
 現代の宇宙を説明する代表的な理論である「標準理論」(標準模型)に於いては、自然界の力を記述するには、「ゲージ場の理論」(場の量子論)が有効とされています。相互作用の振舞は、ゲージ場の理論に基づいています。強い相互作用は「量子色力学」(QCD)、電磁気力と弱い相互作用は「ワインバーグ・サラム理論」で記述され、この2つの理論を合わせて「標準理論」と呼んでいます。この標準理論は、様々な粒子の振舞を厳密に計算できる素晴らしい理論で、量子力学と相対性理論の延長線上にある物理学の輝かしい成果と一つと言えるものです。

 しかし、このゲージ場の理論が成り立つためには、粒子の質量は本来ゼロでなくてはなりません。詳しい説明は省きますが、これはゲージ対称性という性質から、質量が厳密にゼロであるという規則があるためです。しかし、力を媒介する粒子として発見されたWボソンとZボソンは、陽子の約100倍もの質量を持つことが大きな謎となって立ちはだかりました。その後の実験でも、クォークやレプトン、ニュートリノなどには質量があり、ゲージ場の理論と矛盾してしまうことになります。

 この矛盾を説明し、本来質量のない素粒子に質量が生じている理論として提示されたものが「ヒッグス粒子」と「ヒッグス場」という考え方です。このヒッグス粒子は、英国の物理学者「ピーター・W・ヒッグス」が1964年に提唱したものです。ヒッグスは、「粒子は、真空を満たしている“未知の粒子”の抵抗を受けて、動き難くなっているために質量があるように見える」と説明しています。このブレーキ役の粒子がヒッグス粒子であり、素粒子の標準理論の中で、唯一発見されていない粒子なのです。ヒッグス粒子の存在を確認し、宇宙全体がヒッグス場、つまりヒッグス粒子で満たされていることを証明することこそ、標準理論の枠組みを確かなものとするために必須となっています。

 では、本来質量のない素粒子に質量が発生している仕組みはどうなっているのでしょうか。現在の物理学が予測している理論では、現在の宇宙は、ヒッグズ粒子で満たされており、宇宙を構成している素粒子は、ヒッグズ場の中に浸っていると仮定されています。

 標準理論の解釈では、ビッグバン直後は、全ての素粒子は質量がないように振る舞っており、何の抵抗を受けることもなく真空中を自由に飛び回っていたと考えられています。しかし、ビッグバンから10の-13乗秒過ぎた頃に、真空の相転移が起こり「対称性」が破れ、重力・電磁気力・弱い相互作用・強い相互作用の4つの力が形成され、ヒッグス粒子の場が真空を満すようになったと推測されています。その後、ビックバンよりマイクロ秒の間、宇宙の温度が急激に下がり、クォークは陽子、中性子、パイ中間子などのハドロン中に閉じ込められてしまいました。10秒過ぎ〜3分の間には、重陽子、ヘルウム、トリチウムなどの軽い原子核が作られ、クォークと共にに宇宙創成時にあったレプトンの陽電子は電子との衝突で消滅、残された電子は水素などの原子中に入り込み、また、反応性の低いニュートリノは、宇宙開闢から約137億年経った現在まで、光子(宇宙背景放射・ビッグバンの残光)と共に宇宙を満たしています。

 自発的な対称性の破れによる相転移という概念は、物性物理学における超伝導状態を説明するために考案されたもので、分かり難いでしょうが、高エネルギーの統一されたビックバン直後の真空は、“蒸発した”ヒッグス粒子で満たされ、時間と共に低エネルギー状態となって、真空にヒッグス粒子が凝縮し始めた。つまり、この過程を水蒸気が冷えて水になる現象に例えればよいかもしれません。ビックバン後に宇宙が冷えていく過程で、真空にヒッグス粒子が生じて、ヒッグス粒子で満たされた海=ヒッグス場が形成されたと考えられるのです。このヒッグス場に、クォークやレプトンは反応して、ヒッグス場を移動する際に凝縮したヒッグス粒子の抵抗を受けて進行が妨げられ、ブレーキを掛けられた状態となり、これが見かけ上の質量として振る舞っていると推定されています。しかし、光子はヒッグス場とは反応しないため、速度は低下せず光速のまま移動でき、質量もゼロであると考えられています。

 この理論を裏付けるように、ワインバーグやサラムらも、「ゲージ対称性が自発的に破れて、その結果、ヒッグス場が存在しているはずだ」との結論づけました。WボソンとZボソンは、こうしてヒッグス場の抵抗を受けて動きが鈍り質量があるように振舞うと見なされています。このヒッグス場を質量の起源とする「標準モデル」は、1970年代に多くの実験によって実証されています。

 しかし、質量の起源はヒッグス粒子だけで説明がつくほど単純ではありません。ハドロン(原子核を構成している陽子や中性子など)は3個のクォークで出来ていますが、ヒッグス粒子によって生まれるクォークの質量は、本来の質量の2%分ほどしかない計算となっています。では、残りの質量はどうなっているのでしょうか。

 その起源も真空にあります。真空にはヒッグス粒子以外にも、「真空のエネルギー」(クォークと反クォークのペア)が詰まった状態だと考えられています。クォークがこのクォーク・反クォークのペアで埋め尽くされた真空中を進もうとすると、常にそのペアに衝突して抵抗を受けて、更に質量が与えられているように振る舞っていると考えられています。この際には、真空中を進むクォーク自身が自分に重さを与えるという、不思議な仕組みになっています。量子色力学によると、バリオンやメソンの中では、グルーオンは、色(3つの相)の交換を行い互いに結び付いていますが、その強い力によってクォークと反クォークも互いに強く引き合って、遂には真空中に埋まり込み、自分自身に質量を与えているというわけです。この仕組みは、「自発的カイラル対称性の破れ」と呼ばれる理論によって説明されてるものですが、この複雜な理論は、最近、高エネルギー加速器研究機構(KEK)と京都大学チームに因って、同研究所のスーパーコンピューターのシュミレーションを用いて実証されました。

 こうしてクォークで構成されている物質の質量の残り98%が生まれ、ヒッグス粒子より与えられる小さな質量よりも遥かに重くなっていると考えられています。

■加速器の挑戦 〜ヒッグス粒子の発見へ向けて〜
 素粒子の標準理論の中で唯一未発見の素粒子であるヒッグス粒子を発見しようと、世界中の科学者が、加速器による実験に鎬を削っています。

 電磁波に対応して光子が存在するように、ヒッグズ場が存在するとすればヒッグス粒子も存在している筈です。その性質は、標準理論を使えば予測できます。質量とエネルギーは等価であるというアインシュタインの特殊相対性理論から、素粒子物理学では粒子の質量をエネルギーの単位=電子ボルト(eV)で表され、100万電子ボルトはMeV、10億電子ボルトはGeV、そして1兆電子ボルトをTeVと略記されます。ヒッグス粒子の質量そのものは標準理論で計算できませんが、これまでの加速器(LEP加速器;CERN等)で見つかっていないことから、ヒッグス粒子は110GeVよりは重いと推測され、更に、更に、間接的な実験結果でも、1TeVよりは軽いと予言されています。現在では、200GeVより低い事がかなりの程度の確率で示唆されています。

 この予測されるエネルギー領域には、建設・計画中の新しい加速器で到達できるので、この先10年以内には発見できると予言されています。その中でも期待されている加速器は、

 ◇陽子・反陽子コライダー「テバトロン」(アメリカ;フェルミ国立加速器研究所[FNAL])
 ◇ハドロン衝突型大加速器「LHC」(スイス;欧州原子核研究機構[CERN]) 建設中
 ◇電子・陽電子リニアコライダー「JLC」(日本;高エネルギー加速器研究機構[KEK])
 ◇電子・陽電子リニアコライダー「ILC」(日本;KEK) 計画中
 ◇電子・陽電子リニアコライダー「NLC」(アメリカ;スタンフォード線形加速器センター[SLAC])
 ◇電子・陽電子リニアコライダー「TESLA」(ドイツ;ドイツ電子シンクロトロン研究所[DESY]) 計画中

  ※リニアコライダー;線形相互衝突型加速器

この何れかの加速器でヒッグス粒子は見つかると期待されています。ヒッグス粒子の発見とその性質の詳しい研究は、標準理論の確認に留まらず、より深く宇宙創造の仕組みを解き明かし、素粒子物理学を更なる段階へと導いてくれることでしょう。

 如何だったでしょうか?

 今回紹介した素粒子物理学(のほんの一部)は、我々が存在する宇宙の根本に拘わる、最先端の理論に興味を抱いて戴けたらとの思いで紹介しました。しかし、本来、憶えるべき基本概念が複雜多岐に渡っている取っ付き難い学問なので、それぞれの理論を流れに沿って説明すべきなのですが、なるべくその概略をイメージできるようにと簡単に端折っています。そのため、コラム中に分かり難い語彙が多く見られますが、ご容赦下さい。

ホルスト:組曲「惑星」作品32 を聴きながら・・・
シカゴ交響楽団
ジェイムズ・レヴァイン指揮


目に見えない振る舞い states - 2007/05/29(Tue) 10:30 No.796  

無学浅学な私にはよく分からない
とても難しいお話ではありますが、なにかしら
大きなロマンの香りを感じます。

「宇宙の不思議」とはよく言いますが、
そのあまりの広大無辺は私の想像の及ばぬところです。
(そもそも「光年」などという単位なんて、
    私の中では子供の頃から「物凄い」話です・・)
そんな宇宙空間に地球がぷかりと浮いており、
ゆらゆらと自転などしているさまを想像したりすると、
いまだに、不思議な感覚にとらわれます。

根元的なお話をして頂きました!
数回拝読させて頂き、
しかし未だ、あまり理解が出来てはおりませんが、
とても私たちに関わりの深い面白い事なんですね。

ありがとうございました。


宇宙の神秘 KEN1 - 2007/05/29(Tue) 20:27 No.797  

statesさん、返信ありがとうございます。

貴重な時間を割いていただいて、
数回も読んで頂きありがとうございます。

素粒子物理学は、非常に難解ですが、
今、最も目が離せない科学分野の一つです。
そして、量子力学の理論を観測して証明していく
加速器の実験は、とてもエキサイティングな研究なのです。

何故?どうして?
という疑問を積み重ね科学は発展していきました。
もし、興味が出てきたならば、以下のサイトを覗いてみてください。

■キッズサイエンティスト
 http://www.kek.jp/kids/index.html

キッズという題名が付いていますが、
下手な教科書より詳しく分かり易い内容です。



Re: Vol.214 質量の謎 〜ヒッグス粒子と量子色力学〜 SERAV - 2007/05/29(Tue) 23:25 No.798  

 加速器の実験で発見されるであろう「ビッグス粒子」、
質量の根源を語るには十分ではなく

 「ダークマター」という暗黒が広がっている宇宙空間は
いかにしてビックスの海から発展したのか?

 先端物理学の常識はこの宇宙を少しずつ解明しつつありますが、
その常識は我々が生活する「環境」においての非常識であり

 その大胆な創造を裏付ける観測は、さらに大胆な創造を生むようです。
最近では「ひも理論」なるもので
「統一理論を完成させることが出来る」と観測と研究が進められていますが。

 具体的に「五次元空間」を証明したアメリカの物理学者が
普通の生活をアメリカで送っているのを知ってホッとしたりしています。

 神つまり「宗教の領域」に似た「畏敬の念に駆られる」瞬間が、宇宙にはあるからです。


M理論 KEN1 - 2007/05/30(Wed) 20:14 No.799  

SERAVさん、返信ありがとうございます。

流石、博学のSERAVさんですね。
「ダークマター」から「超ひも状(スーパーストリングス;超弦)理論」、
そして「超大統一理論」という、宇宙物理学のトピックを紹介していただきました。

超ひも状理論では、素粒子は超弦の振動から生じていると予言しているので、
このスーパーストリングスこそ「アトム」、
つまり、古代ギリシア人が予想した究極の物質なのかもしれません。

ところで、超ひも状理論は、
従来の5つもある理論(I型・IIA・IIB・ヘテロSO32・ヘテロE8*E8)を包含する、
「M理論」へと統合されつつあります。
因みに、M理論のMは、提唱者の「エドワード・ウィッテン博士」によると、
魔法(Magic)、ミステリー(Mystery)、膜(Membrane)の何れでも良いそうです。

M理論では、超ひも状理論を一歩進めて、
ひもの端が一つの“膜”の上に結合している「11次元超重力理論」を提唱しています。
ひも状とか膜とかなんだかチンプンカンプンですが、11次元の根拠は、
元々、11次元のときに理論が数学的に最もエレガントである、
つまり数学的に整合性が取れているとして考案されたものです。

我々が存在する宇宙は、4次元時空間(3次元の空間 + 1次元の時間)なので、
残りの7次元は、大雑把に言えば、押し潰された形で4次元時空間に隠されているそうです。
そして、11次元は3次元の世界のあらゆる点から、
1ピコミリ(1/1兆mm)離れたすぐそばに存在しています。

重力も含めた4つの力を統一した理論として、M理論は現在最も有力な理論とされ、
この微細に隱された次元に、重力の一部がすり抜けているため弱いのだと予測しています。

ところで、5次元空間の件は「リサ・ランドール博士」のことですよね。

現在、「CERN」(Conseil Europeen pour la Recherche Nucleaire;欧州原子核研究機構)が
スイスのジュネーブ郊外に、3,500億円もの費用を掛けて、
「LHC」(Large Hadron Collider;ラージ・ハドロン・コライダー)という加速器を建設中ですが、
今年、ランドール博士らが提唱している5次元空間を証明する実験がここで行われる予定です。

この実験は、加速型衝突器で陽子と陽子を超高エネルギーで衝突させ、
衝突で発生する素粒子の軌跡を追い、それが次元の壁を通り抜けているように観測されれば、
5次元の存在が実証されるというものです。

これらの理論が単なる数学的な遊びに終わるのか、それとも実証されるのか。
今後の加速器の実験・理論物理学からは目が離せません。




Vol.213 薫風の砌 投稿者:KEN1 投稿日:2007/05/09(Wed) 22:14 No.790  
 最近、忙しなく過ごしていたら、いつの間にか春は過ぎ去り、風薫る爽やかな季節となっていました。漫ろ歩く道すがらには、鮮やかな新緑が目に染みるとともに、躑躅(ツツジ)や薔薇など様々な花の香(か)が、風に乗って漂ってきます。

 夏は湿度が高く酷暑で、冬もその湿気のためか、気温より一層寒く感じてしまう熊本の地では、暑くもなく寒くもない梅雨前の今の時期が、一番過ごし易い季節なのかもしれません。

 今回は、そんな初夏の情景を詠んだ漢詩を紹介しましょう。

■偶題(ぐうだい) [于謙](うけん)
 薫風何處來 薫風(くんぷう)、何処(いずく)より来たる
 吹我庭前樹 我が庭前(ていぜん)の樹を吹く
 啼鳥愛繁陰 啼鳥(ていちょう)、繁陰(はんいん)を愛し
 飛來不飛去 飛び来たりて飛び去らず

<語釈>
・偶題
 たまたま題すること。また、詩文を予期せずに創作すること。因みに「題」とは、詩を書き付けるという意。

・薫風
 夏の季語。南風。温和な風。芳しい風。薫る風。南薫。青嵐(あおあらし)。
 青葉の香りを吹き送る初夏の風。穏やかな初夏の風。

・庭前
 庭の縁側に近い場所。庭先。

・啼鳥
 鳴く鳥。鳥の鳴き声。

・繁陰
 良く繁った木の陰。

<現代語意訳>
 青葉の薫る初夏の風は何処から来るのだろうか。
 (そんな芳しい風が)我が家の庭先の樹間を吹き抜けてゆく。
 啼く鳥は木々の繁った凉しげな木陰を愛して、
 飛んできたまま飛び去ろうとはしない。

<感想>
 薫風が吹き抜けている、如何にも気持ちの良い庭先に、初夏を告げる鳥が飛来している。その鳥は不如帰(ホトトギス)なのでしょうか。余りの居心地の良さに飛び去ろうとはしない、そんな木陰に憩う鳴き鳥を眺めている自分の心にも、爽やかな薫風が吹き抜けているかのようです。

 誰しもこの詩を詠じるだけで、緑多き庭に心地良い初夏の風が吹いている、美しい情景を思い浮かべることが出来るでしょう。まるで、忘れかけていた心の中にある憧憬を、一枚の絵として提示されているかのような、何とも癒やされる詩です。

 しかし、忙しさに感けて唯漫然と過ごしている、心貧しき我々にとっては、最も遠のいてしまった詩境なのかもしれません。季節感の薄れた現代人でも、何げない日常の風景を暫し眺めていれば、きっと、そこに季節の移り変わりを感じ取ることが出来るはずです。

■于謙
 作者の「于謙」(うけん)[1328年(洪武三十二年)〜1457年(天順元年)]とは、北方民族の侵攻から、明朝の滅亡を防いだ官僚で、清廉潔白な人柄で知られた人物です。「岳飛」(がくひ)、「張蒼水」(ちょうそうすい)と並んで、西湖湖畔に葬られた傑人として、“西湖三傑”とも称される、悲劇的な民族的英雄の一人でもあります。

 于謙は、銭塘(現在の浙江省杭州)の人で、字は「廷益」(えんえき)といいます。1421年(永楽十九年)に進士に及第し、明朝五代皇帝「宣宗(宣徳帝)」(せんそう(せんとくてい))の時代には、御史(官吏の監察官)として任官し、1430年からは「兵部右侍郎」(兵部の次官)として勤めています。1446年には、専横を振るっていた宦官「王振」に反抗したため投獄されてしまいますが、その人柄を偲ぶ周囲の嘆願により釈放され復任しています。その後、1448年(正統十三年)に、「兵部左侍郎」へと昇進しています。

 1449年(正統十四年)、明が西モンゴルの部族国「オイラート」(瓦剌)による侵攻を受け、「英宗」(えいそう;六代皇帝「正統帝」・復辟後に「天順帝」)が、土木堡でオイラート王「エセン・ハーン」に捕縛された、所謂、「土木の変」(どぼくのへん)による混乱に際して、于謙は、南へと遷都するべきか動揺している宮廷内を、南遷の事を言する者は斬るべし、南に逃れた宋がどうなったか忘れたのか、と鎮め、皇帝代行であった英宗の異父弟「朱祁ト」(しゅきぎょく)を擁立し、「景泰帝」(けいたいてい;景帝)として即位させ、オイラート軍が南下し北京城を攻めるも、これを見事に死守しています。

 翌年、和睦が成立し英宗が送還されると、兵部尚書となっていた于謙は、景帝の絶大なる信任を背景として、「京営制度」の改革を断行しました。因みに、京営制度とは、明朝の軍制で、1424年に成立した三大営(五軍営・三千営・神機営)を発祥とし、各衛から選抜され兵で編成されていました。しかし、土木の変により三大営が壊滅した後は、于謙が兵十五万で十団営とする団営制を創設しました。その後、復辟(ふくへき;退位した君主が再び位につくこと)した英宗が三大営制を復活させています。

 1457年(天順元年)に、「奪門の変」によって英宗の復辟が成ると、誣告(ぶこく;無実の人を陥れるための虚偽の告訴)により、弟帝を擁立した行ないが謀叛と見なされて、棄市(きし;中国の刑罰の一で、公衆の面前で斬首され、その骸を市中に晒すこと)の刑に処せられてしまいます。

 しかし、「成化帝」(せいかてい;在位1464年〜1487年)の代に、彼の名誉は回復されて、後の1489年(弘治二年)の弘治年間に「粛愍」(しゅくびん)、更に、万暦年間には「忠粛」(ちゅうしゅく)という諡号を追贈されています。

■眸を借りる話
 その功績にも拘わらず、悲劇的な最期を遂げた于謙には、次の様な伝説が遺されています。

 オイラートとの和議により、帰還した英宗が帝位に復権すると、于謙は、有ろう事か謀叛の罪に問われていまします。彼の家財は没収され、于謙は死罪と決まり、家族も流刑に処せられることとなりました。そして、于謙の邸宅が検分されましたが、その屋敷には余分な蓄えなど無く、ただ、固く閉ざされた屋敷の一室に、嘗て景帝から下賜された刀剣や朝服などの宝物が、大切に納められていただけでした。

 于謙の処刑の朝には、砂塵が吹荒れて日光は遮りられ、砂礫が刑場へと向う檻車(らんしゃ)の行く手を阻みました。処刑の後、憂国の英雄の死を悼んだ人々は、酒を捧げて慟哭したといいます。

 ある晩、山海関へと流されていた夫人の許に、于謙が夢枕にが立ってこう告げました。

 「我が身は滅してしまったが、魂魄はまだ散じていない。今一度、陛下の御前に参じたいものの、もう目が見えないのでどうしようもない。そこで、お前の眸を借りにきたのだ。」

 朝、目覚めると、夫人の視力は失われていました。

 ちょうどその頃、北京では奉天門が火災に見舞われていました。英宗が自ら視察に赴いたところ、その炎の中に人の双眸を認めました。よくよく見ると、その人型は于謙の姿をしていました。その姿を見た英宗は、于謙が全くの冤罪であったことを瞬時に悟って、早速、流罪した夫人を赦免する詔を下しました。

 同じ頃、夫人は于謙が目を返しにくる夢を見ました。翌朝、目覚めると、果して夫人の視力は元に戻っていたということです。

 それでは、于謙の清廉潔白なその人柄や、彼の人生観が偲ばれる漢詩を紹介しておきます。

■石灰吟(せっかいぎん) [于謙]
 千錘萬鑿出深山 千錘(せんすい)万鑿(ばんさく)、深山に出で
 烈火焚燒若等閨@烈火に焚燒(ふんせう)するも、等(とうかん)の若し
 粉身碎骨渾不怕 粉身碎骨(ふんしんさいこつ)渾(すべ)て怕(おそ)れず
 要畄清白在人間 留(とど)むるを要す、清白(せいはく)人間(じんかん)に在るを

<語釈>
・石灰吟
 石灰を擬人化して詩を詠じさせ、自身の人生観に凖えたもの。

・千錘萬鑿
 千万という数えきれない手間を掛けて掘り出すという意。
 錘とは、火を吹き付けて金属を鍛える器で、鑿は、穿つ。掘る。穴を開けること。

・深山
 奧深い山谷。

・烈火
 激しく燃えさかる火。猛火。

・焚燒
 焼く。

・等
 気にも留めないこと。

・粉身碎骨
 身命を賭して力の限り努力すること。粉骨砕身と同意。

・渾不怕
 少しも恐れない。全然怖がらない。

・要
 〜したい。〜しよう。

・清白
 品行が汚れなく清らかなこと。清廉潔白の意。

・人間
 世間。人の世。社会。

<現代語意訳>
 (私=石灰は)深い山奥から、大変な手間を掛け掘り出されるものであるが、
 激しい火で焼かれても、気にも掛けない。
 (このように)身を砕く(粉になる)ような困苦も、全く厭わないのは、
 ただ、この世に清廉潔白(なものがある)ということを留めて(示して)おきたいからである。

 如何だったでしょうか?

 多くの功績を立て、明王朝を滅亡から救ったものの、最後には讒言により処刑されてしまった于謙でしたが、現代も、彼のように、真正直が故に損をしている人が多い世の中なのかもしれません。何が正しくて、何が正しくないかなど、後の歴史家が評価することなのかもしれませんが、今を生きる我々としては、常に于謙のように、その身を律していたいものです。

ヨハン・パッヘルベル:「カノンとジーグ」を聴きながら・・・
北ドイツ放送交響楽団
ハンス・シュミット=イッセルシュテット指揮


Re: Vol.213 薫風の砌 SERAV - 2007/05/10(Thu) 00:25 No.791  

 国家が繁栄し民が普通の幸せを手に入れるためには
千謙のような人物が必要です。

 孔子の言葉に
    「君子は義に悟り、小人は利に悟る」。

 君子はまっさきに義を考える、小人はまっさきに利を考える。
大切なのは国の利益ではなく仁義である。

 「偶題」を読んでいた頃の千謙は幸せであったに違いありません。
今熊本のこの季節がKEN1さんの心をかるくさせたのですね。


晴れやかな空のごときに states - 2007/05/10(Thu) 14:45 No.792  

良いお話を聞かせて頂きました。

う(変換できませんでした)謙のような高潔の士は、
私、心中にただならぬ敬いの情が興ります。
最近「平家物語」に惑溺しつつあり、
君臣の道、忠義礼節、恕のこころの大切なことを
感ずること多々ありまして、
仰るとおり、まさに正道をゆくものは
果たしてその世で全き人生を歩めるか否かといえば、
それは言葉もなく・・。

ありがとうございました。


君子と小人 KEN1 - 2007/05/11(Fri) 23:37 No.793  

SERAVさん、返信ありがとうございます。

偶題の詩境を想起させる、薫風五月の好季節は、
本当に清々しい気持ちになれます。

「君子は義に悟り、小人は利に悟る。」
于謙のエピソードに相応しい言葉ですね。

鉄血宰相として知られるビスマルクの言葉に、
「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ。」
という寸言がありますが、
多くの人々経験の集積である「歴史」を学んでも、
于謙のように、義に悟る、
つまり、行動として活かさなければ意味がないのでしょうね。




五常 KEN1 - 2007/05/11(Fri) 23:39 No.794  

statesさん、返信ありがとうございます。

草花木々が豊かなstatesさんお住まいの環境では、
偶題の様な情景を、日々体験されていることでしょう。

ついつい忘れがちな、
“仁義礼智信”
所謂、「五常の徳」の訓えは、時代は違えど、
生きる智慧の一つには違いないでしょう。

歴史を紐解き、様々な高潔な人物の生き様を知る。
そんな読書の時間は、本当に掛替えのないものですね。




Vol.212 アルカンジェロ・コレッリ 投稿者:KEN1 投稿日:2007/03/23(Fri) 22:28 No.782  
 日本でバロック時代の作曲家と云えば、バッハやヴィヴァルディ、パッヘルベルなどが有名ですが、彼らに勝るとも劣らない偉大な作曲家がいます。その作曲家とは、「アルカンジェロ・コレッリ」(Arcangelo Corelli)[1653年2月17日〜1713年1月8日]。イタリアの作曲家でヴァイオリン奏者でもあった彼は、作曲家として「トリオ・ソナタ」や「コンチェルト・グロッソ」などの器楽形式の形成に多大な貢献を果たし、ヴァイオリン奏者としてもローマ楽派の巨匠として、多くの弟子を育てています。名前のアルカンジェロが、イタリア語で大天使を意味することから、「ヴァイオリンの大天使」と称されることもあります。

 バロック時代は、器楽音楽が発展した時代でした。音楽が宮廷や貴族のサロンから、次第に民衆の集う教会や劇場へと移行し、それに伴って、楽器も小空間に向いたものから、広い空間にも適応できるものへと変換していきました。そんな時代の要請によって発展した楽器の中でも、特にヴァイオリン属は、この時代を代表する楽器といえるでしょう。「ストラディヴァリ」(1644年〜1738年)などの名工が、類稀なるヴァイオリンを製作していた時代、当時、まだ開拓初期の楽器であったヴァイオリン属の演奏技法を模索し、それに見合った音楽を作曲していったのがコレッリでした。彼のそんな業績から、「現代のヴァイオリン技術の創立者」とか「世界初の偉大なバイオリン奏者」とも称されます。

 多作傾向にあったバロック時代の他の作曲家に比べて、コレッリは、その自作を積極的に発表しなかったため、その名声の割りには遺された作品数は多くありません。コレッリ自らが編集して出版された曲集は全部で6つ(作品6は死後に出版されています)、総曲数も72曲であり、自ら出版しなかったものの楽譜が現存しているものを加えても、80数曲にしか過ぎません。しかし、何れもコレッリ自らが厳選した作品ばかりのようで、その完成度は高く、溜息の出るような美しい作品ばかりです。事実、曲集が出版されると、直ぐに次の作品集が待ち望まれており、コレッリ唯一のヴァイオリン・ソナタ集作品5などは、1700年1月に出版された後、1750年までに25回も版を重ねており、その人気の程を窺い知ることができます。

■コレッリの生涯
 コレッリは、1653年2月17日、イタリア北部の町フジニャーノ(現在のラヴェンナ近郊)で、裕福な地主の五番目の子どもとして生まれました。彼の少年期については殆んど知られていませんが、幼少の頃に、フジニャーノ近郊のルーゴやファエンツァの聖職者より、音楽の手解きを受けていたようです。

 13歳から、当時、イタリア音楽の拠点として知られていたボローニャで、「バッサーニ」からヴァイオリンを学び、また、法皇の礼拝堂付き歌手であった「マッテオ・シモネッリ」から、パレストリーナから続く対位法による作曲法などを学んでいたと推定されています。

 1670年、僅か17歳で、ボローニャの「アカデミア・フィラルモニカ」(Academia Filarmonia)に正会員として迎えられ、「ベンヴェヌーティ」と「ブルニョーリ」に師事しています。このアカデミアへの入会資格は、20歳以上の者に限定されてましたが、特例として10代での入会が認められています。これは稀有なことであり、特例が認められたのはコレッリと、後のモーツァルトのみです。この事実からも、如何にコレッリの才能が突出していたかが窺えます。

 因みに、バロック時代、器楽作品の創作活動の拠点はボローニャでした。1675年頃から1700年頃まで、他の都市より多くのソナタを中心とした器楽曲が作曲されています。1657年、「マウリツィオ・カッツアーティ」(1616年〜1678年)が、ボローニャのサン・ペトロニオ大聖堂の楽長に任命されたことを契機として、器楽曲は急成長を遂げました。合奏音楽が教会での宗教的儀礼を充実させる手段として、大聖堂という巨大な空間で演奏されるようになり、ミサの前にソナタやコンチェルトが演奏されることが慣例となっていきました。

 更に、ボローニャの器楽音楽は、「アカデミア・フィラルモニカ」の設立と、有産階級の支援とによって、一層の発展を遂げています。ヴァイオリンと音楽理論を学んでいたコレッリの教会ソナタは、教会での演奏を意識した曲となっており、普通、ポリフォニー書法で作曲され、緩-急-緩ー急という4つの楽章から構成されています。対して、室内ソナタは、「サラバンド」「アルマンド」「ガヴォット」「ジーグ」などの舞曲に基づく短い楽章で構成されています。

 その後、コレッリは1675年からローマのサン・ルイージ教会の、ヴァイオリン奏者の一人とし記録されています。はっきりとした記録は残されていませんが、1672年に、コレッリはパリ(若しくはスペイン?)への旅行により、ヨーロッパ中で評価されるようになったといいます。しかし、「ジャン=バティスト・リュリ」(1632年〜1687年)の嫉妬を受けてパリを発ち、1680年頃にはドイツへと移り、1681年には、バイエルン選帝侯の許でも勤めていたと考えられています。

 1681年以降より、コレッリの活動拠点は、ボローニャからにローマに移っていたようで、以後、ローマを中心として作曲家・ヴァイオリン奏者としての活躍し、枢機卿「ベネデット・パンフィーリ」や、同時期にローマに滞在していたスウェーデン女王「クリスティーナ」の厚遇を受けて、安定した生活を送っていたようです。この年(1681年)に、『トリオ・ソナタ集 作品1』(12 Suonate a tre Op.1)が出版されました。

 1685年頃までのコレッリは、多くの時間を、友人の「クリスティアーノ・ファリネッリ」宅で過ごしていたようです。1685年には、『トリオ・ソナタ集 作品2』(12 Suonate da camera Op.2)が出版されています。コレッリは、教会などの大小様々なアンサンブルを率いて、公式の祝典などで活発に活動していたようです。1687年には、クリスティーナ女王によって組織化された音楽院で、150人の弦楽器奏者の率いたとの記録が遺されています。しかし、1687年にクリスティーナ女王が亡くなり、また、1690年にはパンフィーリ枢機卿もボローニャに移ってしまうなど、二人の有力な庇護者を相次いで失ってしまいました。

 1689年から1690年の間、コレッリはモデナに滞在しています。ここでモデナ公の庇護を受けていたようです。1689年に、『トリオ・ソナタ集 作品3』(12 Suonate [da chiesa] a tre Op.3)と、器楽曲小品『シンフォニア ニ短調』(Sinfonia WoO.1)が出版されました。また、1694年には、『トリオ・ソナタ集 作品4』(12 Suonate a tre Op.4)が、1700年には、『ヴァイオリンと通奏低音のためのソナタ 作品5』(Suonate a violino Op.5)が出版されています。

 1708年にローマに戻ったコレッリは、パンフィーリ枢機卿の後任で、芸術家、特に音楽家のパトロンとして有名であった、「ピエトロ・オットボーニ」枢機卿(後のローマ教皇「アレクサンデル8世」)の許で、主席ヴァイオリン奏者兼楽長として仕える幸運を得ています。同年、国王の招きでナポリにも訪れています。オットボーニ枢機卿の邸宅「カンチェレアリ宮殿」で暮らしていたコレッリは、長期に渡って、その宮殿で行われていた有名な月曜演奏会を主催していました。

 ところで、1707年頃、コレッリは「ゲオルグ・フリードリヒ・ヘンデル」(1685年〜1759年)と邂逅しています。ヘンデルが最初に作曲したオラトリオ『時と悟りの勝利』(Il trionfo del Tempo e del Disinganno)は、ヘンデルがイタリア滞在中に作曲したもので、ヘンデルの後援者であり、コレッリの後援者でもあったパンフィーリ枢機卿の台本によるものでした。そして、オットボーニ枢機卿の宮殿(若しくはパンフィーリの宮殿とも)で上演されたと推測されています。

 この作品の上演に当たっては、次のようなエピソードが伝えられています。

 当時、オットボーニ枢機卿の宮殿で、音楽監督兼主席ヴァイオリニストを務めていたのはコレッリでした。ヘンデルの曲は、最初、変ロ長調のフランス風序曲が置かれていましたが、リハーサル時のコレッリは、常にゆったりとした典雅な演奏法を採っていたため、大先輩であるコレッリの手からヴァイオリンを奪い取ると、このように激しく弾いてくれと自ら手本を示しました。このヘンデルの演奏を聴いたコレッリは、穏やかにこう答えたといいます。「しかし、ザクソンの人よ。この曲はフランスの流儀で書かれてるので、我々にはさっぱりわからないのです。」そして、「技術を誇示するためだけに、こんな音を弾かせるとは」と批判したとも伝えられています。擦った揉んだの挙句にヘンデルが折れて、リュリ風の序曲を引っ込めることになり、現在聞けるのはイタリア風のシンフォニアとなりました。

 1709年までサン・ルイージ教会の典礼の折に、ヴァイオリニストとして演奏活動を行っていたことが記録に遺されています。しかし、1710年の始めから、公衆の面前に現れることを止めて、作品6の合奏協奏曲集の出版に向けて創作活動に没頭しています。残念ながら、1713年1月8日、60歳で死去したコレッリは、1714年に出版された『合奏協奏曲集 作品6』(Concerti grossi Op.6)を見届けることなく、その生涯を終えました。コレッリの亡骸は、ローマのパンテオンに埋葬されました。

 死の当時、コレッリの遺産額は12万マルクにも上り、貴重な絵画も多数所有していました。コレッリは音楽のみならず、絵画に対する一見識を持ち、その蒐集品は優れたものだったといいます。しかし、日頃より質素な生活を送っていたので、人々は、この巨万の冨と、名画の蒐集品を見て驚いたといいます。コレッリは、後援者と友人に遺産を託すよう遺言していますが、友人はその財産を全てコレッリの親類に譲渡したといいます。何とも、コレッリの人柄が偲ばれるエピソードです。

 コレッリの器楽作品は室内楽の歴史に革新をもたらし、「ピエトロ・アントニオ・ロカテッリ」(1695年〜1764年)や「フランチェスコ・ジェミニアーニ」(1687年〜1762年)、「トマゾ・アルビノーニ」(1671年〜1751年)らに影響を与えていますが、最も影響を受け成功した人物は、「アントニオ・ヴィヴァルディ」(1678年〜1741年)といえるでしょう。コレッリの教師としての業績も顕著で、彼の多くの学生中には、ジェミニアーニばかりでなく、ヴィヴァルディもいました。ヴィヴァルディは、コンチェルト・グロッソの後継者として、後に「ヨハン・ゼバスティアン・バッハ」(1685年〜1750年)の音楽にも多大な影響を及ぼしています。その他、「ゲオルグ・フリードリヒ・ヘンデル」(1685年〜1759年)、「ゲオルク・フィリップ・テレマン」(1681年〜1767年)といった人達が続いていくこととなります。

■コレッリの作風(トリオ・ソナタとコンチェルト・グロッソ)
 コレッリは、イタリアの作曲家としては珍しく、歌曲やオペラ、オラトリオなどは一切作曲しておらず、全てが弦楽器曲でした。このため、ヴァイオリン曲を書くことにより、先進楽器であったヴァイオリンに尽くした作曲家と言えるでしょう。彼の書いたソナタの多くは、二挺のヴァイオリンと一挺のチェロ(ビオラ・ダ・ガンバ)、そして鍵盤楽器によるものです。

 コレッリの作品は、出出しの和弦を聴いただけで、ああコレッリだと分かるほど上品で特徴的な響きをもっています。コレッリとヘンデルの逸話からも解るように、コレッリの作風は、主旋律のヴァイオリンのテクニックを強調するものではなく、色調豐かなポリフォニーを重視し、美しい旋律と付随のパートが見事に調整された、気品ある優雅なものとなっています。コレッリは自身も、自らのヴァイオリン演奏能力のうち、限定された一部しか用いておらず、例えば、ヴァイオリンのパートが、第三ポジションの最高音である最高音弦のD音より上を弾くことは無かったといいます。ヴァイオリンのみの華やかな妙技を避けたスタイルのため、幅広い表現に欠ける作品とも言えるでしょうが、反面、演奏し易い曲となっているため、広く音楽愛好家に迎えられ、ソナタや合奏協奏曲の普及に大きく貢献しています。

◇トリオ・ソナタ(torio sonata)
 イタリアで生まれ、コレッリによって大成された「トリオ・ソナタ」とは、“3声部からなるソナタ”という意味で、バロック音楽の典型的な室内楽の形式です。

 普通、非舞曲形式の形式は、緩やかな曲と速い曲を交互に織り交ぜた、緩-急-緩-急の4楽章の構成をもち、「ソナタ・ダ・キエザ」(sonata da chiesa:「教会ソナタ」)と呼ばれます。対して、主に舞曲楽章にものは、「ソナタ・ダ・カメラ」(sonata da camera:「室内のソナタ」)と呼ばれます。

 一般的に、音域の類似した二つの旋律楽器と通奏低音のために作曲されており、通奏低音の上で二つの旋律楽器(通常は二挺のヴァイオリン)が巧みにやり取りされます。通奏低音は、チェンバロやオルガンなどの通奏楽器と、チェロやヴィオラ・ダ・ガンバのような旋律楽器が共に担当するので、実際の演奏では、四人程度で独立した三声部が弾き分けられています。

◇コンチェルト・グロッソ(concerto grosso:合奏協奏曲)
 「コンチェルト・グロッソ」とは、コレッリにより作られた合奏協奏曲で、ヴィヴァルディ、ヘンデル、大バッハによって発展していきました。

 コンチェルト・グロッソという単語を最初に与えたのはコレッリで、作品6に於いて初めてこの名称が用いられました。しかし、その創始者は、1680年頃に、コレッリの友人であった「アレッサンドロ・ストラデッラ」(1644年〜1682年)が開発したもののようです。ストラデッラは、所謂、「コンチェルティーノ」(concertino)と「リピエーノ」(ripieno)を個性的に組み合わせた音楽を初めて書いています。その為、コレッリは、「コンチェルト・グロッソの父」と呼ばれ、その形式の潜在力を証明し、通俗化して、コンチェルト・グロッソのための最初の大きな音楽を作曲したのはコレッリと言えるでしょう。彼の成功なしには、後のヴィヴァルディやヘンデル、及び大バッハらが、コンチェルト・グロッソ傑作を作曲することは不可能だったかもしれないのです。

 コンチェルト・グロッソの形式では、コンチェルティーノと呼ばれる独奏楽器群(一般的には二挺のヴァイオリンと通奏低音楽器の組み合わせ)と、「リピエーノ」、若しくは「トゥッティ」(tutti)と呼ばれる総奏(全合奏)との対比によって進められます。

 トリオ・ソナタと同様に、比較的ホモフォニックで緩やかな楽章と、比較的ポリフォニックな速い楽章とが交互に演奏される「教会コンチェルト」(concerto da chiesa)と、前奏曲に続いて、幾つかの舞曲を並べた舞曲組曲である「室内コンチェルト」(concerto da camera)に区別されます。

 その多くが「リトルネッロ形式」(ritornello) で書かれています。リトルネッロとは、イタリア語の「回帰」を意味する「ritorno」から派生した言葉で、元々は、声楽に使われていた用語でした。後に、合奏協奏曲やソロ・コンチェルトにおける「総奏」(tutti:トゥッティ)の部分も、リトルネッロと呼ぶようになりました。これは、一つの楽章の中で、総奏と独奏が交互に演奏される手法が用いられた時に、総奏が同一の素材に基づいていることによるものです。

 ヴァイオリンは、クラシックには欠かせない楽器です。そんなヴァイオリンに美しい楽曲を与えたコレッリの業績は、後世の偉大な作曲家へと継承され、今日の私達に、安らぎの一時をもたらしてくれています。

アルカンジェロ・コレッリ:「合奏協奏曲 作品6」を聴きながら・・・
イタリア合奏団


Re: Vol.212 アルカンジェロ・コレッリ SERAV - 2007/03/25(Sun) 01:19 No.783  

 「獲 麟」!。

 ご存知「麒麟」は聖人の出現にともなって現れる
空想の聖獣ですが

 ヴァイオリンの出現に合わせたように
コレッリが現れヴァイオリンが今日当たり前のように弾かれる
その土台なるべく活躍した人。

 その裏で今では珍しい楽器となった多くの楽器が存在したことを忘れてはならないでしょう。
「コンチェルト・グロッソ」の父と呼ばれるに相応しく、
魅力あふれるヴァイオリン曲を後世に残しました。


コレッリ states - 2007/03/25(Sun) 15:12 No.784  

私がはじめてコレッリの音楽に接したのは
さほど以前のことではなくて、
たしかフランス・ブリュッヘン(だったかな?)の
リコーダー演奏をCDウォークマンで聴いたとき、
5〜6年前だったでしょうか?
「タテゾノ」という、おいしいコーヒーを飲ませてくれる喫茶店で、
それこそ、Calvadosさんとリコーダーの楽譜を
大谷楽器に買いに行ったあとでした。
一緒に入手したばかりのCDを矢も楯もたまらず
聴いたのでした・・。
鳥が鳴くように、木々が呼吸するかのごとき演奏に
ただただ憧憬とも恋慕ともつかぬ思いを抱いたものです。

後日、「フォリア」にふれて、その甘美な狂気に酔いました。
イルジャルディーノ・アルモニコの扇情的な演奏に、
気まぐれな恋、貴族的蛮遊を思ったりしたものです。

こけこっこさんが、福岡でコレッリの「フォリア」を
お吹きになるのではないでしょうか?
今回のツアーは行くことが叶いませんでしたが、
Calvadosさんは「あいれふホール」、お行きになるようです。

羨ましいですね。

今回、コレッリのことを詳しく知ることができて、
新たな鑑賞ができそうです。
自宅のメルクスのCDに、なにか入っていたような・・。
いい休日になりそうです。

ありがとうございました!


古楽器 KEN1 - 2007/03/28(Wed) 22:29 No.785  

SERAVさん、返信ありがとうございます。

ヴァイオリンの進化と共に名曲を書き綴ったコレッリ。

仰有るとおり、現在では、日常見かけなくなった楽器が多くありますよね。
リュートやハープ、ショーム)やバグパイプ、
ハーディ・ガーディ(ヴィエル・ア・ルウ)等々、
以前紹介した、ヒエロニムス・ボッシュの絵画にも取り上げられています。

ところで、「獲麟」の故事を引き合いに出されたのは、どんな意味なのでしょうか?

『春秋』が「西狩獲麟」(西に狩して麟を獲たり)で終わっていることから、
絶筆や臨終、辞世の句を意味する言葉ですが、
その後も、孔子の思想が面々と生き続けたことに、
コレッリが築いたヴァイオリン音楽の進化を重ねられたのでしょうか?



リコーダー KEN1 - 2007/03/28(Wed) 22:32 No.786  

statesさん、返信ありがとうございます。

リコーダーにも取り組んでいらっしゃるstatesさんは、
日頃よりテレマンの『ターフェルムジーク』などを
ブリュッヘンの演奏で聴いていらっしゃるのですね。

SERAVさんが仰有った、珍しくなった古楽器やリコーダーの演奏を、
私は「デイヴィッド・マンロウ」で聴いています。

こけこっこさんのコンサート、私も都合が付かず残念です。



Re: Vol.212 アルカンジェロ・コレッリ SERAV - 2007/03/29(Thu) 01:10 No.787  

 KEN1さん
 さすがに御もっともなご指摘です。

「春秋」最後の記事は「14年西に狩して麒麟を獲たり」ということから
なぜこの例えを持ち出してきたのかと思われたことでしょう。

 私は「ヴァイオリンとコレッリ」とくれば、
後は「クリモナ・ストラビバリウス」と考えた分けです。

 奇しくも「春秋」と同じくこの最後となったヴァイオリンの名器、
その名器がたどる数奇な運命は、

 新しくこの楽器がヴァイオリンとなずけられた頃に
もう最高水準にまで完成されて

 後は「時が楽器を完成させる」だけでした。
そんなことを、つまりヴァイオリンの楽器のことを考えておりました。

 紛らわしいことを書き加えまして申し訳ありませんでした。


Vol.211 故事成語「天衣無縫」 投稿者:KEN1 投稿日:2007/02/21(Wed) 22:29 No.777  
 久しぶりに故事成語をお送りします。今回紹介するのは、「天衣無縫」。“天人の衣には人工的な縫い目が無い”という意味から、詩歌などにおいて、態とらしく技巧を凝らした痕が見られず、いかにも自然で美しいことを称える際に用いられます。「李白」の詩才を称える讃辞としてよく見かける他、モーツァルトの作品などにはピッタリの言葉でしょう。また、転じて、天真爛漫で飾り気の無い人柄にも用いられています。

 天衣無縫の基となった説話は、天女が飛来して人の男と契りを結ぶという、所謂、「羽衣伝説」のモティーフに由来するものです。羽衣伝説については、[Vol.132 星座の物語(こと座)−「七夕」編」]でも紹介していますが、この説話の由来は、織女が浮気?する話がその由来となっています。

 天衣無縫は、『太平広記』(たいへいこうき)巻六十八に見られる「天人女房」がその出典で、唐代の『霊怪集』から引用された説話とされます。

 太平広記とは、978年に北宋の太宗の勅により編纂されたもので、「李ボウ」(りぼう:925年〜996年;ボウの字は[日+方])を中心とした、宋代初期の一流の学者や文人ら13人によって纏められました。五百巻から成るこの書には、伝奇や珍話は言うに及ばず、街の噂話や個人のエピソードなども網羅され、「神仙」「女仙」「道術」「方士」等、92項目の事項に分類されています。この書には、漢代から五代までの小説や奇聞が集成されており、その引用された原書の数は475書にも上ります。現在では、多くの原書が失われているため、本書に拠ってしか知ることができない説話も多く、中国の小説史を研究する上で貴重な資料とされています。因みに、天衣無縫の説話は、「女仙」に分類されているものです。

■郭翰と織女
 昔、あるところに、郭翰(かくかん)という青年がいました。早くに両親を亡くしてはいたものの、暮らし向きには困らず、毎日書物を読んで暮らしていました。

 月清けき夏の夜、郭翰が寝台で涼んでいたところ、芳しい香の風を伴って、天から二人の侍女を従えた、えも言われぬ美しい女性が舞い降りてきました。黒い絹の薄衣と、霜のように白い薄絹の肩掛けを羽織った彼女は、翡翠色の鳳凰の冠を被り、雲形模様の刺繍を施した沓を履いていました。

 その姿を見た郭翰は、この方は正しく天女であると思い、慌てて身を起して居住まいを正すと、衣服を整えて拱手(きょうしゅ・「こうしゅ」は慣用読み;両手を胸の前で組み合わせてする敬礼の作法)して、「あなた様は、何処の何方でしょうか。」と尋ねました。

 すると、「私は天界の織女です。夫と別れて久しく、寂しさの余り気鬱となったので、情け深い天帝のお許しを得て、暫らく下界へ保養しに参りました。あなたさまの俗塵を避けた暮らしぶりや、教養ある清廉潔白な人柄に惹かれて、お慕い申し上げるようになりました。どうか私と契りを結ばせて頂きたいと思います。」

 何とも恐れ多いことであると、郭翰が恐縮している間に、織女は侍女に命じて寝所を整えさせました。部屋が清められると、白地に細かい朱をあしらった帳が広げられ、水晶の玉で作った敷きものが敷かれました。侍女が団扇で扇ぐ部屋の中は、まるで爽やか秋の風情のようでした。

 郭翰は、織女に導かれるままに寝所へと入りました。織女が薄紅色の薄絹を解くと、何とも妙なる香気が立ち上りました。彼女の柔らかで滑るような肌、細やかな愛情あふれる仕草、どれもこの世のものとは思えない艶やかなものでした。しめやかに交情を結んだ二人の夜は、それは甘美なものとなりました。夜が明け白む頃になっても、彼女の白粉は少しも崩れていません。郭翰が擦ってみると、それは白粉などではなく、輝くばかりの素肌でした。明け方には、彼女は雲に乗って天へと帰っていきました。

 これ以降、夜毎に織女は郭翰の許を訪れるようになり、二人は一層親しくなりました。そんなある夜、郭翰が戯れに、「このように毎晩訪れて頂き、嬉しい限りです。しかし、ご主人である牽牛さまはどうされているのですか。この事をご存知なんのですか。」と尋ねました。すると、「男女のことがあの人と何の関わり合いがありましょうや。況してや、遠く天の川を隔てているあの人には分かるはずがありません。知れたとしても気にするほどのことではありませんのよ。」と、然も当然のように答えました。

 やがて七夕の夜が来ると、流石に織女は現れませんでした。数夜の後に、ようやく織女がやって来ると、郭翰は少し妬いた口調で、「七夕の再会は楽しめましたか。」と尋ねました。すると、「天上の事柄は、現世のこととは違うものです。心を通わせるだけで、他には何もありません。そんなに焼餅を焼くには及びませんのよ。」そう答える織女に、「それにしても、なかなか御出でにならなかったのですね。」と更に拗ねた口調で問うと、「天上の一夜は、現世の五日に当たるのですよ。」と郭翰を諭すように答えました。

 その夜、織女は郭翰のために天上の料理を振舞いましたが、その豪華な品々は、何れも見たことも無いものばかりでした。そうしているうちに、何気なく彼女の衣を見ると、縫い目や繋ぎ合せた様子が全くないことに気付きました。訝しんだ郭翰がそのことを尋ねると、「天上にある衣は全て、自然に着る者の身体に合わせて衣服となるのです。だから針や糸など必要ないのですよ。」と教えてくれました。その不思議な衣は、彼女が明け方に帰る時には、ひとりでに彼女の身に随うのでした。

 一年が過ぎたある晩、織女は悲しげな表情で、「天帝から得たお許しの期限が参りました。これでお別れでございます。」と言い、郭翰の手を握ると泣き崩れてしまいました。郭翰が驚いて、「あと何日逢えるのですか。」と惜しむように尋ねると、「今宵限りでお別れでございます。」と泣きながら答えました。

 二人は悲しみに暮れ、夜明けまで寝ずに別れを惜しみました。空が白むと織女は抱き締めて最後の別れを告げました。別れ際、織女は思い出の品として七宝の碗を郭翰に贈り、郭翰は玉の腕飾りを贈りました。織女は、来年の何時何時の日にお手紙を差し上げますと告げると天へ昇り、何度も何度も振り返っては手を振っていましたが、やがて消えてしまいました。

 織女との甘美な日々を忘れることができない郭翰は、彼女を思うあまり病気になってしまいました。果たして、翌年の約束の日に、織女は侍女に手紙を持たせて寄越しましたが、その後の織女からの便りは途絶えてしまいます。この年、宮廷の天官が皇帝に織女星の光が失われていると上奏しています。郭翰の織女への思いは尽きず、他のどんな美人を見ても心を動かすことはありませんでしたが、跡目を残すために、やむを得ず程家の娘を娶りました。しかし、織女のことが忘れられない郭翰との仲は悪く、息子もできませんでした。郭翰は侍御史の官職にまで就いて亡くなりました。

■歴史上の郭翰
 ところで、この荒唐無稽な物語に登場し、何とも羨ましい思いをした郭翰とは、実在の人物なのでしょうか。この説話が、唐代の『霊怪集』から引用されていることから、唐代以前の歴史が記された書物を紐解いてみると、唐代の初頭、「則天武后」が実権を握っていた時代の記述の中に郭翰の名前が見えます。

 その歴史書とは、北宋の「司馬光」(しばこう:1019年〜1086年)が記した、『資治通鑑』(しじつがん;史実を明らかにして、歴代為政者の鑑とする意味。略称『通鑑』)という、二百九十四巻からなる書で、周の威烈王の二十三年(紀元前403年)から、五代の終り(959年)までの史実を、当時一流の史家の協力の下に編年体に編纂されたものです。司馬光は、1065年「英宗」の詔を奉じて1084年完成し、完成時の為政者「神宗」から名を与えられています。その記述の正確さと、格調の高い文章から、中国の歴史書のうちでも、最も優れたものの一つとされ、史料としても、今日残っていない資料からの引用も多く、正史の不備を補う貴重なものとされています。日本では、1849年に津藩で翻刻されて以来、多くの版本が出版されました。また、水戸藩が編纂した『大日本史』にも大きな影響を与えています。

 さて、郭翰の名は、『資治通鑑』巻第二百三「唐紀十九 高宗天皇大聖大弘孝皇帝下」と、二百四「唐紀二十 則天順聖皇后」という紀年編の中に見られる記事です。則天順聖皇后というのは、唐朝三代皇帝「高宗」の皇后で、武周の皇帝となった、かの「則天武后」(624年頃〜705年;在位690年〜705年)のことです。

 686年の記事が編された巻第二百三には、左台監察御史(諸官吏の行状を調べ、地方官庁の行政や状態を巡視する官職)の職にあった晋陵(しんりょう;江蘇省にあった都市)の郭翰が巡察し、隴右の地方官の失策を摘発し、寧州では、刺史の美徳を讃美して歌を歌う老人が路に溢れていたことを朝廷へ推薦し、そのことにより冬官侍郎に抜擢された、とあります。

 続いて、687年の記事が編された巻第二百四の記事には、摂政だった則天武后を批判して、賜死を命ぜられた高官、鳳閣侍郎(詔勅の記録・伝達の職で宰相の位)同鳳閣鸞台三品「劉韋之」(韋の字は[示偏+韋])の遺書を褒めたために、則天武后によって、郭翰は巫州司法へ左遷された、という記録もあります。

 果たしてこの郭翰が、天衣無縫の説話に登場している郭翰その人であったかどうかは定かではありませんが、監察御史の職にあった郭翰の人柄は、きっと清廉潔白だったことでしょう。また、高潔な臣の見事な遺書を、権力に阿ることなく賞賛するところなど、唐代の官僚の中でも、一廉の人物として伝え知られていたのでしょう。

ワーグナー:歌劇「タンホイザー序曲」を聴きながら・・・
フィルハーモニア管弦楽団
オットー・クレンペラー指揮


Re: Vol.211 故事成語「天衣無縫」 SERAV - 2007/02/21(Wed) 23:31 No.778  

 このような「霊怪」が居るなら
私は喜んでお会いしたいのもです。

 「酒池肉林」

 ‘酒をもって池となし、肉を県けて林となす’

 また史記には
「男女を裸にして、その間に相おわしめ、長夜の飲みをなす」
絡み合う男女の裸体が宴会には不可欠だったこの時代。

 男が願う最高の美女を「天女」に求めた想像力。
恐れ入りました。


酒池肉林 KEN1 - 2007/02/22(Thu) 21:39 No.779  

SERAVさん、返信ありがとうございます。

ヴェーヌスさえも籠絡しそうなSERAVさんの魅力には、
世界各地の美姫が虜になっていたことでしょう。

流石に、織女には出会っておられないようですが、
謫仙人たるSERAVさんのことですから、
過去世では、織女とも盃を傾けられたかもしれないですね。

ヨーロッパでは、オリンポスでムーサイと、
中国では、崑崙山で仙女達と天上の音楽を語らい、
毎日、飮み明かされていたのでしょうか。
蟠桃園でベリーニなんて、きっと乙でしょうね!

ところで、「酒池肉林」の一般的な説明は、
妲己を寵愛し酒に溺れて政治を怠った、
「紂王」の暴虐無道な行ないだったとされていますが、
これは、後世の歴史家の事実誤認だと思っています。

紂王が行った酒池肉林の本来の意味とは、
一種の祭祀であったと考えています。
詳しくは、いつかコラムに書いてみたいと思っております。



郭翰と織女 states - 2007/02/23(Fri) 14:40 No.780  

今回はKEN1様らしい、
夢のある星々のお話しと
深大なる漢籍のご素養とのコラボレーションで、
とても面白く読ませていただきました。

しかし天帝もおおらかな罪作りで、
保養名目の、しばしのお遊びともつかぬ、
この恋の顛末。

巧く「遊ばれ上手」になれなかった郭翰が、
なにかしら可哀想な気もして。

さっそく、タンホイザーの序曲を
引っ張り出して、今、聴いているところです。
ヴェーヌスベルクの罪作りなあの女・・。

星々、中国のいにしえの言葉、ワーグナー。
・・それぞれの放つ光線の交わりに、
KEN1様の抽斗の多彩・多方向に亘る教養の、
滋味深い、そして奥床しい敷衍を感じました。

ありがとうございます。


天つ少女(あまつおとめ) KEN1 - 2007/02/23(Fri) 22:32 No.781  

statesさん、返信ありがとうございます。

天帝の計らいを、「おおらかな罪作り」と呼ぶ、
statesさんのセンスが大好きです。

そんな天帝の心遣いにより、織女の浮気相手に選ばれた郭翰でしたが、
仰るとおり、遊ばれ上手には徹し切れなかったようですね。

なんとも羨ましい限りのお話は、世の男達から羨望にも似た嫉妬を生み、
此の世のものとは比べものにならない織女の魅力を味わった報いだ
との落ちを付けたかったのでしょう。

SERAVさんが仰っているように、男が夢想する最高の美女「織女」。
織女は、ヴェーヌスのように積極的に誘惑したわけではありませんが、
寂しさを紛らわすため、純朴な男の一生を台無しにしたわけですから、
“この世ならざる”抗い難い魅力を持つ女性として、
共に、禁忌として触れてはいけない世界の住人だったのでしょう。



Vol.210 桜散る、梅こぼれる、牡丹崩れる、椿落つ 投稿者:KEN1 投稿日:2007/02/07(Wed) 20:01 No.772  
 立春も過ぎ、各地から梅の便りが届いてきました。「梅は百花の魁(さきがけ)」とか、「百花元始」「百花初見」とも言われるように、梅の花は、年の初めに、あらゆる花の先頭を切って春を告げるように咲くことから、こう呼ばれています。

 さて、表題にあるように、四季の移ろいに敏感な日本人は、花の終わりを表現するにも、「桜:散る」「梅:こぼれる」「牡丹:崩れる」「椿:落つ」など、何とも風情ある言葉を用いています。このような繊細な言葉使いを見ると、改めて日本語の豊かさや美しさに感心してしまいます。

 この様に、花、特に桜を愛する日本人の心のありようは、その多彩な数え方にも見られます。例えば、開花した花は、「一輪、二輪」と数えますが、蕾(つぼみ)の段階では、「一個、二個」となります。花房が数輪纏まっている様子は、「一房、二房」ですが、花房が付いた枝の数は、「一枝、二枝」となり、花の重みで垂れ下がった枝の様子を数える時には、「朶」(だ;花や雲の塊を数える言葉)とも数えられ、「万朶(ばんだ)の桜」という表現もあります。更に、花弁(はなびら)は、通常「一枚、二枚」と数えますが、散り際に舞い散る花弁となると、「一片(ひとひら)、二片」との美しい表現が用いられます。

 漢字発祥の地である中国では、花が咲くことを単に「開花」、散ることは「落花」と表現しますが、日本語では、「さく・ちる」と花にだけ使う動詞が用いられています。この日本語独特の表現を漢字で表すために、意味の近い漢字を借りてきて、「さく=咲く」、「ちる=散る」の文字が当てられました。

 「咲」の字は、本来、「口 + 笑」が変形した俗字であり、「鳥鳴き、花笑ふ」という慣用句から、花が咲く様子を、口を細めて笑う様に譬えたわけです。「散」の字も、古い字体の意味は、竹の葉をバラバラにする様を描いたものでした。

 このように、漢字の原義を離れて日本語の訓を当てることを「国訓」(こっくん)といいます。国訓には二つの意味があり、一つは、同じ意味の和語を当てた漢字の読み方、つまり「樹」(き)、「白」(しろ)、「川」(かわ)などに見られる訓読みと同じ意味で、「字訓」や「和訓」とも呼ばれるものです。もう一つが、元々の意味とは無関係の漢字を、日本で独自の和語に当てた読み方で、例えば、「鮎」(アユ)の文字は「ナマズ」、「柏」(カシワ)は「ヒノキ」、「鰹」(カツオ)は「ウナギ」が本来の意味でした。

■桜
 桜の花は「咲き」、そして「散る」と表現されます。今の時期に「サクラチル」などと言うと、受験生には符の悪い言葉でしょうが、散るとは、本来、落ちることではなく、離れ離れになることを意味しているので、そんなに気にしなくてよいでしょう。

 この「サクラ」の語源には、幾つかの説があります。その一つは、古事記に登場する「木花之佐久夜毘売」(このはなのさくやびめ・このはなさくやひめ;『日本書紀』では「木花開耶姫」。別名、「神吾田津姫」(かみあたつひめ)「鹿葦津姫」(かあしつひめ))に由来するものです。木花之佐久夜毘売とは、古事記によると、天孫邇邇芸命が天孫降臨の折り、吾田の笠紗の岬で見初めた美女で、神武天皇の曾祖母にあたります。この姫が霞に乗って富士山の上空へ飛び、花の種を振り蒔いたと伝えられ、その時に蒔かれた花が、姫の名前に因んで「サクラ」と呼ばれるようになったというものです。

 また、別説では、サクラの「サ」の音は、古語で、早乙女や早苗の「サ」と同じく、穀霊(穀物の霊)を表す接頭語であり、「クラ」とは神霊が鎮座する場所を意味するものであることから、「サ + クラ」で、穀霊の集まる「依代」(よりしろ)を表しているというものもあります。

 その他、麗らかに咲くという意味の「咲麗」(サキウラ)からきているというものや、咲く花の総称である「咲くらむ」からきている説もあります。

 さて、観桜の歴史を見てみると、平安時代以前は郊外へ出かけて、山桜など野生の桜を鑑賞していたようです。これが平安時代に入り、野生の桜を移植して鑑賞するようになりました。花見の風習は、831年、「嵯峨天皇」が桜の花を愛でるため、宮中の桜を賞美しながら「花の宴」と呼ばれる酒宴を催したことに始まり、公式の行事となっていきました。

 宮中の桜といえば、御所の「左近の桜」が有名ですが、左近の桜には、次のような素敵な話があります。

 左近の桜は、元々は「左近の梅」でした。960年頃、「村上天皇」の御世に、御所の火災で梅の木が倒れてしまいます。そこで天皇は、「紀貫之」(きのつらゆき)の娘に梅を献上させたところ、次のような歌が添えられていました。

 「勅なれば いともかしこし 鶯の 宿はと問わば いかが答えん」

<意訳>
 「帝の御命令ですので、この梅の木を献上いたします。でも、この木にやって来る鶯に、私の宿はどうなったのかと問われれば、どう答えたものでございましょう。」

 この歌に心を打たれた天皇は、梅を娘に返し、梅に替えて桜を植えたといいます。以降、左近の梅は、左近の桜となりました。

 当初は、貴族社会の風習であった桜の花見も、桃山時代に、「豊臣秀吉」が吉野と醍醐で盛大な花見を催したことにより、大衆にも花見が知られるようになりました。

 江戸時代に入ると、奈良の吉野山の桜が江戸に移植されました。三代将軍「徳川家光」の時代、「天海僧正」が上野に寛永寺を建てた際、吉野の桜が移植され、隅田川河畔にも植えられています。その後、八代将軍「徳川吉宗」が、飛鳥山と小金井にも桜を植えて花見を勧めています。吉宗の時代には付け火が多く、庶民の心を安定させるために花見を奨励したもののようです。

 江戸時代初期には、桜の見事に散る様が武士の潔い死に様に通じる、ということから嫌われたようです。しかし、泰平の世となり庶民文化が爛熟してくると、武士は桜の散り際をそんなに気にしなくなったともいいます。その背景には、『仮名手本忠臣蔵』の名台詞、「花は桜木、人は武士」も一役買っているといわれています。

 その後、江戸末期に登場したソメイヨシノが全国に普及し、日本中に花見の風習が広まりました。ソメイヨシノは、エドヒガンとオオシマザクラの雑種とする説が有力で、染井村(現在の東京都豊島区)の植木屋が、「吉野桜」として売り出されたことから名付けらたようです。一斉に花開く桜の咲き方が、その年の豊作を連想させることから、花見には豊作祈願の儀式としての性格も持つようになりました。

■梅
 梅の花は、咲くことを「ほころびる」、散ることは「こぼれる」と表現されます。

 「綻び」とは、布が破れて、中身が外に現れることを表すので、縫目が解けて開く様子を、蕾(つぼみ)の開きそめる様子に擬え、蕾が開いて花が咲きはじめる表現として使われたのでしょう。

 対して、「零れる・溢れる」とは、水分が溢れ出る、流れ出る様子を言い、花や葉などが散るときにも使われますが、日差しにも用いられる表現です。特に梅の花は、枝先から順に落ちてゆく様が、水滴がだんだんと大きくなり、ぽとっと落ちるイメージと重なって、こう呼ぶようになったのでしょう。因みに、萩もこぼれると表現されます。

 現在でこそ、花といえば桜ですが、古来、万葉の頃は梅を指していました。その証拠に、『万葉集』に詠まれた植物として、桜を詠んだ歌は42首しかなく、梅は119首と萩についで多く詠まれています。きっと、中国での梅を愛でる文化に憧れたからなのでしょう。ところが、『古今和歌集』になると、桜の花の散り際を惜しむ歌が多く詠まれるようになり、次第に桜の花が日本の春の風物詩として定着していきます。

 梅の木は、古くから日本(九州北部)に自生していたという説もありますが、奈良時代以前に、大陸文化と共に遣隋使や遣唐使が、薬木として中国湖北省や四川省から持ち帰ったものとされています。日本の風土に良く合い、平安時代に広く普及しました。万葉の頃は白梅が、平安に入ると紅梅が愛でられていましたが、次第に日本人の感心は桜に移っていきました。

 梅は、古名では「ムメ」(万葉集ではウメ、平安時代以後はムメ)と呼ばれていました。梅という呼び名の由来については、「熟実」(うみむ=熟した実)が約転したというものや、中国音の「メイ」が転訛したというもの、更に、薬用として渡来した燻し梅「烏梅」(うばい)に由来するなど、諸説あります。因みに、「烏梅」とは、燻され黒くなった色から、「烏=カラス」の字が当てられものです。

 香りも良く、春を告げるように花開く梅は古くより愛され、江戸時代、文政年間になると盆栽作りが盛んになりました。また、異称も多く、「初名草」(はつなぐさ)、「春告草」(はるつげぐさ)、「香栄草」(こうばえぐさ)、「匂草」(においぐさ)、「風見草・香散見草」(かざみぐさ)、「風待草」(かぜまちぐさ)、「木の花」(このはな)、「好文木」(こうぶんぼく)、「花の兄」等々多く見られます。

 この中で、「好文木」の名称は、中国の皇帝が「文を好めば梅開き、学を廃すれば梅閉づる」と言った故事に因んだもので、「花の兄」とは、春を告げる梅を兄、秋を飾る菊を弟に擬えて呼ばれたものです。

■牡丹
 牡丹の花は、その終わりの様子から「崩れる」と表現されます。これは、重量感のある花弁が、バラバラと崩れるように散る様を表現したものなのでしょう。

 美人の形容として、「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」と譬えられる牡丹は、古くから中国で「花の王」として愛好されています。因みに、宰相が芍薬とされています。中国原産の牡丹は、元は薬用として栽培されていましが、その艶やかな美しさを「則天武后」が愛でて依頼、唐代以降から、花の王として愛好され、詩に詠まれたり描かれたりしています。

 牡丹は、清代以降、1929年までは中国の国花でした。1929年、当時の中華民国政府が国花を梅と定めたものの、中華民国が台湾に去った後、公式の国花は定められていません。現在、中華人民共和国は、「牡丹・梅・蓮・菊・蘭」の中から新しい国花を制定中であると伝えられ、2008年までには決定される見通しだということです。

■椿
 彩りに乏しい晩秋から冬に花を付ける椿は、寒い季節を代表する花です。椿の花の終わりは、花弁が散るのではなく、花ごと枝から落ちることから、「落つ」と表現されます。

 このように萼(首)から落ちる様子が不吉な事と捉えられ、入院のお見舞いに持参することはタブーとされています。また、首が落ちる様を連想させることから、武士が嫌った花とされていますが、この話は明治時代の風説であり、実際には、江戸時代には武士の潔さに譬えられ、武士の花として愛好されていたようです。その証拠に、将軍家を始め、大名や公家、庶民の間でも園芸の対象として品種改良が行われており、肥後六花の一つ「肥後椿」などは、その代表的な品種といえるものです。

 椿は、日本固有の花木で、日本の風土に適した性質の植物です。『日本書紀』には、「大伴家持」が白い椿を天武天皇に献上したと書かれており、古くは、公家や僧侶、位の高い武士しか手にすることが出来ない高価な花木でした。これが近世に茶花として好まれたことにより、多くの園芸品種が作ら普及していきました。

 椿と似て小ぶりの花を付ける花木に、「山茶花」(さざんか)がありますが、山茶花は花弁が一枚ずつ落ちことで見分けることができます。しかし、椿の中にも、「散り椿」などのように、花弁が一片づつ散るものもあるため、花の中央に黄色い雄しべ(雄しべの花糸)が筒状に纏まっているものが椿で、一本ずつバラバラなのが山茶花として見分けると区別がつきます。

 如何だったでしょうか。ここ暫く暖かい日が続いて、春はもうそこまで来ている気配に満ちています。この時期に降る雨を「木の芽起こし」といいますが、一雨毎にだんだんと春めいて、色んな花が咲き乱れることでしょう。

ヴィヴァルディ:ヴァイオリン協奏曲集「四季」を聴きながら・・・
ジュリアーノ・カルミニョーラ(バロック・ヴァイオリン)
ヴェニス・バロック・オーケストラ
アンドレーア・マルコン(音楽監督)


Re: Vol.210 桜散る、梅こぼれる、牡丹崩れる、椿落つ SERAV - 2007/02/08(Thu) 00:09 No.773  

  人、流水に鑑みるなくして、
              止水に鑑みる。

 荘子曰く、「明鏡止水」。

 春めいてきて氷が溶け流水となり・・・・。


鶯の宿 states - 2007/02/08(Thu) 13:26 No.774  

熊本動植物園に小さな、しかし手入れのよく行き届いた
梅園があるんです。
行けばつらつらと回遊しますが、
その中に鶯の宿と命名された一本の梅。
絵画のような枝ぶりの、そんな梅でした。

しかし本当に、日本語とは美しいですね。
一枚二枚、そしてひとひら二片。
梅ほころんで、そしてこぼれる・・。

お袋が昨夜、
「不都合な真実」の講演を世界中でおこなっている
アル・ゴアのことを言っておりました。
こんなことを発言したそうです。
「世界が直面する現在の‘危機’。
 その‘危機’という単語は英語においては
 ごく単純に書き落としますが、
 日本語における‘機’という文字、
 その意味の多彩さ深遠さを
 知らされたとき、私は日本に深い畏敬の念を持ちました。」

今日は随分と春めいています。
しかしながら妻も息子も、
ウイルス性胃腸炎にかかってしまいました。
なぜか私はピンピンしてるんですが・・・。
KEN1様もこの季節の変わり目、
体調管理に気を抜かずにおすごしください。

素敵なコラム、ありがとうございました。


明鏡止水 KEN1 - 2007/02/09(Fri) 19:51 No.775  

SERAVさん、返信ありがとうございます。

「明鏡止水」の境地。これに至れば、
全てを虚心で受け止めることができるでしょう。

しかし、今の季節のように春めいてくると、
直ぐに気も漫ろになってしまう私には、到底無理な心境です。

しかし、流れる水も、瞬間瞬間には止まっているわけですから、
その刹那を久遠に感じる感性を持ちたいものです。



鶯宿梅 KEN1 - 2007/02/09(Fri) 19:54 No.776  

statesさん、返信ありがとうございます。

紀貫之の娘「紀内侍」(きのないし)の故事は、
『大鏡』『拾遺和歌集』『十訓抄』に見えるお話です。

ところで、「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」といいますが、
これは、桜は切り口が腐りやすいので剪定は避け、
梅は切り口の回復が早いので、樹形を作るため、
積極的に剪定しなさいという教訓です。

動植物園の「鶯の宿」と名付けられた梅も、
そうして剪定され、見事な樹形となったのでしょう。
きっと名前の通り、もうすぐ鶯が訪れるのでしょうね。

ところで、以前「千字文」を紹介しましたが、
日本では「いろは歌」があるように、
英文にも次のような文章があるようです。

「The quick brown fox jumps over the lazy dog.」

何となく、味気ないですね。

危機「crisis」の語源については、
「Vol.90 虎穴に入らずんば虎子を得ず」
で若干紹介しています。ご参考までに。



Vol.209 フィンランディア 投稿者:KEN1 投稿日:2007/02/02(Fri) 22:44 No.767  
 森と湖の国「フィンランド」。この国で敬愛を受け、国民的英雄と讃えられている作曲家がいます。その人物は「ジャン・シベリウス」(Jean Sibelius)[1865年12月8日〜1957年9月20日]。祖国を愛したシベリウスの曲には、厳しくも美しいフィンランドの自然と対峙して生まれたような、深く内面性へ根差した作品が多く、清冽で澄み切った独特の作風で知られています。因みに、今年(2007年)はシベリウスの歿後50周年のシベリウス・イヤーに当たります。

 シベリウスの名前の綴りを見ると、「ヤン・シベリウス」と読めますが、船乗りだった彼の叔父が、フランス風にジャンと名乗っていたことに影響を受け、シベリウス自らもそう称していたと伝えられていることから、「ジャン・シベリウス」と表記しています。

■シベリウスの祖国フィンランドの歴史
 シベリウスの代表作の一つに、交響詩「フィンランディア」というものがあります。この曲が生まれていなければ、フィンランドの独立はなかったと言われるくらい、当時の政情に多大な影響を与えた曲とされています。

 北欧の国フィンランドは、常に他国に支配されていた歴史を持つ国です。

 1155年、 西隣の国スウェーデンは、北方十字軍と称してフィンランドに進攻し、フィンランドを統治下に置いてしまいます。1581年にはフィンランドの独立が模索され、スウェーデン王国を宗主国とする形でフィンランド公国の建国が宣言されたものの実情は変わらず、1808年まで、スウェーデンの一つの州として、政治的抑圧や経済的搾取を受け続けることとなります。

 フィンランドは地政学上の特性から、ロシアの北欧への侵攻を受けるため、スウェーデンの覇権とロシアの西進との板挟みあい、常に蹂躙され続けてきました。この両国の間にあって、フィ