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Vol.55 ブルックナー(その2−1) 日付:2002/01/20(Sun) 00:06 No.204 
 ブルックナー交響曲のCDに、よく「ハース版」とか「ノヴァーク版」、「改訂版」とか「原典版」等書かれているのを見たことがある人も多いと思います。前回も簡単に触れていますが、彼の交響曲には、本人もしくは弟子らによる作品の改訂が行われ、いくつもの稿が残っています。これは、弟子や指揮者にから演奏し難いとか、聴衆に受けないとか言われたり、あるいはブルックナー自らの欲求により改定を繰り返したためです。このため、戦前には、ブルックナーの与り知らない「改訂版」が演奏されることもありました。ところが、ブルックナーの意図に戻した「原典版」を創ろうということで、国際ブルックナー協会が発足され、その会長ハースが中心となって創られたのが「ハース版」です(一部、モーダーが創った「モーダー版」もあります)。その後、同協会の会長となったノヴァークにより、ハース版ではまだ不十分であるということで「ノヴァーク版」が創られることになります。ハース版は、ブルックナーの書いた楽譜から色々と選択して1つの曲を創ったのに対し、ノヴァーク版では、ブルックナーが何回も改訂したもの各々から1つづつ曲を創っています。

 それでは、ブルックナー連載の二回目は、ブルックナー交響曲の「版」の問題について、出版譜をもとに「形態」や「改訂」等を説明しながら紹介したいと思います。

 まず「形態」について説明します。「形態」とは、印刷等の資料の状態にこだわらず、ある時点での作品の「形」を示す概念で「・・・・年形」と表示しされています。従来のCDに表示されている「○○○○年版」とか「◇◇◇◇年稿」と完全には一致するものではありません。これらは、スコアに書かれている典拠資料の作成年や、一般に考えられている作曲年、さらにはスコアの出版年などを表示したものと思われます。
 具体的に例示してみると、グリーゲルの『諸形態』では『第7番』には「1883年形」と「1885年形」の二つの「形態」が挙げられていますが、資料としての自筆稿一つしかありません。確かに、1883年にブルックナーはこの作品を完成させていますが、その後、この自筆稿にはブルックナー自身や他人の手によって様々な加筆・修正がなされました。現在見ることができるのは、そういった訂正後の自筆稿であり、印刷された譜のため、「1885年形」の自筆稿から「1883年形」を復元することは非常に困難なことです。何故なら。糊付けされたものはそれを取り去れば以前の形を見ることが可能ですが、その糊付けが1883年の完成以前になされたものか、それ以後の修正なのかを確定しなければなりません。また、その他の多くの書き込みや訂正が、いつなされたのかも全て検証しなければならないからです。
 それならば、何故実際には存在し得ない『1883年形』という概念を持ち出す必要があるのでしょうか。それは、この時点でブルックナーが完成したのだと考えた事実を大事にするとともに、「ハース版」は、ある部分において「1883年形」に立ち返るということをしていますが、それが完全には「1883年形」に一致しないということを認識するためにも必要であると考えているからでしょう。

 次に改訂版について。一般的には、一度出版したものを再版するときに作者が修正等を加え、再出版することを意味していますが、ブルックナーの作品で、この意味に該当するのは『第3番』だけです。この作品では、「初版」が1880年に出版され、「改訂版」(第2版)が1890年に出版されています。
 しかし、ブルックナーを語るとき、この「改訂版」という言葉には別の意味が込められています。すなわち、ブルックナーの生前、あるいは死の直後に最初に出版されたブルックナーの自筆稿とは一致しない「弟子達が手を加えた」版という意味です。これは、自筆稿に基づいたとされる「原典版」という言い方に対応したものでもあります。したがって、弟子達の介入を極端に嫌う人たちは、「改訂版」では満足せず、あえて「改竄版」とか「改悪版」と見下しています。しかし、ブルックナーの場合、弟子たちの助言や介入を全く抹殺することは不可能なことで(例えば、『第3番』の第3稿『1889年形』は、シャルクの仕事を排除すると成立しません)、これらの大部分には、ブルックナー自身も出版に関与したり承認を与えています。そういった意味でも、「改訂版」というよりも、「初版」との意味合いものでしょう。

 現在では、これらの「初版」に対する再評価がされつつあります。全11曲の「初版」群の内、生前出版された『第1番』『第2番』『第3番』『第4番』『第7番』及び、『第8番』については、信頼できるものであると評価されてきていますし、『第6番』についても、ブルックナーの生前に出版準備が進めら、変更の幾つかはブルックナーに由来するものであるとの考えもあります。更に、『第5番』や『第9番』でさえ、編集を担当したシャルクやレーヴェが『第3番』や『第4番』でのブルックナーとの共同作業の中で、合意事項の延長線上で行なったものであり、ブルックナーがもし生きていれば、それらの成果に対して承認を与えたであろうとの意見を持つ人もいるほどです。また、『ヘ短調』(アンダンテのみ)や『0番』に対しても、それらが最初に出版されたという歴史的意義を認めようという考えもあります。

 ブルックナーの作品に多くの改訂版が存在するのは、彼の優柔不断な性格が、弟子の介入を招いたと憶測されている評論がしばしば見られます。本当のところはどうなのでしょうか。
 ブルックナーには、過去に「原典版論争」というのがありました。いわゆる「原典版派」対「改訂版派」の論争です。結果的には「原典版派」が勝利を収めるのですが、その論争の中で、色々なことが誇大に語られてきました。その弊害として、この様な風評がまかり通ることになったと思っています。すなわち「改訂版」が根拠のない版であるということの理由付けに、「弟子達がブルックナーの優柔不断な性格を利用して勝手にやったものだ」という論法を持ち出したのです。もしブルックナーが優柔不断な性格ならこの論法は成り立つわけですが、伝記に書かれている記述から見る限り、ブルックナーの性格はそうとは思えません。伝記では、ブルックナーの性格として、「高貴な人や目上の人に対しては必要以上に謙り、弟子や目下の者に対しては尊大な家父長的態度をとった」と記されています。ワーグナーとの会見記や皇帝謁見の場面など、まるで見てきたような情景が伝記では描写されていますが、多分事実だったのでしょう。また、弟子達を叱りとばす厳格なブルックナーを示す記述も残っています。「弟子の一人がブルックナーの楽譜を筆写しているときに不必要な臨時記号をあえて外して写譜したところ、ブルックナーに見つけられて、彼からひどく怒られた」との逸話もあるほどです。「臨時記号」について少し説明すると、臨時記号は本来1小節間有効です。ですから、小節の始めに出てきた臨時記号の付いた音と同じ音が同じ小節内でもう一度現れた場合、臨時記号は不要なのです。したがって楽典どおり楽譜を読む演奏者にとっては、かえってそのような不要な臨時記号があっては不安に駆られることになり、確かに良いやり方ではありません。しかしブルックナーは自身の楽譜の厳密さを保つため、あえてそうしていました。この逸話からも、かれの性格が優柔不断であったとは到底思えません。出版譜に関しても、弟子たちの思い通りにことが運ばれ、勝手なことされていたとはとても考えられないでしょう。きっと彼は、弟子たちの献身に対して感謝していたに違いないことでしょう。

 それなら、なぜ出版譜と自筆稿が著しく違うのかという疑問が残ります。それは、ブルックナー自身が理想としていたスコアの書き方では、演奏上に非常な困難を来すことをブルックナー自身が知っていたからでしょう。そのため、出版に当たっては演奏し易いよう、当時の常識に沿った弟子達の案を受け入れたのです。一方でブルックナーは、彼の理想としていたスコアの書き方を生涯貫いています。『第9番』においてもはっきりとそれは伺えます。ブルックナーは、演奏上の効果的な書き方を知らなかったのではなく、あえてそうしなかったのです。

 「原典版派」の奇妙な論法の例を挙げておきます。

 「しかしながらこのような譲歩も、演奏に関してだけ許されたのであり、印刷版の場合には決して許容されなかった。友人のなかでこの作曲家の明白な意向を知らなかった者は、たしかに一人りとしていなかったことであろう。たとえば『第4交響曲』の場合、彼は次のような指示を印刷すべきであると要求した。すなわち、大きな省略は、作品を甚だしく損なうので、絶対に必要な場合にのみ行なわれるべきである」

 ここに述べられている大きなカットとは、自筆稿そのものになされたものであり、両全集版とも、すなわちハース版でも、ノーヴァク版でも、これらは印刷されておらず、ハースの編集報告に譜例があげられているだけで、現在どのCDでも(恐らく)聴くことは出来ません。したがって、こういったことをブルックナーが書いたのなら、彼自身がその後、それを撤回したことになり、弟子の介入云々とは別の問題ではないでしょうか。
 以上のことから、現在は全く無視されている弟子達の関与した「初版」群のスコアに対しても、何らかの価値を見出し、再評価されるべきかもしれません。グリーゲル氏の『諸形態』もそういった観点から、これらを彼のリストの中に取り入れています。

 少し分かり難いと思いますので、ブルックナー交響曲の出版譜について具体的に述べてみたいと思います。
 このような楽譜に関する問題は、どんな作曲家にも付いてまわる問題ですが、特にブルックナーについては複雑です。その問題は、次のように重層化しており、相互に影響しあって非常に複雑な様相を呈しています。それらの問題を分類すると、次の三分野に分類することができます。

 ■「ブルックナー自身が試行錯誤し、完成後に加筆・変更を繰り返し、色々な形態が残されていること」
 ■「演奏や出版段階で弟子ら他人が協力し、音楽の内容にまで影響を及ぼしていること」
 ■「ブルックナー没後の研究・出版が、時代により変化していること」

 それでは、上記の視点から概要を示して、問題点を明らかにしてみたいと思います。

■ブルックナー自身が作成した(もしくは作成させた)資料
 前回も紹介したとおり、ブルックナーは非常に勤勉な人でしたので、一曲の作品を創るのに膨大な量の原稿を書き残しました。そして、作品の完成度を高めるため、一旦完成した後も何度も手を加えることを常としました。それらの資料は、「各地の図書館やブルックナー縁の修道院・博物館など、公的機関に保存されているもの、更には、個人のコレクションとして公表されているものなど、現在、その存在を知ることができるもの」、「個人が死蔵しており、その公開が待たれるもの」、「ブルックナーが生存中に廃棄したもの、または死後に焼失・紛失してしまったもの」の3タイプに分類できます。

 廃棄されたり、消失・紛失されたものについては、膨大な量のものが無くなってしまっていることは確かなようです。また、個人が死蔵しているものについても、絶無ではないと思われます。これらは仕方のないことですが、残されている資料を考えるに当たり、常に失われた資料についても考慮することは大切なことでしょう。
 公的機関に保存されているものについては、日の目を見ない資料が大量にあると思われるにも拘わらず、なお膨大な量の資料が現存しており、個々の資料の持つ意味、あるいはその重要性が吟味され尽くされていないのが現状です。ブルックナーの楽譜草稿、筆写譜等の資料の多くは、オーストリア国立図書館音楽部門に現存しています。それらの資料番号には、記号が付いており、以前は、「Mus.Hs.」(Codeと略記される場合も)と「S.m.」が併用されていました。これは、重要度によって分類されていたものと推測され、「Mus.Hs.」はより重要なものを、「S.m.」は比較的重要度の低いものを指していたようです。しかし、現在では全て「Mus.Hs.」に統一されているようです。「Mus.Hs.」(楽譜手稿の意味)とは、広く手書きの楽譜全てを意味します。すなわち、スケッチ、自筆草稿、筆写譜などを意味しています。

 楽譜資料は内容的に見て、おおよそ次の7タイプに分類されます。

(1)オーケストレイションされていないスケッチ
 普通、五線紙3段を使ってメロディーや和声の構造の概略が書かれ、作品の最初の構想・構造が示されているものです。「パーティセル」と呼ばれます。また、思い付いたアイデアを無作為に書き綴ったものもこれに分類されます。
(2)オーケストレイションされたスケッチや草稿断片
 試みにオーケストレイションされたものや、最終形から書き替えによって抜き出されたページなど、断片的なものが殆どです。
(3)自筆草稿
 少なくとも楽章単位で完成された作曲家自筆の原稿。
(4)筆写譜
 完成された自筆草稿を写譜屋を雇って筆写させたもの。人に捧げるために筆写させたものを『献呈譜』、印刷用原稿に使うために筆写させたものを『版下』と言います。また、その他、演奏のために指揮者用として筆写させたり、曲を知ってもらうために筆写させたり、予備のために筆写させることもあります。
(5)自筆入り筆写譜
 筆写譜を使って、作曲家が改訂を行なったもの。ブルックナーの場合はこういったケースが数多く見られ、殆ど自筆稿と同じレヴェルで考えた方がよいほど変更されているものもがあります。
(6)手書きパート譜
 演奏のために、自筆譜あるいは筆写譜から書き写された、それぞれの楽器のための演奏用譜面。改訂があった場合転記されるので、複雑な改訂の過程を解明するために非常に有用な場合があります。
(7)特殊なケース
 出版された印刷譜に改訂を加えたもの(『第3番』の第3稿の第1楽章から第3楽章まで)や、弟子が改訂したものにブルックナーが更に加筆したもの(同曲のフィナーレ)などがあります。

 これらの中で、重要なものは「自筆草稿」と「自筆入り筆写譜」でしょう。一口に「自筆入り筆写譜」と言っても、それは様々な様相を呈しています。すなわち、ブルックナーが「筆写譜」に少し手を加えただけのものから、何十ページにもわたって'改訂された自筆稿'との差し替えが行なわれた場合まで多岐にわたっています。しかし、どんな場合もブルックナーは「自筆入り筆写譜」を「真正の自筆草稿」としては認めなかったようです。その証拠に、三分の一も「改訂された自筆稿」が挿入された『第8番』のアダージョの第2稿ですら「遺贈稿」に含まれていませんし、その他、この種のスコアは、その重要度の如何に拘わらず、その成り立ちにより「遺贈稿」からは排除されています。

 更に、ブルックナーにおいては、「自筆草稿」や「自筆入り筆写譜」が2つ以上の形態を含んでいるといったケースが非常に多く見られます。すなわち、一旦完成した時点での原形態を「第1形態」とすると、そのスコアにブルックナーが更に随時加筆している場合があるからです。この場合「第2形態」、「第3形態」と進み、現在我々が認知出来るのは「最終形態」だけとなります。したがって、こういった場合の「第1形態」や「第2形態」の再現は不可能となるわけですが、ただ、「以前の形態」が「筆写譜」として現存し、それにブルックナーが加筆していない場合においてのみ「第1形態」あるいは「第2形態」の再現は可能となります。こういった事象の好例として『第3番』のワグナーに贈呈された「バイロイト贈呈譜」を挙げることが出来るでしょう。もし、これがなければ『第3番』の第1稿の完全な再現は不可能だったのです。
 また、「自筆草稿」や「自筆入り筆写譜」には、他人の加筆が見られる場合もあり、それがブルックナーの指示あるいは承認のもとに行なわれたのか、または他人が勝手に行なったのか、判断の難しいものもあります。『第7番』の「自筆稿」などはその好例でしょう。

 ここで、「遺贈稿」について補足しておきます。「遺贈稿」とは、ブルックナー独特の考えに基づいて、交響曲を含む彼の考えた主要作品の自筆稿を、ブルックナーの遺言に従うと言う形で、彼の死の直後に帝室並びに王室図書館(現在のオーストリア国立図書館)に移管されたものです。なお、帝室並びに王室図書館と言うのは、当時のオーストリア皇帝はハンガリー王をも兼ねていたことに由来し、普通は宮廷図書館と呼ばれます。1893年11月10日、ブルックナーは遺書を書き、彼の死後のことについて重要なことを幾つか指定しています。この遺書は全部で6項目にわたり、その中の第4番目の項目に自筆稿についての言及があります。では、第4項目の全文を引用します。

 「以下に掲げる私の作品、すなわち交響曲…-これは今までに8つを数え、第九番目のものはなろうことならやがて完成されるであろう…-、3つの大ミサ曲、弦楽五重奏曲、テ・デウム、詩篇第百五十篇、そして合唱曲ヘルゴラント、以上の作品のオリジナル手稿譜を、ヴィーンの帝室並びに王室図書館に遺贈する。また、同図書館の帝室並びに王室監督局には、これらの手稿譜の保管に配慮を賜るよう、切に懇願する。
 同時に、ヨーゼフ・エーベルレ商会は、同社が出版を引き受けた作品の手稿譜を適当な時期に帝室並びに王室図書館から借り受ける権利を有するものとし、また後者は、ヨーゼフ・エーベルレ氏と商会に対して前記のオリジナル手稿譜を相応の時期に貸与する義務があるものとする。」

 この遺書の作成には、弟子のフェルディナント・レーヴェ、シリル・ヒュナイス、弁護士のテオドーア・ライシュが証人として立ち会いました。そして、ブルックナーの死後直ちに(1896年11月26日)、この遺言に忠実に従って、ブルックナーの手元にあったオリジナル手稿譜は宮廷図書館に移管されました。これらは現在オーストリア国立図書館の音楽部門に保管されている資料番号Mus.Hs.19.473〜19.486に当たるものです。
 遺書の記載と、実際に宮廷図書館に移管された自筆譜を比較すると若干の相違が見られます。それは、『第3番』の初めの3つの楽章と『ミサ曲第2番』『ミサ曲第3番』が抜けていることです。これらは、出版のため等の理由で持ち出された自筆稿が、ブルックナーの死の時点までに、彼の手元に戻って来なかったためです。また、ブルックナーは遺書での記載を実現するため、自筆稿を次々と封印していきましたが、『第1番』については、「リンツ稿」と「ヴィーン稿」の両方を封印し、『第0番』の交響曲も封印しています。しかし、移管にあたっては『第1番』は「ヴィーン稿」のみ移管され、『第0番』については外されてしまいました。このことは、遺書の文言を忠実に実現した(指定された曲だけを、最終自筆稿1種だけを移管する)ものと考えられますが、ブルックナー自身は、全ての自筆稿を遺贈したかったのではないかとも推測できます。

 私たちは、遺書があり、そこには将来の出版のために遺贈された自筆稿を供するようにしたためられており、実際に遺贈稿が存在することから、それがブルックナーの最終意思であると考えますが、実際にはそんなに単純ではありません。それは次のような理由からです。

Tブルックナーは『最終形態』を遺贈するとは言っておらず、単に『自筆稿』を遺贈すると言っているだけである。
Uブルックナーは現行の出版譜(彼の生前出版されたスコア)が不適当なものであるとは述べていない(少なくとも、日本で出版されている伝記を読む限り)。
Vブルックナーは筆写譜や印刷譜に加えた後の改訂は無視して、遺贈を純粋自筆稿のみに限定している。
Wブルックナーはどのような形が未来に残されるべき最終形態であるかを述べていないし、また、そのような具体的行動を取ったという形跡も残っていない。

 上記理由について少し補足します。
 Uについて、デルンベルクは次のように述べています。「ブルックナーが、骨抜きにされた印刷版と対面したとき、どのような反応を示したかはわからない。というのは、このことを伝えうる立場にあった人々は、当然のことながらとても話すような気にはなれなかったであろうから。われわれが知っていることといえば、ただ、ブルックナーが次第に疑い深くなっていったということである。」と述べています。
前者については、今後、書簡集などから、ブルックナーの本音を探るべく研究を待たなければなりません。後者について、デルンベルクは『第8番』の演奏についての有名なヴァインガルトナーへの手紙、と『第9番』の筆写譜のカール・ムック(指揮者)への贈与の二点の実例をあげています。しかし、ヴァインガルトナーへの手紙の出版に対する懸念は、前後関係が不確かな訳であるためのものですが、ヴァインガルトナー自身が出版するわけではないので、筆写譜のスコアやパート譜を印刷用の原稿に流用することを見越した注意書きと考えた方が自然です(実際編集にあたる弟子はヴァインガルトナーとは別の考えを持っているはずです)。また、筆写譜をムックへ渡した際のブルックナーの言葉「この曲には何事も起こらぬように」は、楽譜の出版に対する懸念ではなく、演奏に関わる数々のトラブルを懸念しての発言と見る方が妥当でしょう。自筆譜はブルックナー自身が持っているものですし、それが印刷に使われるはずだからです。

 Wについて、『第7番』の自筆稿には、たくさんの他人の手が加えられていることはよく知られています。このことが、この曲の「ハース版」と「ノーヴァク版」の違いの内、大きなウエイトを占めています。それは、自筆稿そのものが初版出版の印刷用原稿として用いられたことからも伺えます。果たして、この他人の書き込みをブルックナーはどう思っていたのでしょうか?
 もし、他人の書き込みがブルックナーの意にそぐわないものならば、それらは削除してから封印すべきであったでしょう。また、それがあまりに多いのなら、注意書きを添えて印刷の際にそれらを無視するように指定すべきであったでしょう。アダージョのブルックナー自筆の打楽器のパート譜の貼付についても、それが最終的に不要であると決定したものであるなら、取り去ってしまえばよいはずです。しかし、現実にはそうはならず、逆に、他人の書き込みがブルックナーの最終意思なら、遺贈という行為自体の意味が不鮮明になってしまいます。このように、"現行の出版譜の不正を正す"という遺贈稿の役割が、不鮮明なものとなってしまっています。

 長くなりましたので、次回へ続きます…。

ブルックナー:「交響曲第3番」ニ短調‘ワーグナー’[ノヴァーク版準拠]を聴きながら・・・
ドレスデン国立管弦楽団
オイゲン・ヨッフム指揮


宮本 > 有難うございます。非常に興味深く拝読いたしました。自筆譜といえば、モーツァルトの流麗な、全く加筆・推敲のないものを思い浮かべてしまいますが、ブルックナー、正に勤勉実直ですね!しかしつづれ折りの如く検証がなされ、手を加えられてゆくという事は、かけがえのない価値を見出されているからなんでしょうね。しかし、演奏者・指揮者のスタンスも、重要なんでしょうね。
曲そのものに対して深い造詣と、思慮が求められますよね。版の選定に対しては。この間発売されたギュンター・ヴァント、北ドイツの5番(?)は、どちらを採用しているのでしょうか?今度CD屋さんに確認に行ってみよう!などと、思いました。 (1/21-10:59) No.205
KEN1 > 宮本さん、レスありがとうございます。
お酒に関するばかりでなく、自分を昂揚する分野にもその造詣を広げているマスターへ。お尋ねのCDは、まだ購入していませんが、恐らくハース版ではと思います(その内確認します)。ブルックナーの版が多数存在する理由としては、人々を惹き付ける魅力が在ったからに他ならないと思っています。 (1/22-11:45) No.206

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Vol.54 ブルックナー(その1) 日付:2002/01/13(Sun) 00:32 No.200 
 私の大好きな作曲家「ブルックナー」について、数回にわたり書いてみたいと思います。

 アントン・ブルックナー[Josef Anton Bruckner](1824年〜1896年)。オーストリアの作曲家でオルガン奏者、重厚な作風の交響曲やミサ曲などを遺した、後期ロマン派最大の作曲家の一人です。
 20世紀まで生きたグスタフ・マーラーの交響曲にも影響を与えています。ブルックナーの交響曲はあまりにも巨大であり、当時の音楽様式ともかけ離れていた為、理解されない事もありました。また、ブルックナー本人もしくは、他の弟子等による作品の改訂が行われ、同じ曲でも多数の異なった版が存在する事で知られています。現在では、原典版やハース版、もしくはノヴァーク版で演奏されていますが、昔のレコードでは、これらの以外の改訂版の演奏も多く、ブルックナーの書き残した本来の作品を尊重しようとする様になったのは最近のようです。

 ブルックナーは、1824年9月4日、オーストリアの田舎のオーバーエスターライヒ州アンスフェルディン(リンツ近郊)で生まれました。幼い頃から楽器を巧みに演奏するなど、音楽の才能を示していました。1837年、教会堂の聖歌隊員となり、兼ねてオルガンも演奏していました。このように教会音楽に接する機会は多かったようです。
 彼は、12歳に父親を亡くしています。そのため、聖フローリアン修道院に預けられ、非常な苦労を重ねて成人しました。この修道院での生活がなければ、彼は大作曲家として大成しなかったかもしれません。また、彼は大変な勉強家でした。非常な厳格さで知られたジモン・ゼヒターに師事していた時、ブルックナーがあまりに勉強するので、師から「君のように勉強熱心な生徒は見たことがない。あまり勉強しすぎて身体を壊さないよう注意しなさい。」といった手紙を貰っていたほどです。ブルックナーの創作活動の成果は、そのまま、彼の絶え間ない精進の歴史でもあります。
 彼は、72年間の生涯で150曲あまりの作品を残しています。その大半は、宗教的あるいは世俗的声楽作品であって、彼を代表する作品となった交響曲は全11曲、その他には少数の器楽作品が残されているに過ぎず、オペラや協奏曲は全く作曲していません。

 ブルックナーの生涯は、大まかに次の三つの時期に分けることができます。

■聖フローリアン時代(約30年間)
 12歳で父と死別したブルックナーは、生家のあったアンスフェルデンを離れ、聖フローリアン修道院に預けられます。助教師としてのヴィントハークやクローン・シュトルフでの短い赴任期間を挟んでの聖フローリアンでの生活は、彼にとって忘れることの出来ない心の故郷であったようで、遺言により彼はこの修道院のオルガンの下に葬られています。

■リンツ時代(約10年間)
 ブルックナーは、1856年、リンツの大教会堂のオルガン奏者となります。この時期は、彼が教会オルガン奏者として、またアマチュア合唱団の指導者として過ごした時期であり、これまで触れていなかったジャンルの音楽を積極的取り入れた時期でもあります。

■ウィーン時代(約30年間)
 主に、大学の音楽教授としてウィーンで暮らした時期で、多くの名作が作曲されました。

 ブルックナーの創作活動には、二つの大きな転換点があります。それは、他人からの啓発によりもたらされたものですが、勉強熱心な彼自身の欲求から発展した意味合いが強いものといえるでしょう。
 一つ目の転換点は、師ゼヒターに和声や対位法などの作曲の基礎的技術を学び(1855年〜1861年)、オットー・キツラーに音楽形式やオーケストレイションを学んだ(1861年〜1863年)ことによるものです。彼は、それまでの創作活動の中心であった声楽曲の作曲技術をより強固なものとするため、この二人に師事しました。その成果といえるものが三大ミサ曲です。この作品は修了の直後作曲されています。また、キツラーの教程の最終段階には、ピアノによるソナタ楽章の実践、多楽章室内楽(ソナタ形式を含む)の実践、オーケストラによるソナタ楽章(序曲)の実践、そして、交響曲の作曲という風に段階的カリキュラムが組まれていました。ブルックナーはそれらの課題に熱心に取り組み、それぞれに成果を上げています。キツラーは、交響曲について、当時のロマン派交響曲の一般的作曲法を教えましたが、ブルックナーは熱中して作曲し、『ヘ短調交響曲』を完成しました。彼の自信作であったこの作品によって、師のキツラーを越えてしまう結果となり、師からはあまり良い評価が得られなかったようです。しかしこの段階では、一生を交響曲創作に捧げるというところまでには至っていなかったようです。
 二つ目の転換点は、リンツの音楽愛好家マイフェルト夫妻によってもたらされました。彼はベートーヴェンの交響曲の素晴らしさをブルックナーに吹き込みました。彼の妻ベティーはピアノ名手でしたので、ブルックナーと彼女は、ベートーヴェンの交響曲を連弾で楽しみました。ブルックナーは、ベートーヴェンの『交響曲第9番』に特に感激し、この曲をオーケストラで聴くことを非常に熱望していました。そして、この作品が彼の後半生を決定づけたと言えるでしょう。すなわち、交響曲作曲を生涯の仕事として認識するようになったのです。したがって1869年の『交響曲0番』と呼ばれる『ニ短調交響曲』以降、全てのブルックナーの交響曲にはベートーヴェンの『第9交響曲』の影響を著しく示しています。

 ブルックナーの11曲の交響曲は、4つの時期に分けることが出来ます。

●模索期(1863年〜1869年)
 『ヘ短調交響曲』(00番)(1863年)
 『第1交響曲』(1866年)
 『ニ短調交響曲(0番)』(1869年)

 この時期の3曲は、ブルックナーのスタイルがまだ確立していない状態です。彼自身、どのような交響曲を作曲すべきか探っていた時期だったのでしょう。そういった彼が、ベートーヴェンの『交響曲第9番』という大きな指針を発見し、自分の進むべき道を見出していった時期です。

●確立期(1870年〜1876年)
 『第2交響曲』(1872年)
 『第3交響曲』(1873年)
 『第4交響曲』(1874年) 
 『第5交響曲』(1876年)

 この時期の4曲は、一旦進むべき道を見出したブルックナーが、堰を切ったように毎年のように新作を書き上げた成果であり、一作ごとに目覚ましい成長が見られる時期です。これらの巨大な交響曲の4作品は、ブルックナーの金字塔であるとともに、以降、彼を悩まし続ける原因でもありました。

●発展期(1879年〜1887年)
 『第6交響曲』(1881年)
 『第7交響曲』(1883年)
 『第8交響曲』(1887年)

 この時期の3曲は、成熟したブルックナーが交響曲作曲に新しい可能性を求めて、更に奥深く追求した苦闘のあとを示しているようです。これら3曲の中では、『第6交響曲』と『第7交響曲』は新しいスタイル構築を目指しているのに対して、『第8交響曲』は<確立期>の成果の深化を目指しており、幾分違った傾向が見られます。

●再模索期(1887年〜1896年)
 『第9交響曲』(1896年)

 『第9交響曲』は、彼の到達した最高の交響曲作曲技法を示すとともに、更に深く追求し模索し続けた跡をも示しています。それは、十分な時間がありながら、この作品を完成することが出来なかったという事実にも端的に現れています。普通の作曲家ならば完成期に当たるこの時期に、ブルックナーには、究極の完成というものをひたすら求め続けるという傾向が顕著に現れているようです。それ故、彼の作品は驚異的な深みに到達したといえるでしょう。

 ブルックナーは、彼の勤勉さにより完璧さを追求する性格から、完成作を何度も吟味し直すことを習慣とし、自身の絶えざる成長を図っています。それは、彼の生涯にわたって継続していますが(特に作品が演奏される時)、特に、次の二つの改訂期には、単なる手直しではなく、徹底的な作品の再創造を行なっています。そのため、彼の全交響曲は、一つの作品を何度も作り直したものと言う人もいるほどです。このことについては、従来他人の影響によるものと説明されていますが、それらはきっかけに過ぎず、あくまでもブルックナー自身の内的欲求から起こったことなのでしょう。

<第一次改訂期>(1876年〜1880年)
○全く別に書き替えた作品:「第4交響曲」
○以前のスコアを用いながらもかなり書き替えた作品:『第3交響曲』
○相当手を加えた作品:「第1交響曲」「第2交響曲」『第5交響曲』

 4連作の創作により驚異的な成長を遂げたブルックナーは、これまでの作品を冷静に見直し改訂を加えました。

<第二改訂期>(1887年〜1891年)
○全く別に書き替えた作品:『第1交響曲』『第8交響曲』の第1楽章とスケルツォ
○以前のスコアを用いながらもかなり書き替えた作品:『第3交響曲』『第8交響曲』のアダージョとフィナーレ
○相当手を加えた作品:『第2交響曲』『第4交響曲』

『第1交響曲』から『第5交響曲』に対しては、ブルックナーは興味深い対応の違いを見せています。
○「第1交響曲」:全て自分で改訂
○「第2交響曲」:全て自分で改訂
○「第3交響曲」:フィナーレのみ弟子の協力
○「第4交響曲」:全曲弟子の協力
○「第5交響曲」:弟子まかせ

 過去の作品の集大成である『第8交響曲』を作曲したブルックナーは、この作品を含めて『第4交響曲』以前の作品を再度見直しました。

 出版に当たっては、全ての交響曲は再度吟味され、自筆稿とは違った形で出版されています。なお、改訂については、次回以降に詳しく紹介します。

 ブルックナーの交響曲のスタイルは、全4楽章からなり、第1楽章と第4楽章が3つの主題からなるソナタ形式です。特に第1楽章では、第2主題がどちらかというと平安なものであり、第3主題として、主に金管が全面に出る力強いものです。
 第2楽章は緩徐楽章で(アダージョまたはアンダンテ)、主要楽節が副次楽節に挟まれて3回発展をしながら繰り返しています。
 第3楽章はスケルツォ−トリオ−スケルツォの反復です。前後のスケルツォは提示部−中間部−再現部からなります。ただし、『2番』の第1稿、8番、9番では、第2楽章がスケルツォ、第3楽章がアダージョとなっています。
 ブルックナーの曲はかなり長大ですが、このようにほとんど同じ構造を持っています。そのため見通しがよく安心して聞くことができます(しかし、逆に言えば、どの曲もほとんど同じともいえます…)。

 このような形態を持つブルックナー交響曲には、魅力ともいえるキーワード(必殺技)があります。以下に簡単に説明します。

◆「ブルックナー開始」もしくは「原子霧」
 第一楽章冒頭の弦の刻みに始まる独特の主題提示は、「ブルックナー開始」と呼ばれ、弦の刻みによりコードが進行する形態を持つため、「原子霧」という言葉で表現されることもあります。弦楽器でこのような刻み音でコードが進行する形態はまず見られません。いつまでもこの和音進行が続いて欲しいと思わせる美しい旋律です。美しさでは7番が気に入っています。
 デレンベルグは、その著書の中で、「同じ原子霧といっても4番と7番と9番ではすべて調性、ハーモニーが異なり、それぞれこれから始まる世界をきちんと暗示しているのであって、聴覚の豊かな人間なら原子霧のむこうに聳え立つ伽藍の姿が直ちに浮かび上がってくる」と言っています。

◆「ブルックナー・ゼクエンツ」(繰り返し)
 楽想が盛り上がって頂点に達してゆくところで、同じフレーズをどんどん繰り返してしまうという、荒削りながらも圧倒的なパワーで聴衆を威圧するブルックナーの真骨頂の一つです。これと似た手法は、ショスタコービッチも5番や7番で用いており、劇的な効果を発揮しています。『7番』の第一楽章110小節。『8番』の第一楽章に、その好例が見られます。

◆「ブルックナー休止」
 楽想が綿々と綴られ、やがて勢いを失ってくると、ブルックナーはなんと"休んでしまう"という反則技を使います。疲れたら休む、元気を取り戻したらまた再出発、この手法を使えばどんなに曲が長くなろうと大丈夫です。この休止は、彼がオルガン奏者であることに起因していると思われます。当時のオルガンは、危機で空気を送る機構を持たず、人力の鞴に頼っています。また、階調の調整等、曲に間を置くこがあった経験がこのような手法を取るきっかけとなったのかもしれません。

◆「さび」または「お祈り」
 『4番』の第1楽章中間部、『5番』の第1楽章の中間部に、美しいフレーズが挟み込まれています。この「さび」の後に後述の「ブルックナー休止」をされるとやるせない気持ちになってしまいます。
 後期の『8番』『9番』になると、神への祈りへと変貌しているようです。『8番』第3楽章129小節目からのバイオリンのフレーズは、とても切ないものです。
 これら一連の「さび」の完成型として、『9番』第3楽章の29小節目からの「生への決別」が挙げられます。ここで下降するチューバの四重奏によってブルックナーは「死」と「神の臨在」を謳い上げ、自らの持つ芸術の全てを神に捧げたように感じられてなりません。

◆「ブルックナー・ユニゾン」
 例えば、『7番』第2楽章の第一主題。全部G線上で第一バイオリンは思い切りユニゾンしています。また、『8番』第4楽章の練習番号N(183小節目)からの弦のユニゾンはとても力強く、オーケストラが一体となった演奏は、非常に聴衆に迫ってくる迫力を持っています。

◆「ブルックナー・コーダ」
 ブルックナー交響曲の素晴らしさを語る上で、その曲の終わり方を挙げないわけにはいきません。『4番』第4楽章において、すでにブルックナーは自らのコーダのあり方を完成させたといえます。コーダにおけるブルックナーの手法は、主題の再現が終わってから「ブルックナー休止」をした後、おもむろに弦の分散和音が始まり、そこに主題のモチーフを切り取って、まず木管が、次いで金管が会話を繰り返すうちに、参加する人数を増やしいき、やがて「ブルックナー・ユニゾン&ゼクエンツ」状態に至り、フルオーケストラによるパワー全開の演奏をもって終わるものです。

 ブルックナーの魅力を堪能するためには、自分からそれを感じ取ろうと、心を落ち着けて待つ動作が要求されるのかもしれません。ブルックナーの伝記作家デルンベルクは次のように言っています。

 「ブルックナーに対しては、われわれは単なる精神の集中以上の何ものかを、さらにあらゆる理解ある音楽評価に必要な、なにものかを必要とするのである。それゆえある人々(ブルーノ・ワルターは自分がその一人であると考えている)に対しては、彼らがある年齢に達するまではブルックナーがその真の姿を完全には明かしてくれないということも、おそらく理解できるであろう。」

 また、演奏についても、指揮者の曲認識が重要となっています。例えば、NHK交響楽団の名誉指揮者を長く務めたマタチッチ氏の、特に1984年3月の交響曲第8番の名演は語り草となっていますが、当時、NHK交響楽団の首席チェロ奏者であった徳永兼一郎氏が、新潮社文庫「ブルックナー」(土田英三郎著)のエッセーの中で、マタチッチ氏が次のように語ったと書かれています。

 (交響曲第8番第3楽章Adagioについて)「この曲は速すぎても、遅すぎてもいけない。このAdagioは、速度ではなく表現を示しているのです。」
 「ブルックナーを理解する上で絶対必要なことは、急がせる、急き立てるということが音楽にないこと。苛々して駆り立てることがあってはならないが、テンポが澱んだり、音楽の生命力がなくなり透明でなくなったら、それはもうブルックナーではない。」
 
 この言葉は、ブルックナー指揮者の共通認識とされており、これを自らの演奏の中で実践できるか否かがブルックナー指揮者と呼ばれるか否かの分かれ道と言えるかもしれませんね。

ブルックナー:「交響曲第8番」を聴きながら・・・
ウィーン・フィルハーモニー交響楽団
ハンス・クナッパーツブッシュ指揮

宮本 > 有難うございます!先日、故朝比奈隆氏の追悼番組が放送されました。妻に頼んで録画してもらいまして、3回ほど、見ました。その番組の最後に、2000年5月N響で、9番、ハース版を振る氏の姿がありました。「未完」であるというこの交響曲のなかに、朝比奈隆の永遠性を感じ取った方も、きっと、いらっしゃることでしょうね。ワルターと、マタチッチの言葉は、私がこれから接してゆくであろう「ブルックナー」との「心の持ち方のありよう」を呈示してくれているような気がしました。KEN1さんに、5〜6年前に頂いた歴史的録音「クナッパーツブッシュ・8番」は、大事に取っておきたい、今は触れずに「気にしておきたい」CDです。何度も聞いていますけれども、一人の芸術家の死が契機となり、「ブルックナー」像が私の中で刷新されました。ワーグナー、ベートーベン、そしてブルックナー。この三人の作曲家は、私の人生の傍らにいつもありそうな気がしています。ブルックナーの世界へは、このコラムから、足を踏み入れてゆきます!次回も、非常に楽しみにしております。 (1/14-10:09) No.201
KEN1 > 宮本さん、レスありがとうございます。朝比奈隆さんの追悼番組、見られたようですね。未完成の『第9番』を振るマエストロの姿に、思わず涙しながら拝見していました。
ブルックナーの音楽は分かり難いと云われますが、それは、澄明で神々しい響きを、受け入れる心もって接しないと理解することができないからかもしれません。きっと、聴くというよりも、「身を浸す」といった行為が相応しいのでしょうね。次回のコラムでは、改訂版や形態など、ブルックナーを知る上で不可欠ながら難解な問題を、2回にわたり説明したいと思います。非常に複雑ですが、懲りずに読んでみてください。
(1/14-16:15)
No.202
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Vol.53 飛鳥とペルシア - 飛鳥の石造物 - 日付:2002/01/06(Sun) 00:18 No.197 
 奈良県の飛鳥地方には、石人男女像、猿石、二面石、亀石、益田の岩船、酒船石、須弥山石などの不思議な石造文化が存在します。古くから諸説があり、誰が何のために造立したのかはっきりわかっていません。
 昭和51年代に入って、井本英一氏、伊藤義教氏らがペルシア文化説を唱え、松本清張氏も、小説『火の路』でペルシア説を唱え、飛鳥の石造物の謎解きの一つの方向を示しています。

 これらの石造物は、何のために造られたのでしょうか。有力な説として、斉明天皇(皇極天皇)の両槻宮(ふたつきのみや)の付属施設とする説があります。そこでは多数の工人らにより酒船石がつくられ、亀石、猿石、二面石、道祖神石、須弥山像石の類が彫刻されたと主張されています。ところが、両槻宮は造営不能で中止となっています。当然、これらの石造物も未完成のまま放置されました。では、何故にこれらの石造物は後の利用価値がなかったのでしょうか。一つには未完成ということもありますが、後になればなるほど、それが時代感覚と合致せず、馴染めない石造物に映ってきたからでしょうか。更に、ペルシア人らしい者の渡来の記事が『日本書紀』に見えることから、外来していたイラン人が造ったのではないかとの推測もあります。

 まず、飛鳥の石造物における共通した特徴を列挙してみます。

 (1)これらの石造物について、古事記・日本書紀などの古典に記事がない。(※例外は須弥山像石)
 (2)制作年代は七世紀中頃と思われる。
 (3)石の材質が、付近の古墳の石槨(せっかく)や石棺などに使用されている凝灰岩よりも硬い花崗岩である。
 (4)彫刻などの技術は稚拙である。
 (5)未完成のものが多い。
 (6)製作目的や用途がはっきりしていない。
 (7)飛鳥地方に集中している。

 それでは、諸説を基に、その起源を探ってみたいと思います。

■石人男女像のルーツ
 石造物を作ったのは覩貨邏(とから)人とする説があります。
 彼らは、半島情勢の激変のために、彼らが急遽故国へ立ち去ってしまい、石造物が取り残されたと考えられています。覩貨邏については一般的にはビルマ、若しくはタイと考えられていますが、この石造物を造った覩貨邏人は、耽羅(トムラ又はタムラ)と称して、継体紀に一度名前の出てくる済州島と考えられています。この島に多いトルハルバン(石爺)と呼ばれている石偶は、石人男女像のルーツと考えられ、その理由としては、トルハルバンの形状が、飛鳥の石人男女像の男の鼻とそっくりなのことが挙げられています。その他、額に刻まれた深い皺の形、それに頭に冠る折り返しつきの帽子、妙に変なところがよく似ています。以上のことから、飛鳥の石人男女像は覩貨邏人、即ち済州島の石工が造ったものと断定しても間違いないでしょう。

■猿石のルーツ
 この奇怪な猿石がどうして造られたのか、その説を紹介します。
 まず、韓国をルーツとする説を紹介します。この説は、韓国の寺跡に猿石に似た石造物が二体置かれているところからきています。韓国全羅北海益山郡金馬面(クムマミヨン)の、弥勒(ミルクサ)寺跡の石塔の四隅には、飛鳥の猿石に似た石造物が置かれています。その目的は、邪悪なものの侵入から塔を守るという、呪的な意味合いがあると解釈されています。飛鳥の猿石との違いは、韓国の弥勒寺の石造物には、飛鳥の猿石のように背面などに別の顔面を彫っていない点です。弥勒寺の創建は、七世紀の中期から後期と推定され、飛鳥の猿石は、渡来の百済工人によるか、あるいは百済工人からの示唆によって日本の石工の手で彫られたかいずれかと考えられています。つまり、百済に猿石の祖形が求められるとし、飛鳥の猿石は欽明天皇陵古墳に辟邪(へきじゃ:邪気を払う)の目的で配置されたという説です。

 次に紹介するのは、祭祀における仮面を起源とする説です。
 この仮面を起源とする説では、それぞれの石像は別々のものではなく、それぞれが役割を担うドラマを演じているのではないかと想定されています。性器を露出する全身像(山王権現)を「人」の表現とすれば、鬼を背にしない坊主頭の像(僧)は「僧侶」、帽子をかぶる像(男)は身分の高い人で「翁」、他の石像は身分の低い「農民」というような性格を想定しています。鬼を背にしない僧形の石像は、鬼を排する神通力をもつ聖職者で、このドラマの主人公かもしれません。つまり、祭祀の場で演じる歌舞戯(かぶぎ)のようなもので、人の奇怪な面相は、性格を極端にデフォルメした仮面の可能性もあるとのことです。

 三つめの説は、伎楽(ぎがく)を起源とする説です。
 この説では、猿石が仮面の可能性があるとする想定を更に進めて、飛鳥時代に中国から伝わった仮面劇「伎楽」との関係に導いています。女の背面は、鳥のような表現をしているので伝説の霊鳥「迦楼羅(かるら)」、山王権現の正面は太った滑稽な男で「崑崙」に、その背面は「獅子」に、僧は「力士」に、男の正面は頭巾を被っているので「胡人」を表しているとし、「酔胡王」に当てはめることができるといいます。

■猿石・亀石の役割
 有名な石舞台は、その場所から蘇我馬子の墓といわれています。他の石造物にも、その置かれた場所に意味のあるものと思われます。では、猿石と亀石の置かれた場所には、どのような意味合いがあるのでしょうか。
 飛鳥と檜隈(ひのくま)地域を、その用途として区分すると、寺院や宮殿、つまり現世の人々の活躍する地域と、斉明天皇以後の「殯の宮」となる地域に分けて考えることができます。檜隈地域を墳墓の地域とし、更に、それを百済の影響で、百済の王家の墳墓を模して造ろうとしたのが、斉明天皇であるとの説があります。これは、当地を天皇家にとっての黄泉の世界とし、その東南に宮殿や寺院の現世の世界を配してたものとの説です。そして、この二つの世界の境に猿石や亀石を設置し、現世の地域と来世の地域を画する結界の場所を示すために、黄泉の国との境を示すものとしてつくられたと考えらています。
 境界の標識として亀、蛇、蛙、男女神像などを立てる習俗は、ギリシア、ペルシア、インドなどにも見られるもので、フレーザーの『金枝篇』によると、各地の古代民族にも在ったことが伺ことから、飛鳥の石造物にも、そのような意味があるのかもしれません。

■亀石のルーツ
 亀石の名前は、亀に似ているからといわれていますが、本当に亀の造形なのでしょうか。上記の説のように、その場所が意味のあるものとしたら、きっと造形にも意味があるものと考えられます。
 亀石は、本当に不思議な形をしています。現代人から見ても、まるで異次元の存在を想像してしまう造形です。亀石は、昔から亀を象ったものされ、広くその名で親しまれています。しかし、この「カメ」を同時に「カミ」であるとする説があります。同様の意味を持ったカメ石やオカメ石が日本の各地に現存し、また、そうした地名も多く残っていることも根拠の一つとされています。
 太陽崇拝に関わる祭儀に、亀の造形が主要な役割をつとめる南国の風習が日本に伝来したと仮定すると、大きな海亀を見たことのない内陸の人間にとって、それは想像の動物として増幅され、飛鳥の亀石のような姿と大きさを与えられる結果となったのかもしれません。彼らにとってのカメ石とは、日常的に馴染みのある川亀とは姿も形も異なったカミ石となり、不思議な姿形をした亀形の巨石はそうしたルーツをもつものではなかったかと考えられています。

 補足ですが、亀石には、次のような伝説があります。
 昔。飛鳥の河原の鯰と、当麻の蛇が喧嘩しました。結果は鯰の負け。そのため河原の水を全て当麻の蛇に取られてしまいます。その結果、川原に住んでいた亀が死に絶えてしまいました。数年後に、村人は亀を哀れに思い、亀の形をした石を刻んで供養しました。鯰も蛇も小流や沼地と縁深い霊物であり水神です。亀石は、日照りに悩んだ飛鳥朝廷が、水神を祭った祭壇であると村人には伝えられています。亀石は未申(ひつじさる:南西)の方角を向いていますが、もし西向となり当麻を睨む時には、大和平野は泥海になると謂われています。

■益田の岩船のルーツ
 益田の岩船には二つの方形の穴が掘り込まれています。この穴の目的は何なのでしょうか。この穴を巡っては様々な説があります。
 まず、この石の名称であるように益田池の石碑を建てた時の、 弘法大師の筆になる碑の台石とするもの。
 次に、この穴に火葬骨を納めたとする説。この説は、更に二種に分けられ、一つはは、現状のまま、石の穴を墓とするもの。その第二は、この巨石を山裾側に90度回転させて横穴式石槨(せっかく)とする説です)。 そして最後に、古代の天体観測に用いられたとする説です。

 益田の岩船のルーツとして、ゾロアスター教の拝火壇・拝火神殿ではないかという説があります。
 この石の基壇状に並ぶ二つの方形孔から、イランのナクシェ・イ・ルスタムやパサルガダエにあるゾロアスター教の拝火壇に結び付けてる説です。益田の岩船の上部平面で東西に並ぶ二つの方形孔を、拝火壇の火を燃やす用途であったと考え、岩船全体がゾロアスター教の拝火壇と基壇を兼ねた石造物とする説です。

 現在は、益田の岩船自体を未完成の古墳とする説が有力です。
 調査の結果、頂上部がほぼ完成し、南北の双穴が1.3mまで彫り進んだ段階で節目の亀裂が西穴に達していると判明し、この状態のまま加工を進行し北に倒せば、亀裂部分で墓室が離反してしまうため、急遽中断したものであると考えられています。あまりの巨石のため現場でそのまま放置され、代わって牽牛子塚(けんごしづか)古墳が造られたと推測されています。

 兵庫県の播磨地方に、生石(おうしこ)神社という神社があり、この御神体は、石宝殿(いしのほうでん)と呼ばれる巨石です。この巨石と益田の岩船には、距離は離れているのにも関わらず類似したところが多い石造物です。
 時代的にも、その形状でも、この石宝殿と最も共通性を持つと思われるものが、益田の岩船と牽午子塚古墳とされています。この三者は、それぞれ三様の石材で作られていますが、共に巨大な石をそのままの全体で一つの石造物を作っていることと、その規模が大略似たものであるという点が大きく共通しています。
 また、その加工状態からして、90度引き起こして使用するものだったらしいとも考えられています。岩船を90度引き起こした場合、上面を正面とすると、上には屋根があり、その下端には一段段が設けられ、あたかも屋根の廂を思わせる形に見えます。間の溝が別に塞がれていれば、入り口か、あるいは牙象(格狭間)とも見られるかも知れないとのことです。方形と矩形の違いこそあれ、石宝殿と岩船の外観は、まさに同じ物・形を意図した造形とみて間違いと考えられています。
 また、この岩船で現在側面となっている部分は、上方の四分の一までが加工されています。本来、半面だけ加工し、引き起こして、前面の両側に壁状の構造をとり付ける予定だったかもしれないとも推測されています。石宝殿も益田岩船と同様、巨大な家形をした横口式石槨(せっかく:室内で棺を納める石造施設or古墳時代の小形の石室や石棺)だったのでしょうか。

 このような巨石をわざわざ加工しながら、何故完成させなかったのでしょうか。そこには、飛鳥の権力者の衰退の歴史が関係していると思われます。
 石宝殿が、おそらく飛鳥時代のもので、時の権力者により計画されたにも関わらず、放棄せざるを得なくなったという条件を考えた時、斉明天皇の道楽というよりは、蘇我氏が一定の目的を持って作らせ、その滅亡とともに放棄されたものと考えらます。古代国家の最高権威の座を、最後まで大王家と競った蘇我氏が、新しい権威を誇示するため石宝殿を造らせ、益田の岩船も同じような意図で、竜山石を遠くから運ぶ力のあることを示すと同時に、硬質の花崗岩を加工する新技術をもっていることを誇示するものとして造られたものと推測されています。

■酒船石のルーツ
 酒船石については諸説がありますが、そのいくつかを紹介します。
 1992年に、版築状に積んだ土壇状の遺構と、それをめぐる石垣状の遺構の一部が調査され、酒船石の据え付けは、その整地土の上にのることなどから、斉明天皇の「狂心の渠」(たぶれごころのみぞ)関連の遺構ではないかと注目されています。
 狂心の渠とは、土木工事を好んだ斉明天皇が、3万人を使って溝を掘り、そこに200隻の船に石を積んで浮かべ、7万人を使って石の山を造りましたが、造るそばから崩れ、人々が、この無駄な大工事を誹った故事に由来します。『日本書紀』「斉明紀」に「狂心の渠(みぞ)、功夫(ひとちから)を損(おと)し費す」との記述が残されています。

 酒船石の使用目的については、これを製薬用に使用されたのであろうという説があります。古代中国の製薬、薬剤法は、ある薬の材料を配合するのに、それぞれを臼で搗いて粉末にし、これを各分量に応じて混ぜ、丸薬の場合は、白密(蜂蜜)で練るという行程を経ています。つまり、酒船石の円形凹所を、薬を搗くための石臼ではなかったかと考えているようです。その他、ペルシアの聖なる酒「ハオマ酒」をつくる装置とか、水占いの装置であるという説もあります。

 別の説では、生贄台ではなかったかという説もあります。
 これは、最上部の半月形の皿と主軸の溝の交わる所に後頭部を当てるようにして仰向けに寝てみると、腰から下が真ん中の小判形の中にすっぽりと落ち込み、そして両手を左右に大の字に伸ばすと、枝溝に腕がすっぽりと納まったまま手の平は左右の円形皿の中にきっちりと入るとの主張からです。この事実を基に、日本における生贄の風習を調査し推論されています。

 最近では、酒船石のすぐ北側に「亀形石造物」が発見され、この石造物との関連が指摘され、これも斉明天皇の「両槻宮」の遺構ではないかと考えられています。

■「水の都」飛鳥京
 1999年、飛鳥京の宮殿跡の北西に池の石垣跡が発掘されました。これは、宮殿付属の庭園「苑池」の遺構ではないかと考えられています。苑池というのは、古代中国や朝鮮の都に造られていた庭園で、飛鳥京にも、その影響を受けた庭園があったのではないかと考えられ、また『日本書紀』にも苑池の記述が残されています。また、亀形石造物は、宮殿のすぐ側に位置することから、天皇が儀式を行った祭祀場であるという考えが有力です。苑池遺跡との関係から、古代の天皇の権威が水を支配することにより支えられていたとすると、この場所は儀式を行う神聖な水の空間だったと考えらています。

 現在も続けられている発掘作業によって、苑地の重要な構造と機能がわかってきました。苑地の水は、張り巡らされた水路を通って宮殿の隅々まで潤していたと想像されています。この発掘から、「水の都」としての新しい飛鳥京の姿が浮かび上がってきました。
 レーザー探査機による調査からは、池の大きさは東西70m、南北200mと推定されています。池の中央には大小二つの島があり、北側の島は、土橋で結ばれていました。中国や朝鮮の苑地では、木造の橋で繋げられていたものは見つかっていますが、土橋のものは日本独自の構造のようです。
 また、土橋の北側の池の水深は4mもあったこともわかっています。これは、苑地を地下水脈と繋げることにより、地下伏流水による涵養量をうまく利用した構造であったもののようです。この機構には、池の水を一定量保つばかりでなく、飛鳥京に張り巡らされた水路の水を苑地に排出する事により、水害を防止していたものと考えられています。このことは、土に含まれていた植物プランクトン(珪藻類)の調査から、池には澄んだ水が湛えられ、ゆっくりと循環していたことからも裏付けられています。
 その他、発見された木管の記述からは、薬草類が植えられていたこともわかっています。実際発掘によって、桃や杏、梨などの種が多数見つかっています。

 苑地の位置は、斉明天皇が両槻宮を作った多武峰(とうのみね)の西北麓の谷地形部にあります。両槻宮は天宮(あまつみや)と呼ばれ、これは、道教の仙人の宮のこと指します。つまり、神仙境とよばれた理想郷を見立てた宮なのです。両槻宮が仙人に関係する道教寺院であることは、『日本書紀』に「観」(たかどの)と表記されていることから道観のことを指します。現在の中国にも多くの道観があります。ここで発見された亀形石造物は、遺構の位置から考えて、両槻宮との関係を考えるのが最も自然であり、中国の文献にも「大亀が背に蓬莱山を負い、手を打って蒼海の中で戯れる」との記述があることから、多武峰は、天宮=蓬莱山になぞらえることができ、その麓にそれを支える大亀を配置したと推測されています。

 古来より水は、都の生活を支えるだけでなく、天皇の力を表す重要な役割を果たしていました。飛鳥京の石の遺跡は水の都を造り出す為のものだったと思われます。都の玄関口にあたる「石神遺跡」には「石人像」「須弥山石」など、水を噴出する石造物が並べられていました。これらは水の都の支配者への畏怖を抱かせる演出だったと想像されています。

 酒船石と呼ばれるもう一つの石造物があります。
 1916年(大正5年)、明日香村岡の字「出水」の水田から二つの石造物が発見されました。平らな形のもの(長さ2.2m、幅1.7m)と、滑り台のようなもの(長さ3m、幅0.3m)。二つの石を組み合わせて、水などの液体を流したらしいことはわかっています。この「出水の酒船石」と名付けられた石造物は、現在、京都市東山の野村別邸・碧雲荘にあります。

■石人像・須弥山像の記録。
 前述のとおり、石人像・須弥山像は、水の都の演出する噴水施設として置かれたものと考えられています。この二つは他の石造物と違い、書物にその記述が残されています。
 石神の石人は、道祖神像とか石人男女像、石造男女像など呼び名の方は不統一ですが、造られた時期や事情は文献により比較的わかっており、他の飛鳥の石造物と比べると例外的ともいえます。
 『日本書紀』「斉明紀」の記述をを見ると、石人像とペアをなしている須弥山像を記す第一として、斉明三年の条には、覩貨邏(とから)人の饗応。第二には、同四年の条では、陸奥(みちのく)と越との蝦夷(えみし)の饗応。第三には、同六年の条では、粛慎(みしはせ)四十人の饗応といった具合に、遠来の賓客との饗応が主要な目的となっていたことが伺えます。つまり、飛鳥に招いた外来人や、蝦夷などの夷狄に対して、天皇の威厳をみせつける目的で、都の玄関に造られたもののようです。
 別説では、『日本書紀』によると、須弥山石は、推古天皇の二十年(612年)に、百済から渡来した路子工(みちこのたくみ)、別名、芝耆麻呂(しきまろ)が造ったという記述がり、その名を古代ペルシア語で道路工事の権威や技師を表す語と推測して、ペルシア古典の世界の中心に聳える霊峰を型どったものとも考えられています。

■ゾロアスター教の拝火壇説
 最後に、飛鳥の石造物に関して、松本清張氏が唱えている、「ゾロアスター教の拝火壇説」という大胆な仮説を紹介します。氏は、小説『火の路』の中で、斉明三年(657年)、都貨羅国(今のイラン)から、男二人、女四人が飛鳥を訪ねてきており、彼らを含め、飛鳥にきたペルシア人の話に心酔した斉明天皇がこの巨石建造物を造らせたと考え、上面の二つの穴は、拝火用の火と水を入れるものだったと仮説を立てられています。(後に、斉明天皇を蘇我馬子に修正されています)。
 以下に、この小説で展開されている論について要約した、清張氏自身の単文がありますので引用します。

「古代イランと飛鳥」松本清張

 数年前に連載した「火の回路」の作中人物に飛鳥の「謎の石造物」は古代イラン(ペルシァ)のゾロアスター教と関連があるとの「仮説」をたてさせた。小説ではあるが、述べた「仮説」は作者白身のもので、それが捨てがたく、関連取材を求めてイランに行き、それなりの収穫を得たと思うのでその一部をここに書く。 アケメネス朝(前700〜前300)のペルセポリスの柱頭飾りにライオンやワシが背中合せになっている彫刻はよく知られているが、柱頭飾りの機能をなくせば直接背中合せとなり、この形の人物像が飛鳥の道祖神像であり、二面石である。
 (中略)橘寺の近くにある亀石は、未完成品だが、顔の先の三角は鳥のクチバシに、眼もこれから丸い形に、背中のもり上がりもこれから両翼や鳥の頭を、口もあけた形に作るつもりであったのだろう。亀石のらう側にうずくまった人間と螂子の葉のような文様がある。人間の方は、ササン朝浮彫りにある帝王に踏まれた被征服民の姿そのままで、仏教彫刻では四天王に踏まれる邪鬼となる。四天王は毘沙門天を四つの威力に分散したもので、毘沙門天そのものはイランのミトラ神なのである。また、椰子の葉の文様は、ペルシア彫刻に多いアカンサスを写したものに違いない。
 ペルセポリスに近いナクシェ・イ・ルスタムの拝火壇の近くには摩崖横穴墓が多く、その近くに拝火壇に対して水の女神の祭壇「水の石」とよばれる施設がある。方形の穴に雨水がたまり、溌れて横にあるミゾを伝わって崖下に落ちるようしくまれたアケメネス朝期のもので日本の益田岩船や加古川付近の「石の宝殿」のミゾも同じく水の落下用と思われる。益田岩船は「水の石」的なもので、「石の宝殿」も同じ目的で作らせ、飛鳥に運ぶつもりが、急に不要となり、現在地に残されたものだろう。須弥山石と道祖神像が噴水施設をもっているのはよく知られている。噴水の石像は中国、朝鮮にもない。噴水施設は砂漢の国の発想である。チェヘル・ソトゥーン宮殿跡にはライオンの口から噴水がでる施設がある。17世紀の宮殿だが、復古主義をとった王朝のものだから、アケメネス王朝やササン朝にも籔水施設をもった石像があったに違いない。飛鳥はこうしたイランの流れを取り入れたといえるだろう。
 イランから飛鳥の経路はよくわからない。シベリア経由と南海ルートが考えられるが、発掘調査が進んでいないので、今のところ証拠はない。だが書紀の斉明紀には、両ルートにあたる地域から異国人が上陸した記事がある。石造物は誰が何のためにつくったか、以下のように推測する。
 蘇我馬子が飛鳥の自邸に泉池をもうけた時(推古期)・須弥山石・道祖神像・二面石・猿石などを装飾物として彫刻させた。表裏に二つの顔があるのは・一は地上から見、一は池の倒影を見る効果からである。噴水施設はチェヘル・ソトゥーン宮殿と同じ、酒船石は薬酒の製造施設、益田岩船や石の宝殿は「水の石」を模して造った。続日本紀には奈良時代に波斯人(イラン系胡人)が居住したと伝えるが、飛鳥時代にも渡来していたに違いなく、その工人が馬子のためにイラン的泉池と石造物を作って奉仕したのだろう。工人のいたずらではない。馬子のあと蝦夷や入鹿により石造物の製作は続けられたが、蘇我氏の減亡で邸宅は壊され、石造物は邪魔物として飛鳥川辺や島の庄あたりに捨てられ、ワシ・グリフィンは造りかけとなり(亀石)、石の宝殴も仕上ったまま運搬できず残置された。こう考えることで、飛鳥の石造物はその謎が解けると思うがどうだろうか。[朝目東京12・4,5]

 蘇我氏の飛鳥寺建立の際、百済から渡来した寺工、鑪盤(ろばん)博士、瓦博士、画工らもペルシア系の人々であり、司馬達等(しばのたつと:仏師、鞍作止利(くらつくりのとり)の祖父)ら親子も、天平八年(736年)、遣唐使に従ってきた李密翳(りみつえい)も、そして、天平勝宝六年(754年)、鑑真和上に随行して来日した安如宝もペルシア人であったと伝えられています。このように古代日本には、ペルシア人は案外多く来訪して、その文化を伝えていたのかもしれません。

マーラー:交響曲第2番ハ短調「復活」を聴きながら・・・
ニューヨーク・フィルハーモニック
ウエストミンスター合唱団
バーバラ・ヘンドリックス(ソプラノ)
クリスタ・ルードヴィヒ(アルト)
レナード・バーンスタイン指揮

宮本 > 飛鳥の石造物が、上陸した異国工人により作られていたというのは、浪漫に溢れた仮説ですね。松本清張氏の、「仮説の裏付け」の道行きは、全く説得力のあるものですね。 (1/7-14:10) No.198
KEN1 > 宮本さん、レスありがとうございます。古代史を繙くと、浪漫溢れる仮説に沢山出会えます。
埋もれた遺跡から一つ一つ事実を拾い出す考古学者とは、また違った視点で古代を「幻視」する作家たち。松本清張氏ばかりでなく、多くの作家が、古代の浪漫に見せられた作品を描いています。例えば、手塚治虫先生の代表作の一つ『三つ目がとおる』にも、飛鳥の石造物について大胆な仮説が描かれています。本書は、先住人類の生き残りで、「三つ目」の超能力少年「写楽保介」が活躍する話ですが、この中で、酒船石と猿石が登場します。その中では、酒船石の用途を巨大な古墳を造営するために、人間を奴隷として自在に操る麻薬を調合する装置とし、二面石を割った面にその調合法が書かれていると描かれています。また、別の物語では、イースター島へ向かう途中の島で、多数の猿石と酒船石のルーツを発見しています。猿石は薬の入れ物であり、酒船石はそれを調合する台で、溝の形の違う酒船石で用いることで、色々な毒薬を調合することが可能であったと描かれています。(猿石と酒船石の原型の石造物が存在する島は、手塚治虫先生の創作です)
現代とは違う時間の流れの中で、ゆっくりと伝播していった文化。当に、遙けき古代浪漫ですね。
(1/8-19:00)
No.199
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Vol.52 聖シュテファン寺院 日付:2001/12/30(Sun) 00:28 No.193 
 ウィーンを代表するゴシック様式の教会「聖シュテファン寺院」。ウィーンのシンボルとして「シュテッフェル」の愛称で親しまれています。フリードリヒ3世の墓や歴代のハプスブルク家のカタコンベがある事でも知られており、その屋根一面には、ハプスブルク家の紋章≪黄色と黒の双頭の鷲の紋章≫が鮮やかに塗られ、町並みの中心に教会の尖塔が高く天にそびえ立っています。

 12世紀にロマネスク様式で建てられましたが、後に火事で焼失し、現在残っている建物は、14世紀から15世紀にかけて改築されたものです。「巨人の扉口」と呼ばれる正面入口のファサードと双塔のみがロマネスク様式を残しています。南塔は高さ136.7mあり、北塔は未完成のまま残されています。これは、財政難のためだったとも、悪魔と契約した大工の棟梁が、契約を破り聖人の名を呼び、殺されたためだとも伝えられています。ここに取り付けられている「プリメン」という鐘は、西ヨーロッパ第二の大きさを誇り、トルコ軍がウィーンから撤退する際に置き去りにされた大砲を溶かして作ったものとされています。元々、真っ白な建物だったそうですが、現在では、排気ガスで真っ黒な異様を誇っています。以前、ウィーンでは、この建物より高い建物は建てられなかったことからも、如何に大事にされていたかが伺えます。

聖シュテファン寺院(St. Stephansdom)
 住所:1 Stephanplatz(リンクのほぼ中心)
 電話:51552526
 交通:地下鉄(U1,U3)Stephanspl.駅下車
◆北塔(60.6m エレベーターで登れます)
 会館時間:8:00〜17:00(4月〜9月は9:00〜18:00)
 休み:なし
 料金:40シリング(北塔に登る際に利用するエレベーターの料金)
◆南塔(136.7m 途中まで階段で登れます)
 会館時間:9:00〜17:30(入場は16:30まで)
 休み:なし
 料金:30シリング

 聖シュテファン寺院の北塔の鐘楼には、6人乗りのエレベーターで昇れます。行きは良いのですが、帰りは人が集まらないと登ってこないので、しばしば時間通りに降りられないことがあります。ご注意を。

 シュテファンを訪れた時、遠い距離にある内陣の祭壇で儀式を進める司教の声が寺院内に木霊して響き、何とも荘厳な雰囲気でした(観光客が入れるエリアは後方に限られていて、ミサが行われているエリアとの間にはフェンスがありますが、様子を見ていたり演奏を聞いたりすることが出来ます)。
 観光客の出入りが激しく、雑踏が後方部に渦巻いていましたが、靄のように祭壇の蝋燭の煙が立ちこめ、ゴシックの高い天井が、全てを見透かしているかのように雑踏を呑み込んでいました。あちこちの壁画に設けられてある祭壇に向かって黙想する多くの人々と観光客が入り交じって、独特の雰囲気を醸し出しています。
 また、聖シュテファン教会の地下は墓地になっていて、うずたかく骨が積まれていたりするのを見ることができます。

 ウィーンは歩きやすい街です。交通網が円形に配置されており、街の概要を簡単に理解することができます。円周にあたるのが「リンク」と呼ばれる外周道路です。これは元々、ウィーンの街を外敵から守る城壁が築かれていた場所です。19世紀になって、この城壁が役目を終わり、また都市の発展にとって阻害要因になると言うことで取り壊されて、リンクという外周道路に生まれ変わりました。ウィーンの旧市街はこのリンクの中にすっぽりと入り込んでいます。そして、このリンクを市電が走っていて、市民の重要な足となっています。この円の中心に位置するのが「聖シュテファン寺院」です。
 まさにウィーンの象徴とも言うべき存在ですが、観光客にとって便利なのは、その尖塔がどこにいても見えていることです。歩き回り自分の位置を見失っても、シュテファンの尖塔を目印に歩いていけば、このリンクの中心点に帰ってこれます。
 ウィーン旧市街はこぢんまりとしたサイズで、歩き回るのにピッタリの広さです。「聖シュテファン」からどの方向に歩き出しても、15分から20分でリンクにでます。更に、円の直径にあたるものとして、地下鉄が走っています。何系統か引かれていますが、必ず円の中心を通ります。つまり、聖シュテファン寺院前の駅を通るのです。ですから、リンクを周回する市電と、この地下鉄を使えば、これほど観光に便利な街はないと思います。市電と地下鉄のチケットが共通となっていることも便利です。一日券や三日券なども販売されているので、フリーパスの感覚で交通機関が利用できます。

 ウィーンを訪れた時、シュテファン寺院からは、かなり離れたホテルに泊まりましたが、朝、シュテファン寺院の鐘の音で目覚めました。 ウィーンの街に響くその音は、フィアカーをひく馬の蹄の音と共にウィーンの良き思い出です。

ヨハン・シュトラウス1世:「ラデツキー行進曲」作品228を聴きながら・・・
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
ハンス・クナッパーツブッシュ指揮

小澤征爾指揮、ウィーン・フィル・ニューイヤーコンサート楽しみですね。

I wish you a good year!

宮本 > 2001年、最終Issue有難うございます!また、一年間連載有難うございました。最終回が「ウィーンの都」とは素敵なイントロですね。2002年に向けて。いつかは行ってみたい音楽の都。ドナウ川、シェーンブルン、ホーフブルク、シュテファン大聖堂。ホイリゲと、ウイナーリート。そして、ウインナワルツの調べ。ヨハン・シュトラウス一世に、乾杯!KEN1さん、良いお年をお迎え下さい!大晦日のシャンパンはよく冷えてますか! (12/30-11:47) No.194
KEN1 > 宮本さん、レスありがとうございます。今夜で、今年の営業も最後ですね。お疲れさまでした。
年末のシャンパン、モエのマグナムボトルを用意しています。楽しく年越しを過ごすつもりでしたが、掲示板でも書いたとおり、朝比奈隆氏の訃報が届き少なからずショックを受けております。御霊を慰めるため、明日は、氏指揮の「第9」を聴くことにしました。
(12/30-21:52)
No.195
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Merry X'mas! 日付:2001/12/25(Tue) 19:28 No.187 
 Merry X'mas! and the first anniversary of "Virtual STATES Symposion".

 皆さん、コラム『Virtual STATES Symposion』をご覧いただきありがとうございます。
 当コラムも、2000年12月25日の第一回配信以来、一周年を迎えることができました。これも一重に読者の皆様のおかげと感謝しております。一周年を記念して、これまでのコラムタイトル一覧を掲載したいと思います。

■掲示板展開コラム≪日刊≫
 (2000/12/25) ミュシャについて
 (2000/12/26) 21ST CENTURY MAN
 (2000/12/28) 心地よく秘密めいたところ
 (2000/12/29) 夜光杯
 (2000/12/30) ブレード・ランナー
 (2000/12/31) 朝比奈隆
 (2001/01/01) 2001 A SPACE ODYSSEY
 (2001/01/02) 一切皆空
 (2001/01/03) World Rally Championship
 (2001/01/04) ルッコラ
 (2001/01/06) うたかたの日々
 (2001/01/06) 無心のまえぶれ
 (2001/01/07) 空飛ぶ円盤
 (2001/01/08) ドビュッシー
 (2001/01/09) たんぽぽのお酒
 (2001/01/10) アンリ・ベルグソン
 (2001/01/11) ディオニュソスもしくはバッカスについて
 (2001/01/12) 美神の館

■ここから週刊≪毎週日曜日配信≫ 『Virtual STATES Symposion』と銘々
 (2001/01/14) Vol.01 ユダヤ教神秘主義
 (2001/01/21) Vol.02 アルジャーノンに花束を
 (2001/01/28) Vol.03 美味礼讃
 (2001/02/04) Vol.04 春の祭典
 (2001/02/11) Vol.05 春に酔える者
 (2001/02/18) Vol.06 柳生一族の陰謀
 (2001/02/25) Vol.07 宵の春 心を乱す 香気かな
 (2001/03/04) Vol.08 高丘親王航海記
 (2001/03/11) Vol.09 ウラシマ効果(URASIMA EFFECT)
 (2001/03/18) Vol.10 グレン・グールド 〜 歌うピアニスト 〜
 (2001/03/25) Vol.11 BAR & Cocktailの語源
 (2001/04/01) Vol.12 JIMNY=JEEP plus Tiny
 (2001/04/08) Vol.13 海のほとりの王国で・・・
 (2001/04/15) Vol.14 悲しき阿修羅
 (2001/04/22) Vol.15 "Google" - Cyber Space の歩き方 -
 (2001/04/29) Vol.16 スーフィー(イスラーム神秘主義)
 (2001/05/06) Vol.17 陰陽道
 (2001/05/13) Vol.18 安倍晴明伝承
 (2001/05/20) Vol.19 日常の仏教用語
 (2001/05/27) Vol.20 フェルメール・ブルー
 (2001/06/03) Vol.21 二つの受難曲「柔のマタイ・剛のヨハネ」(サーバー上から消失しています)
 (2001/06/10) Vol.22 ゼロの発見

■ここから、新設のコラムページ【Walnut rocking chair】へ移設
 (2001/06/14) Vol.23 地球の長い午後
 (2001/06/17) Vol.24 バスクの民話
 (2001/06/24) Vol.25 スパイス・ストーリー & Part2
 (2001/07/01) Vol.26 愛はさだめ、さだめは死
 (2001/07/08) Vol.27 夜の翼
 (2001/07/15) Vol.28 愛の詩人「ビルハナ」
 (2001/07/22) Vol.29 情報理論の父
 (2001/07/29) Vol.30 養蚕の神
 (2001/08/05) Vol.31 ギーターンジャリ
 (2001/08/12) Vol.32 カンディード
 (2001/08/19) Vol.33 ニコラ・テスラ
 (2001/08/26) Vol.34 クナッパーツブッシュ
 (2001/09/02) Vol.35 銀色の恋人
 (2001/09/09) Vol.36 阿倍仲麻呂
 (2001/09/15) Vol.37 ゴーメンガースト三部作
 (2001/09/23) Vol.38 水平対向エンジン - BOXER -
 (2001/09/30) Vol.39 西極天馬
 (2001/10/07) Vol.40 張騫の鑿空
 (2001/10/14) Vol.41 エノク書
 (2001/10/21) Vol.42 胡姫
 (2001/10/28) Vol.43 二つの受難曲 -柔のマタイ・剛のヨハネ- <改訂版>
 (2001/11/04) Vol.44 ベルリオーズ『幻想交響曲』
 (2001/11/11) Vol.45 宿曜道
 (2001/11/25) Vol.47 モーツァルトのホロスコープとオペラ
 (2001/12/02) Vol.48 魅惑の珈琲(コーヒー・コラム その1)
 (2001/12/09) Vol.49 魅惑の珈琲(コーヒー・コラム その2)
 (2001/12/16) Vol.50 魅惑の珈琲(コーヒー・コラム その3)
 (2001/12/23) Vol.51 セル - 遙か彼方の絹 -

 本当に取り留めのない内容ですが、これからも宜しくご愛顧のほどを <(_ _)>

 (A special number issued of the first anniversary.)

Requiem > KEN1さん、私ひとつ書いていただきたいコラムがあるんです。「古事記」についてです。10年程前に喜多郎がGEFFINレコードに移籍したときに発表した組曲「古事記」のコンサートを見て衝撃を受けました。彼等は外人のメンバーが中心でしたが、日本の心を忘れた現代の日本人より遥か曲を通して日本の心を継承しているのだと思いました。私もいつかきちんと勉強したいとおもっております (12/26-11:07) No.188
KEN1 > Requiemさん、レスありがとうございます。
『古事記』をリクエストですか…。神話・伝承が好きな私としましては、いつかきちんと取り組もうと思ってますが、膨大な「ふることぶみ」を読み解くばかりでなく、コラムとして取り上げるならば、神話学として世界神話との比較等、諸説を勉強し直す必要があるでしょう。しかし、日本人・日本文化の系統や起源を明らかにする材料として、『古事記』の様々なモティーフは魅力的です。

天地(あめつち)初めて発(ひら)けし時、高天(たかま)の原に成れる神の名は、天之御中主(あめのみなかぬしの)神。次に高御産巣日(たかみむすひの)神。次に神産巣日(かみむすひの)神。此の三柱の神は、並(みな)独神(ひとりがみ)と成り坐(ま)して、身を隠したまひき。
次に国稚(わか)く浮きし脂の如くして、久羅下那州多陀用弊流(くらげなすただよえる)時、葦牙(あしかび)の如く萌え騰(あが)る物に因りて成れる神の名は、宇摩志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこじの)神。次に天之常立(あめのとこたちの)神。此の二柱の神も亦、独神と成り坐して、身を隠したまひき…。
(12/26-23:12)
No.189
宮本 > 一周年、本当に有難うございます。去年のクリスマスからですね。過去総タイトルを俯瞰すると、壮大、感無量ですね。割いていただいた莫大な時間が、タイトルたちの彼方に垣間見えます。本当に有難うございます!これからも執筆していただけるということは、これ幸甚至極であります。 (12/27-11:32) No.191
KEN1 > 宮本さん、こちらこそコラムを書く機会を与えて頂きありがとうございます。
当コラムを執筆するようになってから、漠然と詰め込まれていた知識が自分の中で整理され、また、新しい発見をしたりと、とても有意義に過ごしています。これからもよろしくお付き合い下さい。
(12/29-01:17)
No.192
KEN1 > 事故レスです。(2001/11/18)Vol.46 六連星(むつらぼし)の記載が抜けていました。 (1/19-19:20) No.203
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Vol.51 セル - 遙か彼方の絹 - 日付:2001/12/23(Sun) 00:02 No.182 
 以前のコラム「Vol.30 養蚕の神」で、シルクロードの語源となった絹に纏わる伝承を紹介しましたが、今回は、西洋が不思議な絹をもたらす東洋をどのように思っていたかなど、色々と紹介したいと思います。

 中国人が西域方面の詳しい事情を得るようになったのは、前漢の時代、以前紹介したように「張騫」の決死的な大旅行に負うところが大きいといえるでしょう。その情報から、パミール(葱嶺)高原を越えて、フェルガーナ(大宛)まで大軍を派遣した「武帝」の功績も忘れてはいけません。時代は、紀元前2世紀後半のことです。

 一方、ギリシア人やローマ人が遙か東方の事情を具体的に知るようになったのは、2世紀頃のことです。これは、パルティア人らの中継貿易によって、交易の相手を知ることなく間接的な情報しか伝わらなかったためです。パルティア人達は、貿易の利益を独占するために、直接交渉に対しては徹底的な妨害を行っていました。『後漢書』「大秦伝」によれば、パルティア人の妨害を避けるため、ローマ商人が海上貿易に乗り出したという記述があります。実際、その商権を奪取しようとして、ローマは長年に渡ってパルティアと闘争を繰り返し、成功しないままに陸路を諦めて、地中海より紅海、アラビア海、インド洋を経て、インド亜大陸に至り、更に中国に向かう南海航路の開発に転向しています。このような状態が長く続いたため、遙かな交易相手に対する空想的な解釈が幅を利かせていました。

 東方からパルティア人の手を経てもたらされていた絹は、ギリシア人・ローマ人の間では「セル」と呼ばれていました。そして、セルを生産している民は「セレス(セリカ)」と呼ばれていました。

 「セル」の生産方法についての空想的記述を紹介します。紀元前1世紀、ストラボンの『地理書』においては、「亜麻の表皮を梳いて作る」と述べられています。同時代の詩人ウェルギリウスの『農耕賊』には、「ある樹木の葉から櫛でついて採取する繊細な糸」であると書かれています。このように魅力的な絹の製法については全く謎とされ、蚕から得られるという認識に到ったのは、紀元2世紀のギリシア人パウサニアスの記述を待たねばなりませんでした。

 一方「セレス」についても同じくベールに覆われていました。セレス人は非常に長寿で、二百歳まで生きるといった空想的知識が具体的なものとなってくるのは、やはり紀元後のことです。紀元2世紀に書かれたプトレマイオスの地理書には、「セレス地方は、非常に面積が広く、人口も稠密で、東は大洋に接して、人の住みうる世界の東端にあり、西はイマウス・バクトリアの国まで広がっている。彼らは柔和な、慎ましやかな文化人である…」と記されています。

 続いて「セル(ser)」の語源について見てみましょう。一般的なのは、中国の絹を表す言葉「(そう)」が訛ってセルになったというものです。この他、中国周辺の遊牧民の、生糸を意味する名称がそのまま伝わったというものもあります。
 セレス(Seres)・セリカ(Serica)についても、これを中国の民を意味する言葉という説もあれば、絹を西方に運んだ月氏等のオアシス遊牧騎馬民族(セレス)であろうとする説もあります。セレスという遊牧騎馬民族が、当時東トルキスタン方面に存在した二十六(三十六)国の上に派遣を振るっていたことが、後に月氏を討伐して、その覇権を奪った匈奴の冒頓単于(ぼくとつぜんう)から漢の朝廷への書信によっても明らかです。

 シルクロードを通じて中央アジア、西欧、東欧、南欧へと絹織物が広がると、最も優れた織物として珍重されました。やがて5世紀の初めに中央アジアのコータン王国に、また6世紀中頃には東ローマ帝国に製糸法が伝わり、以来、その技術は徐々に西漸して、ギリシア、フィレンツェ、シリアなどに伝播しました。その後、中世には世界各地で絹織物が生産されるようになりました。

 美しい絹は、古代ローマの上流階級に愛用され、同じ重さの黄金と交換されたとさえ伝えられています。この糸で作られた絹織物は、長い歴史の中で常に人々を虜にしてきました。その魅力は、なんと言っても細くて強靱な糸が織りなす滑らかさと光沢でしょう。一つの繭からは800〜1200mの糸を紡ぐことができるそうです。化学繊維が登場するまでは、これほど細くて長い糸は、他の天然素材からは取とれませんでした。ちなみにこの一本の糸は、二本のフィブロインといわれる繊維を、セリシンという成分が覆って作り上げられたものです。光を巧妙に反射させるフィブロインの三角形の断面形状と、糸を強靱にする特殊な成分セシリン。こうした生物の神秘が、古代より現代に到るまで、人々を魅了し続けている絹の魅力の秘密でした。

 最古の絹作りは、中国において新石器時代に始まったといわれてます。これは、山西省南東部の彩陶遺跡から出土した半個の繭殻と紡錘車、江蘇省から出土した黒陶にみられる蚕の文様などから、絹の生産が推定されているものです。以来、古代中国では、錦、綾、羅、紗、平絹などすぐれた絹織物の技術を発達させてきましたが、国外に製品としての織物がもたらされることはあっても製法は秘密にされてきました。そのため紀元前後まで、中国は世界で絹織物を産する唯一の国でした。

 『蚕種西漸図(ダンタンウイリク)』によれば、その昔、蚕が御禁制の品として、漢以外の国へ持ち出すことが許されていなかった頃、生糸は黄金色をしていたという伝説が残されています。西域の一国、于てん(現在の中国新疆ウイグル自治区。天山南路のホータン)のティルカ王に請われ嫁いだ晶妃は、髪に蚕を隠して持ち出しました。しかし、苦難の末、蚕を持って于てんに到着した姫は冷遇されます。王の目的は、絹の製法を自国へ広めることだったのです。そこに愛が無いことを知った晶妃は神に願うと、蚕の口から吐き出される黄金色の繭は、一夜にして白くなったといいます。

 日本では、弥生中期の飯塚や立岩遺跡の出土品に付着した絹が、この頃の存在を物語っています。また3世紀の『魏志倭人伝』に「禾稲・紵麻を植え、蚕桑緝績(しゅうせき)して、細苧けん(糸偏に兼という字)緜を出す」との記述があることから、当時、日本でも絹織物を産したことが伺えます。
 その後、5、6世紀頃、大陸から秦氏が渡来して帰化豪族となり、現在の京都・太秦(うずまさ)を拠点に養蚕と織法を伝えて発展させました。以来、京都が日本の絹織物の拠点となります。やがて律令国家が始まると、絹織物技術を受け継ぐ工人たちを組織した織部司を設け、絹織物の生産システムが整ってきます。8世紀初めには、織部司の桃文師(あやどりのし)が、伊勢、尾張など二十一ヶ国に派遣され、錦、綾、羅などの技術を指導したといいます。

 律令制のもと、奈良、平安時代には多様な色を用いた錦や、二重織物、浮織物など、刺繍に見まごうような美しい絹織物の技術を独自に発展させます。地方でも阿波絹、越前絹、美濃八丈、常陸綾など、地名を冠した名産品が作られていきます。
 やがて武士勢力が台頭し、律令制が破綻してきた平安時代の後半から鎌倉時代にかけて、私的工房で公然と織物業を営むものが現れると、織部司は次第に力を失っていきました。独自に活動をはじめた織手たちは、織部司の近隣の大舎人(おおとねり)町に集まり、「大舎人の綾」「大宮の絹」と呼ばれる優れた織物を生み、室町時代には「座」を組織して、応仁の乱の戦火による壊滅的な打撃を受けるまで、日本の絹織物を牽引していました。
 応仁の乱で堺、山口など地方都市に散った織手は、乱が収まると帰郷し、山名宗全の西陣跡には大舎人座が復活し、細川勝元の東陣跡には新興の練貫方が現れました。独占権を侵害された大舎人座は練貫方を訴え、両者は覇権を争いますが、16世紀半ばより画期的な紋織法の考案と高機(たかはた)の導入によって、それまで手の届かなかった中国の唐織に匹敵する紋織物を開発した西陣方が圧倒し、後の西陣織の基礎を築きました。その後、桃山時代を代表する唐織、繍箔、摺箔、辻が花などの着物は全て絹織物です。その中でも特に、刺繍に見まがう重厚な紋織りで、豪華絢爛の時代を物語る唐織、また、辻が花をはじめ繍箔、摺箔の生地としても使われた艶やかでしなやかな練貫(ねりぬき)は、この時代をもっとも象徴する織物でしょう。また、緞子、綸子、紗綾、縮緬など、更なる応用技術が中国から輸入され、絹織物は益々発展しました。

レスピーギ:交響詩「ローマの松」「ローマの噴水」「ローマの祭り」(ローマ三部作)を聴きながら・・・
NBC交響楽団
アルトゥール・トスカニーニ指揮

宮本 > 今回もコラム有難うございます!一つの繭から、1キロメートル。凄いですよね。人間とは、かくもイマジネーティブなんですね。繭から紡ぎ、織る。シルクロードとは、知と文明の伝播の道なんですね。「西陣」のくだりも、面白く読ませていただきました。 (12/25-08:33) No.183
KEN1 > 宮本さん、レスありがとうございます。
幼少の頃は、田舎へ行くと桑畑が残っていましたよね?たわわに実った桑の実をよく摘んで食べたものです。そういえば、熊本には「桑の実」というバーが在るそうですが、シーズンには、桑の実を使ったカクテルを頂けるのでしょうか?
(12/25-19:01)
No.184
宮本 > バー「桑の実」、素敵なところですよ!ステイツからも近いところ。バーテンダーの徳丸さんは、私の尊敬するバーテンダーです。創業30年を機に、屋号を「マルベリー」とあらためられました。しかしついつい、「桑の実」って、言ってしまいますけれど・・。桑の実を使ったカクテルは、どうなんでしょうか?今度お聞きしておきますね。 (12/27-11:15) No.190
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Vol.50 魅惑の珈琲(コーヒー・コラム その3) 日付:2001/12/16(Sun) 02:56 No.176 
コーヒー・コラムの最終回は、コーヒー豆そのものについて、また、コーヒーの効用などを紹介します。

◆コーヒーの生産国と産地
 コーヒーは、生産された国や地域が基本となっています。コーヒーの栽培に適した気候は平均気温が20℃(最低気温15℃以上・最高気温30℃以下)、年間降水量1,500〜2,000mmの、いわゆる熱帯・亜熱帯の地域です。これに当て嵌まるのは北回帰線と南回帰線の間の地域で、「コーヒーベルト」あるいは「コーヒーゾーン」と呼ばれています。
 コーヒーの品質は、栽培される地域の気候や技術・方法などが影響しているため、産地によって大きく変わってきます。また、余程のことがないかぎり流通経路は変わらないため、市場・出荷港も品質と深く関係しています。例えば、ブラジル・サントス、モカ・マタリ、エチオピア・ハラー、ドミニカ・バラオナ等という名前で出荷されています。
 コーヒーはあくまで嗜好品なので、どの産地のコーヒーが良いかなどという議論は無意味ですが、ジャマイカのブルーマウンテンの品質は誰もが認めるように、その気候風土だからこその最適な栽培がなされ、その品質には素晴らしいものがあります。生豆(きまめ:焙煎前の豆)の艶や輝きにも大きな差があります。ブラジル、コロンビア、ハワイ、ジャマイカなどの高品位グレード豆は、大粒で艶があり実に綺麗な豆です。

◆高地で採れる高品質の豆「マウンテン」
 一般的に、栽培される標高が高いほど、収穫される豆の品質は良いとされています。高地であれば、寒暖の差が大きく、実を引き締め風味を強くするのだと考えられています。また、霧が発生しやすく、熱帯の強い日差しを和らげてくれる効果も期待できす。実際には、1,500m〜1,350mの高度で採れた豆が高品質となっています。このように、各産地の「○○マウンテン」と名前の付いているコーヒー豆は品質の高いものになっています。高度によりそれぞれの豆がランキングされている産地もあります。

◆三原種
 コーヒーはアカネ科(Rubiaceae)コフィア属(Coffea sp.)に分類される植物のことを指します。この属に分類される植物は世界中で40種もあります。しかし、一般には飲用を目的に栽培されている次の三種を指し、これを「三原種」と呼んでいます。

<アラビカ種>
 アラビカ種の原産地はエチオピアで、歴史が古く品質も優れているため、世界の各生産国のほとんどで最も多く生産され、コーヒー全栽培量の75〜80%を占めています。
 アラビカ種には、ティピカ、ボルボン、カトゥラ、カトゥアイ、ムンドノーボ、アマレーロ、マラゴジペなど多くの品種があります。アラビカ種は病気や害虫にはさほど強くありませんが、栽培環境が整えばコーヒー豆の中でも、ティピカ種が最も美しい品種であるとして、栽培をしている地域はかなりの広範囲に及んでいます。

<ロブスタ種>
 ロブスタ種は、1898年にベルギー人のエミール・ローレンがアフリカのコンゴで発見したものです。以前は、カネフォーラ種ロブスタ(Coffe canephoravar.robusta)と呼ばれていましたが、最近はロブスタ種と呼ばれています。高温やさび病などの病気に強いことが認められ、積極的に栽培されるようになりました。ウガンダ、マダガスカル、コートジボアール、トーゴ、アンゴラ、ガーナなどの熱帯アフリカ諸国やインド、インドネシア(スマトラ・ジャワ)、フィリピン、トリニダード・トバコなどで栽培されています。品質的にはアラビカ種の補充、増量用コーヒーやインスタントコーヒーに使われ、全栽培量の20%ほどです。

<リベリカ種>
 西アフリカのリベリカ原産で、1870年以降、ガイアナ、スリナム、インドネシアなどで栽培されるようになりました。低温・病害・かんばつに強いのですが、品質・香りが劣っているので現地で消費されるか、ごく僅かヨーロッパに送られています。

 以上のように、三原種のなかでもアラビカ種のティピカ種がコーヒー豆として品質が優れており、他の品種と混合しない純粋なものが高品質のコーヒーとされています。

◆「クロップ」の種類
 クロップとは生豆(きまめ)のことです。収穫された年で3タイプに分けられます。コーヒー豆の善し悪しと同じくらい大切なもので、どのクロップを用いるかによって、煎茶と番茶といったような味の差があります。

<ニュー・クロップ>
 その年に採れた豆です。緑色が濃く、一般に酸味・香りが強く、個性的で力がある豆です。ハンドピックコーヒー(手摘み)により、透明感のあるピュアーな味を作り出すには、このニュー・クロップが用いられます。

<バースト・クロップ>
 前年度産の豆のことを指します。やや含水率が少なくなって、うすい緑色をしています。これはこれでいい味を醸し出しています。

<オールド・クロップ(エージングコーヒー)>
 かなり黄色味を帯びています。含水率が少ないので焙煎しやすくなっていま す。反面、味がやや単調になる傾向になります。オールド・クロップの中にはオールド・ ビーンズといってチーズのように醗酵、熟成させた豆があります。何年も寝かせてワインのように熟成した味を作るものですが、ごく一部のコーヒー専門店で取り扱っています。これをエージングコーヒーといいます。発酵種が混入しているため、コーヒーの味が酸味と独特の苦味を持つ場合、本当にピュアーな味に対してこだわって発酵させたものと、流通の段階で管理の悪さのために混ざってしまったものとでは全く違うものです。

 産地、グレード、製造日などの生豆に対する情報は、コーヒーが輸入される時に入っている麻袋に書かれているものがほとんどです。しかし、こういった情報があっても、必ずしも良い豆であるとは限りません。実際に生の豆を見る・ 嗅ぐ・触るといってことで豆の善し悪しを判別します。
 新鮮で良質の豆には、美しい青緑の色沢があります。また、豆の色は含水率を表しています。緑・青が強いものは水分が多く、褐色〜白に近いほど水分は少ないものです。いずれにせよ、一定にそろっているものがよい生豆です。また、粒の大きさは品種・産地・銘柄によって異なりますが、豆の大小に関わらず粒が揃っているものは悪い豆の混入が少なく、焙煎工程で煎りムラができにくくなります。

◆精製法
 収穫したコーヒーの果実から外皮・果肉・果皮・種皮などを取り去り、種子(コーヒーの生豆)を取り出す作業を精製と呼んでいます。この精製工程には大きく二つの方法があります。水洗式と自然乾燥式です。

[水洗式(ウォッシュト)]
 水洗式(ウォッシュト)による精製は設備と手間を必要としますが、混入物 をはじめとする欠点豆の混入がなく、豆の質が揃っています。しかし、作業上の問題でしばしば醗酵臭があったり、味の劣化を招いている場合があります。的確な処理をされたものは、豆それぞれの個性的な香味が得られ、乾燥式に比べてやや酸味が優ります。コーヒー生産国の70%が採用しています。
 その課程は、水槽選別→果肉除去→醗酵・水洗→乾燥→脱穀→選別・格付けを経て、輸出されます。

[自然乾燥式(非水洗式・アンウォッシュト・ナチュラル)]
 自然乾燥式の精製は乾燥中に天候の影響を受けやすく、欠点豆の混入も多くみられますが、作業が比較的単純なため、管理が行き届けば良質の生豆が得られ、柔らかな酸味とまろやかな苦みを呈します。ブラジル産のほとんど、エチオピア、イエメンなどはこの方法を採用しています。

 どちらの製造方法でも、的確な作業を経れば、それぞれ良質な豆が得られますが、実際にはウォッシュトの方が均質のものが多いようです。

◆コーヒー豆の品質(格付け)
 美味しいコーヒーを得るためには、様々な要素があります。生豆の品質の良いものを得ることが、まず第一歩と言えます。生豆の品質を表す方法には生産国により様々な方法があります。

[ウォッシュト・アンウォッシュト]
 両者とも長所・短所があり、いずれが優れているかは一言では言えませんが、水洗式の方が外見・品質がそろっているために商品価値が高く扱われていることが多くあります。

[ピーベリー・フラットビーン]
 ピーベリーは、一つの果実に本来二つ入っているコーヒー豆(種子)が一粒だけ入っているため、丸い形状をしています。かつてはピーベリーの希少価値がうけたこともありましたが、実際は需給が安定しているフラットビーンの方が有利とされています。

[標高による分類]
 一般的に、栽培される標高が高いほど、収穫される豆の品質は良いとされています。高地であれば、寒暖の差が大きく実を引き締め風味を強くするのだと考えられます。また、霧(ガス)が発生しやすく、熱帯の強い日差しをやわらげてくれることもあります。分類の方法は生産国によってことなります。

[豆の大きさによる格付け]
 コーヒー豆は外見的な美しさや粒の大きさ、均一性などが取引上、大きな要素になっています。たとえばブラジルではスクリーン8〜20に分けられます。「スクリーン18の豆」とは、スクリーン・ナンバー19の篩いは通過し、18で残る豆のことを指します。7,5mm〜7,0mmのサイズです。

[欠点豆(混入物)の量による方法]
 例えば、ブラジルでは300gのサンプルに含まれる混入物の種類と個数を欠点数に換算し、No.2〜No.8の等級に分けています。通常はこの条件で出荷されているので欠点豆が0のものはないと考えるべきす。更に、焙煎前と後でハンドピックをしてはじめて欠点豆のないコーヒーが飲めることになります。欠点豆には次のようなものがあります。

 醗酵豆…精製過程で醗酵槽に長く漬けすぎたり、水洗時の水が汚れていたり、山積みに放置すると醗酵が進んでしまいます。すると、異臭の原因になり、不快な甘味がし、焙煎しても正常に着色しません。

 黒豆…醗酵がさらに進み、豆が黒くなったもの。異臭の原因になります。

 カビ豆…乾燥が不十分であったり、輸送・保管の途中で湿気を吸いカビが生えたもの。

 虫食い豆…コーヒー豆の未熟な時に害虫が侵入したもの。異臭の原因になります。

 ベルジ…未熟豆のこと。強く不快な匂いがし、嫌な味がします。

 貝殻豆…乾燥不良、あるいは交配の異常で起こります。煎りムラの原因になります。

 ドライ・チェリー(コッコ)…外皮・果肉がついたままの豆。異臭と渋味の原因になります。

 パーチメント…内果皮がついたままの豆。また、皮だけが混入する場合もあります。

 発育不良豆…煎りムラの原因になります。

 死豆…正常に結実できなかったもの。焙煎してもつやがなく白っぽく、青臭い異臭の原因にもなります。

 割れ豆…乾燥やムラや輸送時に衝撃をうけて、豆が割れてしまったもの。煎りムラの原因になります。

 混入物(小石類・穀物類)…小石はミルの歯を傷める原因となります。また、トウモロコシや大豆、その他木片などが混入していることがあります。

[カップテストによる格付け]
 コーヒーの価値は言うまでもなく、味と香りです。ブラジルではコーヒーの味を6種に分けています。この味の判定を行うのはもちろん誰でも良いわけではなく、クラフィシカドールと呼ばれるカップテスターだけが鑑定の仕事に携わっています。

◆焙煎(ロースト)
 コーヒー豆を煎ることを焙煎(ロースト)と言います。コーヒーの生豆は白っぽく、コーヒーらしい風味も香りもあまり感じられません。焙煎されて、はじめてコーヒーらしく変身します。焙煎とは、コーヒー独特の色(セピア)と風味(テイスト)と芳香(アロマ)を作り出す大切な作業です。焙煎の過程は連続して起こるもので、一般的に、次の8段階に分けられています。

[ライトロースト]
 最も浅い煎りで、色はライトブラウンです。香りは少なく、やや生臭さを感じます。渋みと酸味が強く、苦味はほとんどありません。主にカップテストに使われて、飲料としては使用されていません。

[シナモン・ロースト]
 グラインドした粉の色が、シナモンパウダーに似ていることから名付けられました。最もポピュラーな浅煎で、やや酸味が増し、渋みはほとんどなくなります。以前は「アメリカンロ ースト」といわれていました。

[ミディアム・ロースト]
 中煎。まろやかな苦味とやわらかい酸味、やや苦味も増します。アメリカ東部の人達に好まれています。以前はこのタイプがスタンダードで、現在はブレンドに多く用いられています。

[ハイ・ロースト]
 現在、世界中がこのタイプを基準としています。酸味、苦味、甘味、のバランスがよく、ブラックとして飲むには最適です。ブルーマウンテンやキリマンジャロなどに合い、砂糖やクリームを入れてもバランスがくずれることはありません。

[シティ・ロースト]
 豆の状態は、ハイローストとほとんど変わりません。粉の状態で見比べるとやや深いのがシティ・ローストです。コロンビアやブラジルによく合います。

[フル・シティ・ロースト]
 コーヒーの消費に関して、最高の都市(フル・シティ)はシカゴでしたが、 現在ではニューヨークのことをいいます。別名、ニューヨークスタイルといい、 やや深煎りで酸味よりも苦味が強くなっています。ミラノのエスプレッソはこのタイプがよく使われています。また、アイスコーヒー向きとされています。

[フレンチ・ロースト]
 苦味がより一層増し、少し焦げた香りがします。フランスではライトフレンチといい、以前よりも浅めのローストが使用されています。豆の色はダークブラウンで、粉にするとチョコレートパウダーに似ています。エスプレッソのバリエーションコーヒー用として使われます。

[イタリアン・ロースト]
 イタリアでもナポリや南部の人たちが、好むタイプです。かなり深く煎るの で、苦味の強いコーヒーになります。別名、ダークフレンチといい、現在のア メリカ人が好むタイプです。 イタリアン・エスプレッソ用。

 一般的に、浅い煎りのものは苦味が少なく、酸味が強く、また煎りが深くなるにつれ、苦味は増えてゆき、酸味は減少します。また、香りの場合は連続的に変化すると言うよりは各ローストで段階的に変化します。よく、「○○(産地・銘柄)は苦いコーヒーだ」とか、「△△は酸味の強いコーヒーだ」とか言われます。もちろん各コーヒーによって特徴はありますが、それは同じローストで比べた上での話です。一般にはコーヒーの酸味・苦味はローストの影響の方が大きいものです。
 香りも同様に、同じ銘柄のコーヒー豆でもローストが異なれば、香りが違ってきます。煎りの深いコーヒーの方が香ばしさが強くなります。この香ばしさは、香りの量の多さが問題になります。焙煎されてから、日数がたてばコーヒーの香り・香ばしさは減ってゆきま、その鮮度は2週間程度です。また、焙煎をするとき、クロップの種類によっても水分量が大きく異なりローストの方法を変える必要があります。極端に水分が多い場合には、二段ローストして、最初に水分を飛ばす工程を入れる場合もあります。

 コーヒー豆は、焙煎の度合いが深くなればなるほど焙煎豆は膨らんで、どんどん軽く、脆くなります。したがって、コーヒーをメジャースプーンで計る時には、深い煎りのコーヒーは1割ほど多めに、浅煎りの場合は1割ほど少なめに計る必要があります。

 焙煎されることで、はじめて琥珀色の独特の「苦味」「酸味」「香り」を持つようになるコーヒー豆。それぞれの要素を科学的に見てみましょう。

 「苦味」は、コーヒーの味の重要な要素です。苦味成分としてはカフェインがまず頭に浮かびます。また、コーヒーの苦味は焙煎の度合いが深くなればなるほど強くなります。このため深い煎りのコーヒーほどカフェインの含量が多いと思われがちです。しかし、カフェインをそのまま加熱した場合、130℃以上になると昇華し、200℃以上で分解を始めるので減りますが、コーヒー豆の中ではほとんど減少しません。同時に、水分その他が蒸発するので、残ったカフェインの相対的な割合が増加し、焙煎の程度によらずカフェインの濃度はほぼ一定になります。実際のところ、カフェインの苦味はコーヒーの10%だと言われています。焙煎の進行と並行して苦味は増加してゆきます。従ってカフェインではない何か苦味成分ができるのだと考えられます。タンパク質が熱で分解されて出来る「ジケトピペラジン」と呼ばれる苦味成分ではないかと考えられていますが、よくは分かっていません。

 コーヒーの味のもう一つの大きな要素は「酸味」です。酸味の指標をpHを計ってみると、生豆ではおよそpH6で、焙煎の進行とともにpHは減少します。ミディアムロースト直前で最低になり、その後再び上昇してゆきます。これはショ糖をはじめとした糖分が熱で分解され、酸に変化し、さらにこの酸が蒸発・熱分解でなくなるためだと考えられています。

 味の要素とともにコーヒーの大切な要素は、あの独特の「香り」です。現在では、様々なものの香りが分析され、工業的に合成されるようになっています。分析技術が進歩し、それぞれに特徴となる成分がわかってきたからです。では、コーヒーに特有の香りは一体何でしょうか。実のところは、これと言った成分はありません。分析の結果、200種類以上もの化合物がコーヒーの香りの中に存在することがわかり、その中の100種ほどはどんな化合物かも判明しています。また、コーヒーには、いろいろなロースト段階に特有の香りがあります。それは、それぞれ出来てくる香りの成分が熱分解される温度が違うためす。

◆コーヒーの効用
 コーヒー・コラムの初回にも紹介したように、昔はコーヒーが体に悪いと言う説が流布し、コーヒーが禁止されたことが何度もありました。18世紀のスウェーデンでは、時のグスタフ3世の命で、二人の死刑囚に対し、一人にコーヒーを、もう一人に紅茶を飲ませ続け、それぞれの影響を調べ、コーヒーと紅茶の毒性を調べる人体実験を行いました。結局は二人とも何の影響もありませんでした(それどころか1792年に、当のグスタフ3世の方が暗殺され、先に死んでしまいました)。実際に、カフェインには毒性があります。ただし、一度に大量に飲まなければカフェインが原因では死ぬことはありません。

 コーヒーを飲むと目が覚め、気分がすっきりするといった効果があります。これはカフェインによるものです。このようなコーヒー中に含まれる物質の生理作用を紹介します。ただし、作用が発現する濃度や、加える砂糖・ミルクなどによって影響を受けるため(個人差もあるため)、必ずこの作用が現れるとは限りません。

[カフェインの作用]
○覚醒作用(眠気覚まし)・集中力アップ
 中枢神経を刺激し、脳の働きを活性化させます。

○ダイエット
 血管を拡張し、冠状静脈を弛緩させるので、血液の循環を良くし、心拍数を上昇させ、酸素消費率を上げます。そのためにエネルギー消費量が増加します。また、グリコーゲンより先に皮下脂肪を分解し、エネルギーにするので、皮下脂肪を減らします。

○利尿作用
 血管の循環を良くするので、自然と肝臓を通過する血液量も増加し、尿量が増加します。

○二日酔いの防止
 肝臓の活動を促進させるため、二日酔いの原因となるアセトアルデヒドの分解を早めます。また、利尿効果で、アセトアルデヒドを早く排泄できます。また、消化液の分泌を良くする作用があるので、初期にコー
ヒーが胃薬として使われていたのはこのためです。

○カフェインの毒性
 前述したカフェインの作用は適量(1〜5mg/kg程度。コーヒー0.5〜3カップに相当)を摂取した場合であって、過剰に摂った場合強い不眠、心悸亢進、けいれんなどを起こす場合があります。しかし、これは体重1kg当たり15〜30mgのカフェインを摂取した場合で、コーヒー10〜20杯に相当します。それも一度に飲んだ場合なので、まずそういったことはないでしょう。ただし、風邪薬などには、かなりの量のカフェインが含まれているので、一緒に飲まないようにしましょう。

[フラン類の作用]
 コーヒーの香りの成分の一つで、焙煎の過程で生じる化合物です。口臭の予防、とくにニンニクなどのイオウ化合物の口臭抑制作用があります。しかしミルクを入れるとミルクの脂肪分に溶け込んで作用は期待できなくなります。

[クロロゲン酸の作用]
 コーヒーに含まれる、タンニンの一種です。この化合物は発癌物質の一つであるOH・の発癌作用を抑制するという報告例があります。また、このクロロゲン酸はHDL(善玉コレストロール)を増やす働きがあることが分かってきており、動脈硬化の予防にもなりそうです。クロロゲン酸と、これが分解してできるコーヒー酸は胃液の分泌を刺激するので、消化を助ける作用も期待できます。

 3回にわたり、コーヒーについて色々紹介してきましが、コーヒーの銘柄やブレンド方法、挽き方や淹れ方など、紹介できなかったこともあります。コーヒーもお酒と同じように嗜好品ですから、好みのコーヒーは、やはり自分で味わってこそわかるものです。ぜひ、自分なりのコーヒーの愉しみかたを見つけてみてください。

ベートーヴェン:交響曲第6番「田園」を聴きながら・・・
コロンビア交響楽団
ブルーノ・ワルター指揮

伊崎 > 読ませて頂きました。三回にわたる長いコラムの執筆と掲載、お疲れさまでした。 こだわる人はとことんこだわるのがコーヒーですが、今回のコラムを読んで私もなんだか「飲み比べ」をしてみたくなってきました。 時代は変わって、いろんな新しい飲み物が生まれ、またこれからも生まれ続けていくのでしょうけれど、きっと人類がコーヒーを飲まなくなる時は来ないのではないでしょうか。いつか人が宇宙の果てにまでその足を伸ばせるようになったときも、きっとこの美しい豆と美味なる飲み物はその良き友としてその旅に付き添うのでしょうね。 そんなことを考えて、なんだか愉快になりました。 今回書けなかったという部分の捕逸がいつかあることを願いつつ……ありがとうございました。 (12/17-00:10) No.177
KEN1 > 伊崎さん、レスありがとうございます。ビア・コーヒーを飲みながらレスを書いております。
コーヒーとお酒、この二つは、いつまでも人類の良き友であってほしいものです。何かのSFで、未来に於いて、食品のほとんどが合成物となり、「本物のインスタントコーヒー」を有り難がる悲しいシーンがありましたが、そうならないよう祈るばかりです。三回のコラムにつきあって頂き、こちらこそありがとうございました。今回紹介したのは、広大なコーヒーワールドのほんの一部です。機会がありましたらまた続きを書いてみたいと思います。

コーヒーの効用として、書きそびれた興味深い研究を紹介します。
それは、「カフェインがパーキンソン病を予防する?」というものです。アメリカのある研究者が、三十年に渡り日系米国人8000人を調査し、1日に3カップ以上のコーヒーを飲む人は発病率が5分の1であったとの結果を報告しています。パーキンソン病は、脳の受容体に作用し、ある条件下で神経細胞を殺してしまう伝達物質が原因と考えられているそうですが、その様な伝達物質の分泌を抑制すし守る役目をカフェインがしているに違いないと神経内科のTim Greenamyre医師は言っています。また神経内科のG. Webster Ross医師は、コーヒーを沢山飲む人はパーキンソン病にならない体質を有しているとも言っています(他の研究者は、遺伝と環境の中での有害物に対する感受性の違いの双方を原因と考えていますが…)。Greenamye医師はコーヒーを解毒する力が大きい人は、パーキンソン病を引き起こす環境中有害物質も容易に解毒するのであろうと推測していました。本当なら嬉しいことですよね。
(12/17-00:44)
No.179
宮本 > 有難うございます。今も、コーヒーを飲んでいます。何かしら、いつもにも増して美味しいような、そんな気がいたします。コーヒーの「輪郭」が自分の中でくっきりとしたような気分です。品種、ロースト、身体への効用。ただ、ひたすら美味しく薫り高いのは、それなりの理由があるんですね。更に、美味しく飲めるようになりました。 (12/17-09:51) No.180
KEN1 > 宮本さん、レスありがとうございます。
コーヒー好きの宮本さんにとって、新聞を読みながらの一杯はルーティン化しておられるとか、素敵な習慣ですね。コーヒーの効用について、もう一つ紹介しますと、コーヒーの香りを心地よいと感じ、習慣的に飲み続けている人は、発ガン率が低いとの研究結果があります。その要因としては、物質的な作用ではなく、一種のアロマテラピー的効果が期待され、身体の抗酸化力が促進されるからだとか。何だか益々美味しく感じてしまいますね。
(12/17-19:07)
No.181
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Vol.49 魅惑の珈琲(コーヒー・コラム その2) 日付:2001/12/09(Sun) 00:08 No.171 
 前回に続きコーヒーの話題を。今回は、栽培の歴史と日本への伝来などを紹介します。

◆コーヒー栽培の歴史
 現在、コーヒーは、赤道を中心としたコーヒーベルトと呼ばれる熱帯・亜熱帯地方の様々な国、約60ヶ国で栽培されています。では、アフリカ原産のコーヒーの樹がどのようにして世界へ広がり、栽培されるようになっていったのか紹介します。

 エチオピアのアビシニアン高原にあったコーヒーの樹は、1470年に南アラビアのイエメンに移植されました。イスラム教と密接な関わりを持ったコーヒーは15〜16世紀にはアラビアのイスラム教圏に広まりました。この頃は、コーヒーの経済価値と宗教の両面から、コーヒーは国外には持ち出しが禁止されており、厳重な監視の下栽培されていました。

 最初にコーヒーの持ち出しに成功したのは、17世紀のインド人ババ・ブーダンとされています。彼は聖地メッカに巡礼に来た際にコーヒーの種子を密かに持ち出し、インドのマイソール地方で栽培することに成功しました。この樹が今日のインド南部のコーヒーの原木となっています。

 一方、オランダでもコーヒーの木の栽培を試みていました。1699年に、インドのマラバールからオランダ領インド諸島(インドネシア)にコーヒーの挿し木を輸送、栽培に成功しました。これが現在のアラビカ種の源となっています。1706年に、ジャワ島のコーヒーの樹が、本国オランダのアムステルダム植物園に送られ、更に、ヨーロッパ各国の植物園に移植されました。

 フランスもオランダに負けじと栽培を試みていたのですが、たびたび失敗を重ねていました。しかし、1714年に、アムステルダム市長からルイ十四世に献上された一本の苗木(ノーブル・ツリーと呼ばれています)の移植についに成功しました。この一本の苗木が、後のフランス植民地、特に中南米のコーヒーの原木となりました。

 フランス海軍将校ガブリエル・マチュー・ド・クリューはコーヒーの苗木を、任地であるカリブ海・マルチニーク島に移植したいと考えました。しかし、コーヒーの樹はフランス国外に流出するのを防ぐために厳重に管理されていたため、数本の苗木を手に入れるために散々苦労しました。マルチニーク島への航海の途中、海が荒れ、激しい嵐に見舞われたり、チュニジアの海賊に襲われたり、また彼からコーヒーの樹を奪って栄誉を得ようとする者がいたりと苦難の旅でした。航海は悲惨を極め、飲み水が不足する始末でした。当然、苗木に分ける余分の水はありません。そこで彼はひどい喉の渇きに苦しみながら、一ヶ月以上も自分の飲み水を苗木に与え続けたのです。こうして二ヶ月もの長い航海の末、辛うじて苗木を島に植えつけることができました。この樹が原木となって、西インド諸島や中南米に伝播し、フランスが栽培の実権を握っていたのです。

 18世紀に入ると、南米や西インド諸島でもコーヒーの栽培が盛んになってきました。しかし、現在のコーヒー主産国ブラジルには未だ渡ってはいませんでした。当時フランス領ギアナはコーヒーの栽培が盛んで、国境を接するブラジル(当時ポルトガル領)のグランパラ州知事は、どうにか苗木を手に入れようとしましたが、ギアナは流出しないように厳しい監視がされていました。そこで一計を案じ、折りしも発生した国境紛争の解決を目的にフランシスコ・デ・メロ・パリエッタを派遣し、彼にコーヒーの苗木を持ち帰るように密命を与えました。パリエッタはギアナ滞在中、スマートな容姿と洗練された社交術で多くの高官夫人の人気の的となり、いつしかフランス総督夫人との間に恋が芽生えました。そこで彼はコーヒーの苗木を持ち帰るという任務を打ち明け、協力を求めました。やがて紛争は解決し、フランス総督による送別会が盛大に行われました。別れを惜しみつつ、夫人から大きな花束が渡されました。その花束の中にはコーヒーの苗木が隠されていたのです。こうしてコーヒーはブラジルにもたらされ、ついには世界最大の生産国までになりました。

◆日本におけるコーヒーの歴史
 さて、日本にコーヒーが伝来したのは江戸時代です。当時は鎖国により長崎の出島のみで、オランダと中国と交易を行っていました。、1641年(寛永18年)、出島にオランダ商館が設立以降、オランダ人と接触していた商人・通訳・役人・遊女らがコーヒーを飲む機会があったのではないかと推測されます。オランダ船医として来日したスェーデンの医学者で、植物学者としても有名なカール・ぺテル・ツンベルグの紀行記『ツンベルグ日本紀行』(1776年)には、「日本人は茶と日本酒を飲むだけである。ワインも飲まず、ヨーロッパの酒造家造る他の美味い飲料も飲まない。我がオランダ人が日本人に欧州の飲料を供するときも、これを味わってみることは滅多にない。この国でブランディがなくてはならぬものとなることは、ゆめあるまいと私は信ずる。日本の蘭通詞二・三人が漸くコーヒーの味を知っているのみである…」と記されており、日本人が馴染めないながらもコーヒーを体験していたことを示しています。

 日本人がコーヒーを飲んだ記録としては、狂言師で戯作者の太田蜀山人による『瓊浦又綴(けいほゆうてつ)』(1804年)が最古とされ、「毛紅船にて「カウヒイ」というものを勧む、豆を黒く炒りて粉にし、白糖を和したるものなり、焦げ臭くして味ふるに堪えず」と書き残しているのが最初です。また、遣仏使節団に加わった人物が、フランス船での食事の様子を次のように記しています。「10時頃になると朝食が出る。ワインに水を割って飲ませ、肉を煮たり焼いたりする。食後はカッフヘエーという豆を煎じた湯を出すので、砂糖と牛乳を混ぜて飲むと、胸が大層さわやかになる」。肉食文化に順応したコーヒーは、緑茶と日本酒に親しみ、淡白な食生活の日本人には受け入れがたいものだったのでしょうか。いずれにせよ、コーヒーに接することがあったのは、ごく一握りの人でした。
 飲用の体験と同時に、この頃盛んになってきた蘭学の流れの中でコーヒーに関する海外の文献が翻訳されるようになってきました。現存する我が国の文献で最古のものは、蘭学者志筑忠雄が訳した『萬国管窺』(1782年)です。「…阿蘭陀の常に服するコッヒイというものは、形豆の如くなれども、実は木の実なり…」とあります。
 また、江戸幕府蕃書調所の前身、蕃書和解御用(ばんしよわげごよう)で邦訳した百科辞書『厚生新編』(フランス人ショメル著「家事百科辞典」のオランダ語訳本から馬場佐十郎・大槻玄沢・宇田川榛斎・同榕庵らが、1811年〜1839年頃(文化8〜天保10年)に重訳)には、「コッヒイ」の項が1万語にも及んでいます。
 1823年(文政6年)に来日し、出島のオランダ屋敷に住んだシーボルトは、コーヒーが好きだったようで、『江戸参府紀行』という書物の中で、「日本は我々と一緒にいるとコーヒーを飲むのが好きである」と書いています。

 時代が明治に変わり鎖国も終わると、西洋文化を積極的に取り入れようとする「文明開化」の潮流が起こります。このような西洋文化への憧れとともにコーヒーも輸入されるようになりました。しかし明治の初期の輸入量は0.12t〜5.4tと少なく、実際に広く飲まれるようになったのは明治10年以降のことです。この年、約18tが輸入され、徐々に輸入量も増えていきました(明治21年;60t、明治40年代;80t)。

 「文明開化」の象徴といえば「鹿鳴館」があります。明治政府は、西洋の要人に対して日本が文明国であることをアピールするため、この豪奢な迎賓館を作り、西洋人と日本の上流階級の人々とのパーティを催していました。ここでは全てが西洋式で統一されており、当時の夜会のメニューを見ると、前菜で始まって、最後にコーヒーで締めくくるといった、本格的なフランス料理のフルコースだったことがわかります。明治26年の「天長節夜会」には、コーヒー1200人分用意されていた記録も残っています。

 しかし、一般の人々にとっては、コーヒーは高嶺の花でした。物理学者で随筆家としても有名な寺田寅彦は、『珈琲哲学序説』の中で明治20年頃の思い出に触れて、医者から「おくすり」の牛乳にコーヒーを少量混ぜて香り付けしたものをもらって飲んで、すっかり心酔してしまい「すべてのエキゾティックなものに憧憬をもっていた子供心に、この南洋的西洋的な香気は未知の極楽郷から遠洋を渡ってきた一脈の薫風のように感ぜられた」と語っています。

 明治21年、東京上野の下谷黒門町に鄭永慶が「可否茶館」を誕生させました。これが我が国最初の本格的なコーヒー店(喫茶店)とされています。それ以前にも、明治7年「放香堂」、明治9年「コーヒー茶屋」、明治19年「洗愁亭」など、幾つかの試験的な喫茶店がオープンしたようですが、詳細な記録が残されている「可否茶館」が第一号の喫茶店とされています。アメリカに留学し、帰国後に官吏や教育者を経てこの店を開いた彼は、文学者や芸術家達が集うフランスの文学カフェをイメージしており、50人も収容でき、文房室や更衣室さえ備え、和洋書も多く揃えてある立派なものとなっていまし。しかし、コーヒー一杯が一銭五厘、牛乳入りコーヒーが二銭もし、当時としてもかなり高価なものでした(当時、米一升が三銭五厘・そば一杯が八厘)。そういったことから4年後には閉店してしまいます。
 明治24年に、世相を風刺して大流行した「オッペケペー節」の一節には、「むやみに西洋鼻にかけ、日本酒なんどは飲まれない、ビールにブランディ、ベルモット…まじめな顔してコーヒ飲む、おかしいね、エラペケペッポ、ペッポッポー」と、皮肉って唄われています。コーヒーが人々に受け入れられ、西洋のようにコーヒーを媒介にした文化が日本に根付くまでにはほど遠い状況だったようです。
 その後、明治23年「ダイヤモンド珈琲店」(浅草)、明治41年「カフェキサラギ」(大阪)、明治42年「カフェ・パウリスタ」(銀座)、明治43年「メイゾン鴻の巣」(日本橋)、明治43年「カフェ・プランタン」(銀座)、明治44年「カフェ・ライオン」(銀座)などが相次いで開業しています。明治の学者や文化人らが多く集い、文学や芸術を語り、西洋思想を論ずる場となっていたようです。

 日本でのコーヒー文化の先駆けとして挙げられのは、「パンの会」(コーヒー愛好家の会)です。森鴎外が指導して明治42年に創刊された文芸雑誌『スバル』のメンバーである北原白秋、石川啄木、高村光太郎、佐藤春夫、永井荷風などが日本橋小網町の「メイゾン鴻の巣」を利用して毎月会合をもっていたものです。その店は、本格的なフランス料理と洋酒を飲ませ、コーヒーも本格的なフランス式の深煎りコーヒーを出していました。メイゾン鴻の巣はさながら文士の社交場でした。
 明治時代から大正時代にかけて、このような文化サロンの役割を果たすカフェがいくつかできて、日本にもカフェ文化が根付いていきました。しかし、まだまだ一般の人には敷居の高い店ばかりでした。

 そんなところに登場した『カフェ パウリスタ』は、最初こそ文士や文学青年たちの社交場でしたが、一般の人達が気軽に立ち寄れる値段と雰囲気で、あっという間に大繁盛して、大正時代の最盛期には全国に二十余りの支店を数えるほどになりました。パウリスタでは、高級製容量利点プランタンのコーヒーが当時十五銭だった頃に、パリやニューヨークのカフェを模しながら、しかもコーヒーの普及とサービスに徹して、五銭で飲むことができました。全国に展開したパウリスタの店で始めてコーヒーの味を知った日本人は数知れないでしょう。パウリスタはコーヒーを大衆化した店として大きく貢献しました。

 明治41年、日本人のブラジル移民が始まりました。先駆けとなった第一回農業契約移民団は総勢781名、52日の航海の後、サントス港に到着しました。過酷なコーヒー農園での労働に加え、未知の風土・環境など、彼らの言語に尽くせないような苦闘がありました。彼ら日系人がブラジルのコーヒー生産に大きく寄与したことは忘れてはならないでしょう。

 大正末から昭和初にかけてコーヒーの需要はますます増え、輸入量は昭和12年に約8,571tにもなりました。順調に伸びていたコーヒーの消費は、残念なことに戦争の影響を受け、この年から輸入の制限が強化され、ついには昭和19年に「贅沢品」「敵国飲料」として輸入停止の憂き目にあいました。この頃、コーヒーの味と香りを求めた人々は、チューリップ・百合・大豆・ドングリ・タンポポ・麦・薔薇と、色々なものを焦がし、コーヒーの代用や増量に使っていました。
 戦後、昭和25年に輸入が再開されましたが、輸入されたのはわずか40tほどです。翌26年には約1,500tが、31年には5,000tが輸入されるようになりました。コーヒーの輸入が自由化された35年には10,707tものコーヒーが輸入されるようになり、その後食文化の多様化と国民所得の増大にともなって輸入量は急速に増大し、昭和45年には8万tを越え平成2年には29万t以上にまでなっています。

◆インスタントコーヒーの歴史
 インスタントコーヒーの前身といえるものは、明治時代に、一般の人が手軽にコーヒーの風味を味わうことができるようにと作られた「珈琲糖」「塊雪糖」というものです。これは角砂糖の中にコーヒーの粒を入れたもので、そのまま囓ったり、お湯に溶かせば一杯のコーヒーを簡単に楽しめたといいます。
 現在のインスタントコーヒーは、正式には「インスタント・ソリュブル・コーヒー」と言います。インスタントコーヒーの歴史は古く、明治32年(1901年)に加藤サトリという日本人が、一旦抽出したコーヒーを真空蒸発缶に入れて水分を除去し、粉末化したものが始めだそうです。残念なことに特許を取っていなかったので、二年後にアメリカ人ジョージ・ワシントンという人が特許を取得してしまいました。実際に実用的なインスタントコーヒーが製造されたのは1938年のことです。1930年にブラジルでコーヒーが大豊作になったため、その過剰対策としてネッスル社にコーヒーの粉末化を依頼したことがきっかけです。
 インスタントコーヒーの作り方には大きく二通りあります。ひとつは抽出液を噴霧し、下から200℃近い熱風を送って乾燥させる方法で、コーヒーは細かい粒子となります。これはスプレー・ドライ(SD)と呼ばれます。もう一つはフリーズ・ドライ(FD)と呼ばれるもの。抽出液をいったん瞬間冷凍させて細かく砕き、これを真空状態にすると水だけが蒸発してしまう方法で、コーヒーはやや大きめの、多孔質の粒子になります。

★コーヒーブレイク:「コーヒー占い」
 トルコの伝統的コーヒー「ターキッシュ・コーヒー」では、コーヒーを飲み終わった後、カップの底に沈んだ粉をカップごとお皿の上に伏せて、そこにできた模様によってその日の運命を占う習慣があります。今回はもっと簡単に、コーヒーを飲み干してカップの底にできる模様で占ってみましょう。

※ターキッシュ・コーヒーのレシピ:乳鉢に深煎りの豆を極細挽きした粉と、シナモン等のスパイスを加えてよく擂りつぶします。これを鍋(イブリック)に入れ、水を加えて煮沸し、3回ほど煮立ててから火から降ろします。粉が沈殿してから盃状のカップに上澄みをゆっくり注ぎ入れます。好みによって、レモンや蜂蜜を加える場合もあります。

☆満月タイプ
 今日は何をするにも良い日です。自信を持って強気で行きましょう。すてきな出会いも期待できそうです。

☆半月タイプ
 平穏無事な一日になりそうです。あまり自己主張せず、周りの人に合わせておくと、吉。

☆三日月タイプ
 やや不調な兆しが見えます。先手必勝の姿勢で行動しましょう。今日は早めに帰宅して、ゆっくりと休みましょう。

☆新月タイプ(シミが微かにあるとき)
 ついてない一日になりそうです。何事にも謙虚な姿勢で接しましょう。短気は損気、気長に行きましょう。

☆その他のタイプ(上記の何れもにも当てはまらないとき)
 何が起こるかわからない、そんなスリリングな一日になりそうです。アクシデントやハプニング、何でもあり。良いことばかりとは限りません。

 次回は、コーヒーの生産国や種類、焙煎の種類やコーヒーの効用などを紹介します。

伊崎 > コーヒーコラム二回目、読ませていただきました。今では気軽に飲めるコーヒーが、そんな波瀾万丈のドラマの主役になっていた時代があったんですね。加藤サトリ氏がインスタントコーヒーの原型を作ってからちょうど100年目。時代というのは本当に面白いものです。最終回、期待しています! (12/9-23:44) No.172
KEN1 > 伊崎さん、レスありがとうございます。
前回と今回で、コーヒーの歴史を紹介しましたが、いつの時代にも人間を惹き付けるコーヒーの魅力を垣間見る気がします。次回は、コーヒーそのものについて紹介したいと思っています。豆を選ぶときの参考となれば幸いです(あんまり役には立ちませんが)。
(12/10-20:42)
No.173
宮本 > 有難うございます。やっとゆっくり読めました。ブラジルへと、コーヒーの苗木が渡っていった経緯が、何ともロマンチックで、心躍りました。映画のようですね。・・・そして毎日、「その他のタイプ」を目指して!! (12/12-04:09) No.174
KEN1 > 宮本さん、レスありがとうございます。佐賀は楽しかったようですね。先々代のF氏、元気にしてました?
さて、コーヒーの歴史には、アメリカ上陸の話など他にもありますが、素敵な話を選りすぐり紹介しています。機会があれば、他の話も紹介しますね。ところで、今日のコーヒー占いの結果はどうでした?
(12/12-23:10)
No.175
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Vol.48 魅惑の珈琲(コーヒー・コラム その1) 日付:2001/12/02(Sun) 00:55 No.164 
 皆さん、コーヒーは好きですか?私は、毎日飲んでいます。お気に入りは「まるみや」の「ジャーマンブレンド」。今回から三回にわたり、コーヒー・コラムと題して、色々とお話ししたいと思います。

 今や、私たちの生活に欠かせないコーヒーですが、コーヒーが辿ってきた長い道のりにも、スパイスと同様、数々の歴史があります。コーヒーはいったいどのような経緯で人間に発見され、世界に広まっていったのでしょうか。第一回目は、コーヒーの歴史について紹介します。

 まず、コーヒー発見に纏わる二つのお話を紹介します。それは、「ヤギ飼いカルディ」と「僧侶シェーク・オマール」の二つの伝説です。これは、数あるコーヒー発見伝説のうち、二大伝説といわれているものです。

◆「ヤギ飼いカルディ−エチオピア起源説−」
 このお話は、キリスト教国での発見説です。6世紀頃のエチオピア高原が舞台で、レバノンの言語学者ファウスト・ナイロニの『眠りを知らない修道院』(1671年)に記されているものです。

 ヤギ飼いのカルディは、ある日放し飼いにしていたヤギたちが、昼夜の別なく非常に興奮しているのを発見しました。調べてみると、どうやら丘の中腹に自生している灌木の赤い実を食べたらしいのです。近くの修道院にこのことを告げると、それは試しに食べてみようということになりました。修道僧が食べてみると、気分はみるみる爽快になり、体中に活力が漲ってきました。僧は、早速僧院にこの実を持ち帰り、他の修道僧たちにも勧めました。それからは、徹夜の宗教行事の時に、睡魔に苦しむ僧はいなくなったとのことです。

◆「僧侶シェーク・オマール−アラビア起源説−」
 このお話は、イスラム教国での発見説です。こちらの舞台は、13世紀頃のイエメン山中で、回教徒アブダル・カディの『コーヒー由来書』(1587年)に記されているお話です。

 アラビアのモカ(現在のイエメン)に住む、人気の高い祈祷師であったオマールが、ある日、モカ王の娘の病気を祈祷で癒しましたが、不覚にも王女に恋をしてしまいました。それが王に発覚し、オマールはオーサバの山中へ追放されてしまいました。
 食べる物もなく山中をさまよい歩いていると、一羽の鳥が赤い木の実を啄んでは陽気に囀っているのを見つけました。空腹だった彼は、その木の実を寝床のある洞窟へ持ち帰り、試しに煮出してみると、何ともいえない独特の香りがし、飲んでみると疲れが嘘のように消え去って元気になりました。
 幾日か過ぎたころ、モカの街では疫病が流行り、人々が苦しんでいるとの知らせを聞いたオマールは、その木の実を持って街へ行き、病気の人々に飲ませました。すると、街から病は消え、沢山の病人を救いました。その功績から、罪を許されて再びモカへ帰り、聖者として人々に崇められたということです。それ以降その木の実は病気を治す薬として使われるようになったといいます。

 どちらが事実か、また史実に基づいたものかは定かでありませんが、野生のコーヒーの木は、エチオピアをはじめ、アフリカ大陸のあちこちで見つかっています。きっと、有史以前から生えていたものと思われます。アフリカ大陸は、人類の祖先ホモ・サピエンス発祥の地です。きっと、伝説よりもっと昔から、コーヒーの赤い実を食べていたに違いありません。

 コーヒーの名称の由来についても、コーヒー発見の伝説と同様にはっきりとしていません。現在は、次の二説が有力視されています。

◆アラビア説
 アラビアのブドウ酒に「カーファ」(Qahwa)と呼ばれるものがあり、禁酒の掟のあるイスラム寺院で、コーヒーの実を煮出したものを、酒の代用として「カーファ」と呼んで飲んでいたことに由来するといわれています。カフェインに慣れていない当時の人々には、現在の我々には想像もつかないほど刺激が強く、覚醒を超えた興奮作用や陶酔作用があったようです。

◆エチオピア説
 コーヒー原産国エチオピア南部にある最大の生産地、「カファ」(Kaff a)という地名から変化してコーヒーという名称になったといわれています。

 コーヒーがいつ頃から人々に飲まれ出したのか、真実はわかりません。10世紀初頭、アラビアの医師ラーゼズが残した記録には、「バン」と呼ばれる乾燥したコーヒーの実を砕いて水に浸して煎じ、「バンカム」と呼んで医薬としていた記録が残っています。その後100年後に医学者で哲学者のアビセンナが、「バン」と「バンカム」について薬用だと書き残しているところから、きっと当時のコーヒーは妙薬として愛飲されていたのでしょう。
 その後、コーヒーはイスラム教寺院の中だけに、門外不出の秘薬として伝えられていきます。イスラム教は夜の祈祷など規制が多く、覚醒作用を持つコーヒーは宗教儀式には欠かせないものとなり、眠気を払う霊薬として飲用されていました。

 また、いつ頃からコーヒー豆を煎るようになったのか定かではありませんが、おそらく13世紀頃からといわれています。何かの偶然から、焼けたか焦げたかした木の実を砕いてみたところ、あたり一面に素晴らしい香気が漂い、さらにそれを煮出すと、何とも印象的な黒い色になり、甘味も出て飲んだ後のスッキリした目覚めの効果が一層増すのを発見したのでしょう。生豆から煮出した時の青臭い飲み物は、豆を煎る事によって、より飲みやすい魅力的なものになりました。おそらく寺院の中で飲用された当初は、まだ生豆をその殻と一緒に煮出す「サルタナ・コーヒー」と呼ばれるものであり、途中からは豆を煎ったものを煮出す、いわゆる「トルコ・コーヒー」になっていったと考えられています。

 1330年頃、コーヒーの煎汁飲用の習慣はイラク・エジプト・トルコへと次々と伝えられましたが、あくまでもイスラム教寺院の中に限られ、宗教儀式に用いる門外不出の秘薬とされていました。コーヒーは、眠気覚ましの妙薬としてばかりでなく、コーランで禁止されている酒に代わる飲み物として、密かに飲まれだしたようです。
 一般に広められたのは1454年、アデンの聖者ゲマルディンが秘薬・コーヒーを公開したからと伝えられています。そうして一般信者にその存在が知らされると、寺院の周りにはコーヒーの露店であふれかえり、人々はお祈りの前にコーヒーを儀式的に飲むようになりました。それから徐々にイスラム教圏に広められ、1510年にカイロ、1530年にダマスカス、1554年にコンスタンチノープルにコーヒー店が誕生しました。コンスタンチノープルにできたコーヒー店「カーネス」は、現在名前が知られている最古のコーヒー店(喫茶店)といわれています。

 やがてコーヒーは大変な人気を呼び、コーヒー店は多くの市民や兵士で賑わうようになりました。コーヒーを飲みながら議論したり、情報交換の場として多くの人々の集会場と化すようになり、「賢者の学校」と呼ばれるようになりました。このようなコーヒーの余りの人気に賛否両論が巻き起こり、ついに「メッカ事件」と呼ばれる世界最初のコーヒー弾圧が行われました。
 1511年、メッカの地方長官カイル・ベイは、こういう風潮は風紀や規律を乱し、コーランの教えに背くと考え、宗教学者・法律家・医者などを集め、数日にも及ぶ議論をさせた末に、「コーヒー禁止令」を発布し、コーヒー店の閉鎖、店主の拘束などを断行しました。ところが、当時のエジプトのサルタン・カーンサウフ自身が大のコーヒー好きでした。彼は医師の勧めもあってコーヒーを薬として飲んでおり、しかもその美味しさに魅了されていたのです。禁止令を知って激しく怒り、早速メッカに使者を送り、コーヒーの禁止令を撤回させました。サルタンは、「コーヒーを飲むのはコーランの教えや宗教上の罪悪にはならない」と宣告し、カイル・ベイや支持者を処罰したそうです。

 このようにコーヒーが広まるにつれ、コーヒーに対する弾圧も少なからず起こりました。このような迫害に対してアブダル・カディは、1587年に『コーヒー由来書』(『コーヒー伝承手記』)を著し、コーヒーの